その6

カワイイ、ばんざーい。

芝崎
ちょっと別な話になってしまうんですけども、
「生活のたのしみ展」の中には
「カワイイ」という要素もあるように思います。
いくら年を取っても
カワイイものが好きっていうのを感じるんです。
日本独自の感覚かもしれませんが。
糸井
「カワイイ」ばんざい、です。ぼくは。
でもそれが国際語になることによって
「カワイイ」の枠組みが出てきちゃいそうですよね、
カワイイかそうじゃないかのジャッジが、
グローバル化することで
逆に不自由さが出てくるという、
非常に珍しいケースだと思うんです。

ぼくが「カワイイ」という言葉の凄みに目覚めたのは、
80年代の初めに『ビックリハウス』という月刊誌で
雑誌の中に間借りして雑誌をつくるみたいな感じで
「ヘンタイよいこ新聞」というコンテンツの
編集長をやっていたときのことです。
「カワイイとは何か?」っていうお題があって、読者から
「10円玉の10の下のところについている
リボンのようなものがカワイイと思います」
というようなハガキが来て、ジンと来るわけです。
そうかと思うと、
「お父さんがモモヒキで家の中をフラフラしているのは、
妖精のようでカワイイと思います」って。
芝崎
おおお(笑)!
糸井
もうたまんないですよ。
人がカワイイと言ってる数だけ「カワイイ」があるわけで、
それは共感されない可能性のある主観なんですね。
そして、それはすべてアートだと思うんです。
その10円玉の「リボンがカワイイ」は
他人に共感されたことで、
価値を持っちゃったんですよ。
なかには読者とぼくの2人しかいない共感や、
3人しかいない共感が、無数に星の数ほどあるというのが、
まさしく「生まれてよかった」ということの
具現的な現象だと思うんです。
「カワイイ」こそ広まれ、
ティンカー・ベルの粉のように広まれ。
ぼくは、いまでも、「カワイイ」って言葉を
そんなに使いませんけれど、
実は「カワイイ」をずっと愛しています。
「美しい」が「カワイイ」を含んでいないと
意味がないとか、そういうことも思っています。
芝崎
昔はこういう雑誌を作ってると、
いいものとか素敵なもののことを
「カワイイ」とイコールで言ってしまった時代が
あったと思うんです。
実際いま「カワイイ」はいろんなものに使うけど、
なんとなく「いい」とか「きれい」とか
そういうものだけじゃない、
ちょっと幼さみたいなことだったり、
ニヤッとしてしまうものだったり、
みんなが「カワイイってこういうことだよね」って、
言葉に言えないけど思っていることに
使われているように思います。
糸井さんだとそれを言葉に表せるのかなと。
糸井
ぼくにとって「カワイイ」は、
「ぼくがいないとダメなんじゃないかって
ちょっと思わせるもの」です。
幼さっていうのももちろんそうですし、
キリッとしてるんだけどかわいげのあるものって
ありますよね。それは、
「ぼくがそこの君の良さを、いま見たよ」
って言ってあげたくなる弱みというか、
どこかで円が閉じてない感じです。
それはちょっと色気にも似ているんですよ。
芝崎
以前「チャーミングなひと。」という特集を組みました。
そのチャーミングという言葉だと
グローバルに通じるんですけど、
「カワイイ」は、それを含んでいるけれどちょっと違って、
でも、かなり近い言葉かなと思っています。
糸井
とっても近いですね。
「チャーミング」の中には磁力が入ってるんですよね。
引きつけるマグネットが。
でも、「カワイイ」はマグネットない。
ほっとかれるかもしれないんです。
そっちのほうがぼくは
人間の感性としては高度だと思う。
価値観として。
芝崎
そっちのほうがアートですね。
糸井
アートですね。精神が生み出した価値観としては、
「チャーミング」よりも機能が要らないわけだから、
「カワイイ」はいいですね。

