ゼロから立ち上がる会社に学ぶ 東北の仕事論。 朝日新聞気仙沼支局 篇
セキュリテ被災地応援ファンドのこと   昨年2011年の暮れ、 気仙沼と南三陸町を訪ねた糸井重里は 3人の人に、お会いしました。 朝日新聞気仙沼支局の、掛園勝二郎さん。 気仙沼三菱自動車販売の、千田満穂さん。 及川デニムの、及川秀子さん。 お仕事の内容も、立場も、関心も、社会的役割も、 地震のときのことも、ぞれぞれ異なります。 でも、誤解を恐れずに言えば どのかたのお話も、本当に「おもしろかった」。 編集作業をしていても、 すぅっと染みこむみたいな感じが、してました。 静かな興奮に満ちたインタビュー、 おひとりづつ順番に、掲載していきますね。
第1回  元気だそうや、という気持ちで。
千田 今日は、地図のことでしたっけ。
糸井 はい、お話をうかがえたらと。
千田 平成12年、わたし還暦の年だったんですけど、
60歳にもなるとね、
だんだん「生意気」になって参りまして。
糸井 そうですか(笑)。
千田 仲間と酒を飲むたびに
「気仙沼の町は、このままじゃダメだ。
 こんなものがほしい、
 あんなものもほしい」と言って‥‥。
糸井 ええ、ええ。
千田 口にした以上は「絵に残そう」と。
糸井 そうやってできたのが、この地図。
千田 たとえば、この「三陸道のバイパス」なんか
コストの面から言って
誰が考えたって「トンネル」なんですよ。

トンネルを掘って
気仙沼を通り抜けて行く‥‥という構想。
糸井 はい。

※画像をクリックすると拡大します。
千田 でも、ほんとそれでにいいのかなぁ‥‥と。

だって「気仙沼を通ったよ」というだけじゃ
「こころに何も残らない」じゃないですか。
糸井 こころに。
千田 何かが「こころに残る」ようにしたい。

であれば、海から気仙沼を眺められるように
「橋」だな、ということで
ま、強引に橋をかけちゃったわけです。
糸井 なるほど。
千田 もちろん、現実には橋はかかってませんよ。

「次に来るときは、
 子どもたち連れて来よう、孫を連れて来よう」と
そんなふうに思ってほしくて
まぁ、勝手な絵を描いたというわけです。
糸井 へぇー‥‥。
千田 そういう地図、なんです。
糸井 いやぁ、噂はよく聞いてたんですよ、
気仙沼の人たちから。

たしか新聞に挟み込んだんですよね?
千田 この地図、つくったのは平成12年なので
いまから11年前ですけど、
当時、これの「4分の1サイズ」のものを
4万枚印刷して、家庭に配りました。

家のなかでしょっちゅう目にしてもらって、
「橋っていいよな」と
いつの間にか思ってもらえたらいいなって。
糸井 「いつの間にか」(笑)。
千田 そんな思い上がりで、この絵を描きました。

で、こっちが
今回の「津波以後」に、つくった地図です。
糸井 おお。

※画像をクリックすると拡大します。
千田 復興の動きに関しては、
やはり
「議論ばっかりで、なかなか前に進まない」
という状況はよくないので
津波から3カ月の「6月11日」を期して
こちらも4万枚お配りして、
「みなさん、少し元気出そうや」と。
糸井 こういう町づくりを
みんなで考えてみてはどうか‥‥と。
千田 陸のほうは特別なことないんですけど
見ていただきたいのは、海のほう。
糸井 えー‥‥。
千田 わたしが提案したのは
もう、埋め立てなんかやめにして、
500メートルごとに
いつでも避難できるようなビルを建てて
津波が来たら
みんな、そこへ逃げ込むという計画。

どうして500メートルごとかっていうと、
人間が急いで歩いたら
1時間6キロメートルって言いますから。
糸井 つまり‥‥。
千田 1分になおすと、100メートルでしょう。

500メートルごとなら、
5分以内に近くのビルに逃げこめるから
命だけは
なんとか助かるんじゃないのか。
糸井 つまり、海の近くはなるべくそのままで
一定の間隔で大きな建物をつくる。
千田 それから、議論もいろいろありますけれど
鹿折に流れた大きな船、
あれはやっぱり残しておくべきであろうと。
糸井 あの、有名になっちゃった船。
千田 たしかにいまは、まだつらいですよ。

でも、こういう歴史があったことについて
学ぶことのできるものを「残す」ってことは、
やはり大事だと思っているんです。
糸井 そうですよね。
千田 今回、地図でいちばん表現したかったのは、
「はやく復興しないと
 商売してる人たちがダメになってしまう」
ということでした。
糸井 ほう。
千田 行政が「まずは埋め立ててからです」とか
言っているうちに、
商売というのはダメになってしまうんです。

ですから「人の命」と「仕事」と
その両方を守っていくための妥協点を探り、
両立できる方法はないだろうか、
そういう意味でこの地図をつくったんです。
糸井 つまり、たんなる「夢」じゃない。
千田 逆に言えば‥‥「花の道」ができたら、
気持ちが和やかになるじゃないですか。

ぼくらが「こういう町にしたい」という像を
絵にした地図なんです。
糸井 でも、こうして改めて見ても
つくづく「平地」の少ない土地ですよね、
気仙沼って。
千田 いま、4カ所に建築制限がかかっています。

今回の震災で
気仙沼の「5.6%」が被災しましたけど、
そのうちの「5%」くらい。
糸井 ええ、ええ。
千田 でも、気仙沼の経済の「85%」くらいが
その「5%」に集中していたんです。
糸井 つまり「沿岸部」に。
千田 そう、沿岸部が壊滅したということは、
気仙沼の産業が
ゼロになったといっても過言ではない。
糸井 そうですね。
千田 気仙沼という町は
魚市場でがんばっていこうということで、
震災前は
「水揚げ300億」を目標にしていました。

実際には、250億円前後を推移していて、
日本で7番めくらいだったんです。
糸井 そうでしたか。
千田 それらを水産加工し、付加価値をつけて、
売上としては
「1000億」を目指していました。

目標にはなかなか届かなかったけれども、
それでも、
こんな小さな町でも
700億、800億を売り上げていたんです。

その経済が、ひっくり返ってしまった。
糸井 ‥‥はい。
千田 復興についての議論も、百出でした。

たとえば「水産加工」については
「山手のほうでやったらどうだ」という意見も
出たんです。

しかし、水産加工をやっている人たちは、
「山手じゃ無理だ」と言います。
糸井 それは、何か理由が?
千田 これまで、水産加工の工場というのは
海から数十メートルの場所に建てられていました。

なぜなら、水産加工業には
1日に、何百トン何千トンという量の海水が
必要になるから。
糸井 そうか、そうか。
千田 真水だと商品が傷んでしまうんですね。
糸井 つまり、山のほうで水産加工をやるには
ものすごく長いパイプを引く‥‥
みたいな理屈になっちゃうんですね。
千田 それは、なかなか現実的なことではない。
糸井 ええ、そうでしょうね。
千田 いろいろお聞きしてみると
わたしたちが想像していたのとちがう話が、
たくさんたくさん、出てきたんです。
<つづきます>
2012-03-07-WED
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第1回 元気だそうや、という気持ちで。 2012-03-07-WED
第2回 船から降りた、くやしさ。 2012-03-08-THU
第3回 人口を減らさないために。 2012-03-09-FRI
第4回 氷の水族館、流された本屋。 2012-03-12-MON
第5回 最高の相棒。 2012-03-13-TUE
 
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