YAMADA
天童荒太さんの見た光。
対話するように書いた物語。

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遠まわりの中で、つかんだこと


※今回は、天童荒太さんのモノローグでおとどけします。
 念願の東京に来て、どんな大学生活を送ったのか──?
 現在までのライフストーリーを聞くインタビューです。
 どの年齢の話も、真剣に、語ってくれているんですよ!
大学は、明治大学の演劇学科を、選びました。

日大に映画をやるところがあったんだけど、
何しろ授業料が高くて払えないし、
映画をやりたい奴が映画だけをやっていては
「負ける」と思っていたんですね(笑)。

「映画の基本は演劇だから、演劇を基礎として
 しっかり身につけていたほうが、後々武器になる」
とか、思っていました。

演劇学科の中にも、
やっぱり映画をやりたい奴はいました。

ぼくは、先輩後輩みたいなのが、
なんかキライで、演劇を学ぼうと思った割に、
演劇サークルには、入らなかったんですよ。

自由を求めて映画とか演劇とか
やってるところもあるのに、
たかだか二、三年先に生まれた奴に
理不尽な命令を受けるなんて、
耐えられないと思ったんです。

それは、今でも少し後悔しているんですけど。
入っていれば、
サークル内での出会いがあるとか、のちのち
女の子の後輩とかも入ってきたのになぁ、と。

サークルにも何も入っていないから、大学時代に、
女の子との接点がほとんどなくて……
あれは、失敗したなぁ(笑)。

将来、映画の世界に入るつもりだったから、
大学に入ったら、自主映画を作りたいわけです。
でもサークルに入ってないから、
機材も何もなくて、ふだんは
八ミリカメラを買うためにバイトしていたんです。

バイトのひとつがNHKホールの清掃で、
そこでYMOの凱旋コンサートも観るんです。
まさかのちのち
坂本龍一さんと話せるなんて思いもせずに。

大学の授業は、残念だけど
自分にはあまり面白くなかった。
演劇学の、学のほうが主体で、
文学的にどう観るかって感じで、退屈してましたね。

やはり活動がしたくて、だけど、
そういうときに集まる奴って、みんな、
「サークルに入るのがイヤだ」っていう
連中ばかりだから、ひとクセもふたクセもあって、
まとまりなんか、ない(笑)。

そこに誰も気づかないまま、焦りのなかで、
一年の終わりに劇団を作っちゃいました。

ただ、ぼくはあくまで
映画をやりたかったから、
映画部門の担当で、演劇は美術とかを
手伝うだけのつもりでいたんです。

けど、みんな自己主張は強いわ、
ちゃんと集まらないわで、瓦解するわけです。

瓦解しそうなときには、
もう、集まって練習したものだから、
何人かが未練もあって、

「これを無駄にしていいのかよ? どうすんだよ?」
「やっぱり、とにかくやろう」
「脚本、どうするんだ?」

人数が減っちゃったものだから、
用意してたものはもうできない。
既成のものよりオリジナルがいいんじゃないかって
話になって、ぼくが映画をやりたいために
シナリオを書いていたもんだから、
「おまえ、書けばいいじゃん」
っていうことになりまして。

みんな、自己主張の強いやつらばかりで、
出たがりなんですね。脚本なんて書かない。

演出も誰もやろうとしないし、
人数も減っちゃってたから、
仕方なしに、演劇の実作のことなんて、
ほとんど何も知らないぼくが演出して。

全員出るほうに回って、
照明をやるやつもいないから、
照明もぼくがやりました(笑)。

でも、必要は発明の母って感じで、
そのとき演劇も
ちゃんと勉強するようになったんですね。
照明も本を何冊も借りてきて、
いろいろ研究して、のちには秋葉原に通って
自分で照明器具を作ったりもしました。

で、その劇が幸い
あまり悪い評判じゃなかったものだから、
もうしばらく続けることにしたんですね。

演劇は、当時小劇場ブームで、
学生演劇もエネルギーがあって、
おもしろかったんです。

東京に来てから、つかこうへいさんの
『熱海殺人事件』を観たり、
野田秀樹さんが駒場東大でやっていた頃の
夢の遊眠社も観たりしてショックを受けましたし、
その後、唐十郎さんの赤テントも、
舞台だけでなく、
ビデオ上映会にまで通うようになっていきました。

四国の田舎者だったし、愛媛って当時はとても
演劇後進県だったんですよ。
高校の演劇サークルの四国大会に
愛媛県下の学校だけは
参加が許されていないって、
ぼくが三十歳ぐらいで
NHKの仕事をしたときにも聞きましたからね。
この点、少しは変わっててほしいんだけど、
いまはどうなのかな。

ともかく、環境が環境だっただけに、
十八、九の頃は
演劇ってものへのイメージが古かった。

カツラを被って
「おぉ、ロミオ!」
みたいなものかと思いきや、
実際はとんでもない。
唐さんだけでなく寺山修司さんや、
いわゆるアングラもまだまだ元気で。
むろんかっちりしたものもあったけど、
何でもありじゃないか、とワクワクしましたね。

どんどん自分の内面の枠が広がって、
表現に対する視野も
啓発されていったところがあります。

ちなみに、当時、学生演劇として
やられてた三宅裕司さんとか、
渡辺えり子さんとか、「青い鳥」とかの舞台も
同時代人として目撃してますよ。
みなさんその頃にもうすごく面白かった。

演劇の勉強は、後で、非常に生きてきましたね。

たとえば映画と演劇と小説のセリフって、
ぜんぶ違うんですけど、
結果的には、今はそれをぜんぶわかって
表現できるようになっています。
まだ使いこなすというところまでは
行けてないにしろ、ですね。

あと、『永遠の仔』などでも
随所に演劇の技術を用いてます。
象徴性とか人物配置。
台詞の背後にある感情のひだが、
他人の会話によって、
いかに引き出され、変化するかとか。

本当に重い傷を受けた子どもたちの物語ですから、
その内面の叫びや悲鳴やため息を、
ごまかさずに丁寧にすくい取って書いてゆきたい。

でも、そのままだと、一般の読者にはつらすぎて、
かえって届かなくなってしまう。
彼らのことを理解してもらうには、ある程度、
整理して順序だてないと、
伝わらないと感じたんですね。
それを支えてくれたのが、演劇の構造なんです。

だから、遠まわりしていることが、
意外に生きているなぁ、なんてよく思っています。

※次回は、明日におとどけします。
 大学の終わりごろ、就職か、創作か?
 悩んだ天童さんが過ごした二十代のお話です。
 天童さんの言葉への感想やメッセージなどは、
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 こちらまで、件名を「天童さん」としてお送りください!





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第1部
「幻世の祈り」
第2部
「遭難者の夢」
第3部
「贈られた手」
第4部
「巡礼者たち」
『家族狩り』は5月下旬まで刊行され続けている作品です。
天童さんの言葉への反応は、件名を「天童さん」と書いて、
postman@1101.com に、対話するようにお送りください!
インタビュアーは「ほぼ日」の木村俊介でおとどけします。

2004-05-10-MON

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