このあいだ、三國万里子さんが新しく作った
気仙沼ニッティング用の見本の
プレーンなセーターがあって、
三國さんというのはもともと
「プレーンなセーターを作りたくなかった」人なんです。
その人が、ぐるっと回って、
ついにプレーンなセーターを作った。
そして、ただプレーンなセーターのスケッチと、
三國さんの今度のセーターのスケッチを比べると、
今度の提案は「カワイイ」んです(笑)。
ぼくはこの作家がこういう育ち方をしてるのを
目の当たりにして、本当に嬉しかったんです。
で、そのかわいげはやっぱり、
「俺が着なきゃ」って思わせるんです(笑)。
ただのプレーンなセーターなのに。
何も地がないところの編み跡が、
「これがまたいいんだよね」って言わせる
プレーンなんですよ。
三國さんという人にある、
怖いところとカワイイところのバランスを見ると、
大作家になる可能性のある人だと思います。
いずれぼくは「志村ふくみと三國万里子展」を
セットでやりたいんですよ。
芝崎
作っている人の魂が、
作っているものに移ってますよね。
糸井
入るんですよねえ。
芝崎
魂だから怖いけど、欲しいような(笑)。
糸井
「魂」はいいですねえ。
ぼくは「魂」って言葉を
年を取ってからどんどん使うようになりました。
だって、いま死んだ死体と、
死にそうだけれど生きている人が並んでるとして、
何が違うかというと、魂があるかないかですよね。
ましてや生きてるほうの人が
ぼくの名前を呼んでくれたとしたら、
もう何もかもが違っちゃいますよね。
厳密にモノに解体しようとする人には
わからないことかもしれませんが、
そこなんですよ。
「生きているのとそっくり」でも、
死体には生きているという意味がないわけで、
それは数字の「2」と、
2個あるリンゴの「2個」とは全然違うのと同じで。
間違いないのは幻のほうなんですけど、
間違いがあっても2個のほうがいいですよね。
芝崎
「カワイイ」がそういう魂と
つながっている部分があって、
それが作り手の感情なんでしょう。
糸井
うん。最終的な感覚というのは、
プラナリアとかそういうところまで遡って、
多分イエスかノーかのとこに行くんですが、
イエス・ノーという言葉に意味がなくとも、
快・不快っていうふうにそれを翻訳すると、
意味があるんです。
で、自分が生きるのに心地よいほうが「快」で、
自分が生きるのに困るほうが「不快」ですよね。
それはもうあらゆる原始的な生物にも言えることで、
ずーっとそれを延長していくと
ぼくらの感性にたどり着くわけで、
やっぱり「快」っていうのの中に複雑なものが出てきたり、
「不快」の中には、
以前自分の生命を脅かしたものがあったり。
クイズみたいになっちゃってるその判断を、
選り分ける力がぼくらの心で、
それって案外自分の中にあるんです。
そこのところにぼくらのいまの
「たのしい」課題があるのかな。
芝崎
生き物としてずっとそれを選んできて、
こういうふうに人間になった。
それがDNAの中に入っている。
糸井
そういうことですよね。
芝崎
アナログの音楽を聞くと気持ちいい、ということに、
その理由はわからなくても、
なんとなくみんな気づいています。
その快・不快の「快」が
「たのしみ」とイコールなのかもしれないですね。
糸井
そうだと思います。
「人間は自然に寝返りを打つ」
っていうのがぼくのひとつのオポチュニズムなんです。
同じ格好はできない。
寝返りを打つというのはロジックで考えたことじゃなくて、
自然にやっていることですよね。
精神にもそういう部分があって、
ずっと安定していると、床ずれするんです。
芝崎
寝返りなんて打たないほうが
熟睡できるんじゃないかと思っても、違うんですよね。
人間も何か違う意味で
ちゃんと寝返りを打ってるほうがいい。
糸井
毛細血管まで含めて自分ですから。
寝相が悪いほど、ぼくは元気だと思います。
だから赤ん坊は寝相がひどいじゃないですか。
でも、寝相がよくて元気な子もいるので、
そこはあまり簡単には言えないんですけど、
病人が寝返りを打てないのは確かですよね。
芝崎
なるほどね、寝返り。
それが先ほどの「ちょっとばらつきを出す」とか
そういうことと、全部つながってますよね。
糸井
周りの人にも影響を与えることができるんですよ、
そのばらつきがあったほうが。

(つづきます)