きょうから2回にわけて、
高橋さんのインタビューをおとどけします。
まずは、大学からドイツ修行時代、
そして日本に帰国するまでの、青年期のお話です。

学に入る前、ですか。
なんにもしてないですよ(笑)。
ある程度は工作少年みたいなところもあったし、
コイル巻いてモーター作ってみたりとか、
鉄道模型をやってみたりとか、
いわゆる男の子な感じのことはしていましたけれど。

美大に進んだのは、
そんなに自信があったわけでもなく、
ちょっと大学くらい行っておこうか程度のことです。
それもいわゆるアート、絵描きは無理だろうけれど、
デザイン科だったら何とかなるかなって、
知らないで多摩美のグラフィックと立体を受け、
たまたま通ったのが立体科でした。
「美術学部デザイン学科立体デザイン専攻
 プロダクトデザイン専修クラフトデザインコ-ス」
で、ガラスプログラムを勉強した、
ということになります。

1、2年は基礎で、3年でこまかく分かれるんだけれど、
そもそもプロダクトデザイン専修に入ったこと自体、
しまった、間違ったな、と思ったんですよ。
そこは就職コースで、みんな、
車のレンダリングみたいなの、すごい上手でね。
しかもすごく怖い、特攻隊の生き残りで
柔道何段だという先生のもとで、
先生の言いつけで体育会の空手部にも入りつつ、
「B4の紙に1000本線を1日で引け!」、
「3回遅刻したらクビ!」みたいな厳しい授業を、
それでも、2年受けました。



ガラスに行ったきっかけはね、
3年になるとき、
「ガラスに行きたいやつ!」
って先生に言われたタイミングで
ハイッ、と、すぐに手を挙げたんです。
厳しい就職コースから離れたくて。
つまり、ガラスに行ったきっかけは、
ドロップアウトに近いんですよ(笑)。

多摩美にガラスのコースができたのは
ぼくが1年のときのことです。
最初の頃は設備からつくり始めたような状態で、
1、2年のとき、横目で見ていたらね、
アメリカの、今見るとファンキーな、
ヒッピーが窯作ってるみたいな本を見ながら、
いっしょけんめい、窯を作ってました。
どうやってガラスを溶かしたらいいのかも
わからないような状況だったようです。
溶かす燃料すらよくわかっていなかった。
さすがにぼくが3年のときには、
できて2年経っていたから、
それなりにプログラムも、
ある‥‥ような、ないような、
それでもとにかく学校に行ってなにかつくることが
できるようにはなっていました。



当時、伊藤孚(いとうまこと)さんという、
学内で教えながら自分のガラスの仕事もしているという
作家の先生がいらしたんですよ。
その人のやりかたを見るのがいちばんいい勉強でした。
伊藤先生はね、多摩美の日本画を出たけれど、
ほんとうはガラスがやりたくて、
けれど当時はどこにもガラスの教育機関がなかったので、
船木倭帆(ふなきしずほ)さんという人とともに、
日本一の技術をもつカガミクリスタルっていう
会社に入って、工場で働いていた人なんです。
ほんとにきつい職人仕事を知っている、
叩き上げみたいな人。
だから、ぼくらは、そのカガミクリスタルの
ガラスの吹き方をいろいろ教えてもらうことができた。
カガミクリスタルは、分厚いきれいなガラスに
グラビールといって、絵柄を削って入れたりとか、
そういう技術ですから、
ぼくがいまやっていることとはずいぶん違うんだけれど、
とても勉強になりました。

卒業しても、就職コースからは外れていたので、
ガラスをやっていくしかないな、みたいな感じで、
研究室に残って副手になることにしました。
そうして2年経った頃、
ガラスを続けるにはどうしたらいいか、
ちょっと悩みました。
伊藤先生のように工場に入るというのは厳しそうだし、
じゃあ外国に行くのがいいのかなと。



そうそう、学部生のときにね、
京都で、国際クラフト会議ってのがあって、
そのころガラスをやっていた第一世代の人が
結構集まったんです。
そこで、スライドレクチャーやったりとか、
日本では絶対そんなことやらないだろうなと思うような、
みんなで手のうちを見せるみたいな会合があって、
これって結構オープンな世界なんだって嬉しくなって。
年齢とかそういうことは関係なく、
わりと横並びに話してくれるっていうのかな。
これ、すげえ、オープンなところにいるぞ、
いい世界だなと思ったんです。

そのことを思い出して、
ますます外国に行きたくなったけれど、
留学するようなお金はない。
そう思っていたときに、デンマークのね、
フィン・リュンゴーという
けっこうおじいちゃんのガラス作家が、
日本人のアシスタントを連れて
多摩美にデモンストレーションに来たんですよ。
その人が、ぼくに、
ドイツのエーデルマンという作家を
紹介してくれたんです。



さっそくドイツに手紙を書きました。
すると、アシスタントとしてどうぞ、
という返事をもらった。
それで、あわてて3か月だけドイツ語を勉強して、
親に頼んでお金を借りて、渡欧しました。

親分のエーデルマンという人は、
企業の技術やデザインの顧問的な仕事もしながら、
ガラスの作家でもあるという人だったんだけれど、
工房を持っている人じゃなかったんです。
あれ? と思ったら「つくってる途中だ」って(笑)。
町外れに、19世紀末のね、
給水塔のレンガ作りのすごい建物があって、
そこを工房にするっていうんです。
そこに、亡命してきたポーランド人のグラビール作家と
いっしょに住むことになって、
ペンキ塗ったり大工仕事をするところから
アシスタント生活がはじまりました。

そうこうしてるうちに窯屋さんが来て、窯を作って、
やっと親分のガラスの仕事が始まりました。
親分は、つくったものが貯まったら、
フランクフルト・メッセに持ってって、注文取るんです。
1年分ぐらいの注文を取って、
次の1年はその仕事をする。
そういうヨーロッパのスタイルも新しく感じました。



窯に火が点いたのでぼくも自分のガラスがやりたくて、
つくりたいものをいろいろ紙に描いて持ってったら、
「ま、何か作れ」みたいな話になって、
1週間に1日だけ自分の日を貰って、
自分のものをつくりはじめるようになりました。
工房がけっこう広かったので
コーナーを貰って置いてみたら、
これが、意外と売れたんですよ。
それで「あ、けっこういけるかも?」って思っちゃった。
そのうち、ミュンヘンのギャラリーから
個展をやらないかという誘いをいただいて、
それがまたけっこう売れちゃった。
そうなるとね、
「おれ、この世界で行けるかも?」
なんて思っちゃいますよね。
じゃあ、どこにいても一緒じゃないかな、
と、日本に帰ってきちゃったんです。
それが26歳か、27歳、そんな頃です。



帰ってきてからは、デパートの配達の
歩合制のバイトとかしながらお金を貯めつつ、
濱田能生(はまだよしお)さんていう、
濱田庄司さんの四男であるガラス作家のところに
手伝いに‥‥というか遊びに行っていました。
濱田さんはガラスを吹いて
ちゃんと作家として暮らしている、
日本でほとんど唯一の人だったんですね。
その人から「お前、早いところ自分の仕事場作れ」
みたいなふうに言われて、
でもどうしたらいいですか? と。
「お前、横浜育ちか。
 地元でやるのがいちばんいいぞ」と。
うちは引越家族だったし、
親類縁者がいるわけでもないから、
地元意識は薄かったんだけれど、
それでも県庁に行って話を聞くべ、と出かけたんです。
神奈川県内で過疎地で
誘致をしてるみたいなところ、ありませんか、って。
そうしたら、この、相模湖の周辺を紹介してくれた。
斜面の芋畑でよければと、
安く借りられることになりました。
そこからは、土地を平らにして、
プレハブを建てて、窯をつくって、
やっと自分の作品をつくるようになるわけです。
20代の終わりの頃でした。

(つづきます)


「ほぼ日」の武井です。
ぼくがはじめて買った高橋さんのグラスは、
こんな、コップでした。



広尾にあった「ギャラリー介」で
店主の井上典子さんから、こう説明を受けました。
「高橋さんのグラスで飲むと、
 やすいワインでも
 ほんとうにおいしく感じられるんですよ」と。
その時、ワイングラスは予算的にむりだったのですが、
コップなら──、と、ひとつ買い求めたのが、
このグラスでした。

有機的なフォルムというんでしょうか、
つるんと産み落とされたたまごのようでもあり、
すべすべと手にしっかりなじんで、
でもすべりおちることもなく、
そして、軽い。
しかし、ぱきんと割れそうな脆さもなく、
ひじょうに男性的なものだと感じました。

そして家にもどって、水を飲んでみて、おどろきました。
「するっ」と口に入る、その感じは、
いままで使ってきたどんなコップとも
ちがうものだったからです。
ワインをそそいでみました。
真っ赤なワインは、上等なものではなかったのですが、
高橋さんのグラスに入ると、
なんだか「とろん」と揺れるような
ふしぎな質感に見えて、
その見た目からしてもう、おいしそう。
口にすべりこむワインは、
なるほど井上さんが言うとおり、
「おいしい‥‥」と思える味でした。
いつものワインよりも、ずっと。

この謎を解明したいと思ったのですが、
高橋さんにおたずねしても
「さあ、どうしてだろうねー?」と
ちょっとはぐらかします。
そこで、高橋さんとふるい友人でもあり
ガラスの仲間でもある、プラハのshinoさん
コメントをいただきました。
橋禎彦さんのグラスの口当たりのよさは
ワイングラスだけじゃなくて、コップでも同じです。
だから、特別な時だけじゃなくて
普段遣いのコップとして
ぜひ使ってもらいたいと思います。

技術的な話をすると、
一般的にグラス(drinking glass)は
工業製品(量産)です。
工業製品の中にも口の処理には若干の違いはありますが、
高橋さんは「宙吹き」。
工業生産と宙吹きでは工程が全く別物ですから、
まずそこが大きく違います。

といっても、宙吹きの方が
優れているといってるんじゃないんですよ。
特にワイングラスは
ID(インダストリアルデザイン)の方が
いいものが多いと思ってるし、
宙吹きのグラスが全て口当たりがいいなんてこともない。
それは作り手(の技術)によってまったく違うことです。
土ものだって、同じ土を使ってろくろをひいても
作り手によって全然違いますよね。
仮に同じデザインでも、
職人さんの手が変われば全然違う。
それと同じで、ガラスも作り手の息の入れ方や
仕上げの仕方で全く違うものになります。

で、それを踏まえた上で、
高橋さんのグラスの口当たりは、
そういう工程の違いの問題じゃない気がします。
もちろん高橋さんの技術の高さはお墨付きだし、
実際の口当たりだって偶然でもなんでもなく、
それによって生み出されてるものなのですが‥‥。

例えば、絹、木綿、麻の肌触りの違いを
ガラスの制作工程や
ブランド(もしくは作り手)の違いだとすると
高橋さんのグラスの口当たりの違いは
木綿なら木綿の中での肌触りの違いに
近いのかもしれません。
絹も木綿も麻も、
それぞれ特有の優れた質感(触感)があるんだけど、
その中でも更に上等の肌触り、というようなもの。
絹と比べてどっちが上ということじゃなくて、
木綿としての上等の肌触り。
もっとパーソナルな気持ち良さに迫るもの、
例えば、Tシャツの襟ぐりの着心地感とか、
「この音楽好き」みたいな実に個人的な感覚。

通常、私達が食器を選ぶ時、
色や柄、かたちといったデザインに左右されます。
これは個人の嗜好の範疇といえるものです。
もうひとつは持ちやすさとか洗いやすさといった
使いやすさ=いわゆる機能、に即したこと。
で、高橋さんの「口当たり」は機能ではない。
どちらかといえば個人的な嗜好に近いもの、
更にいえば、もっと人間の生理に
直接働きかけるようなものだと思います。
使い勝手ではなくて、あくまで使い心地。

ワインもそうですが、コーヒーや紅茶等、
意識して飲む嗜好品に関しては
それなりに作法やうんちくもあるし、
加えて個人の趣味も
選ぶ器に反映されている気がします。
でも、日常的なものにはみな比較的無頓着。
以前から、私は友だちに
ご飯茶碗はいいもの使って! と
言い続けてるのはそこで、
普段使いのものほど
もっとパーソナルな心地よさを求めた方が
幸せになれると思うんです。

日本人はご飯茶碗やお箸に
「自分の」を持ってるでしょう?
あんがい無頓着で、
積極的に自分で選んでない人もいるでしょうけれど、
そういう人ですら、自分の箸を誰かが使うのは
嬉しくないと思うでしょう。
これはとてもパーソナルなことで、
日本人独特の感性といっていいと思うんです。
高橋さんの「口当たり」は
そういうより人間の生理に
フィットするもんなんだと思っています。
(だから当然それを心地よくないと
 思う人もいるでしょうね。)

その人にとってとても大切なもの。
それに口をつけた時に、にこっとしたり、ほっとしたり、
ほろっとしたり‥‥
高橋さんのグラスって、
そういうものになれるんじゃないかな、
と思っています。
(shino)

shinoさん、どうもありがとうございました。
たしかにぼくにとっても
高橋さんのグラスはとてもパーソナルなもので
お客さんがきても「これは自分の」と
ゆずらなかったりしました。
先の震災で、そのグラスが割れてしまったので、
今回の「コップ屋」展、
ぼくもとてもたのしみにしています。
(シェフ)

2011-06-19-SUN
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その1 movie まずは動画で高橋さんの「宙吹き」のようす、ごらんください。
その2 interview タカハシ青年、ガラスの道へ。
その3 interview 巻いて、膨らまして、広げる。

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