ほぼ日刊イトイ新聞 フィンランドのおじさんになる方法。

第28回 湖に生きる。 武井義明

キヒニオの釣り同好会で世話役を引き受けている
69歳のマルッティさんは、
キヒニオで生まれて育った、
生粋の「キヒニオっ子」です。
子供たちが巣立ち、仕事をリタイアした現在も、
奥さまとふたり、キヒニオに住みつづけています。

この村で、彼のことを知らない人はいません。
それどころか、この村の人たちにとって、
何かというと相談する相手として、
なくてはならない存在になっています。

歯が抜けて、スゥスゥと息がもれる声で、
マルッティさんは、ゆっくりと喋ります。

「相談といっても、
 他愛ないものがほとんどだよ。
 誰それに会いたいんだけれど、
 あいだに入ってほしいだとか、
 新しくこんな仕事を始めようと思うんだが
 どうしたらいいだろうとか‥‥。
 もちろん、釣りに関する相談も
 たくさん受けるよ。
 いまはどこのポイントが釣れるかい、というふうにね」

マルッティさんの家には、そんなお客さんがたえません。
ぼくらが取材に訪れた日も、
ふるくからの友だちが、遊びにきていました。

「彼は、ずいぶん前に、仕事を探して
 スウェーデンに越していったんだ。
 でも、夏は、こうして戻ってくるんだよ。
 小学校の、同窓なんだ」

ふだんはスウェーデン語を話す友だちも、
こうして故郷にもどって、故郷のことばで、
昔なじみと時間をすごすことが、
うれしくてたまらない様子です。
マルッティさんの奥さんが淹れてくれたコーヒーを
ゆっくり飲みながら、
とりとめのない話をつづけています。

「なぁ、小学校のときは、日直がたいへんだったな」
「そうだ、早く行って薪をくべなくちゃならないからな」
「冬はスキーで通ったよな」
「ああ、自家製のスキーでな」
「べんとうを持ってな」
「ああ、そうだ、べんとうだ」

そんなふうに旧交をあたためているなかに、
ぼくらのような異国の人間が入り込んでいても、
マルッティさんたち、まったく意に介さないというか、
「どうぞ、どうぞ」と、ウエルカムなんですね。
「悪いけど先客があるから」
みたいなムードは皆無。
居心地が、いいんです。

これはマルッティさんに限ったことではなく、
今回の旅、どこに行っても、そうでした。
取材するおじさんといっしょに出かけた先で、
別の知り合いのおじさんに会うとします。
おじさんたちが、やぁやぁ、久しぶり、
なんて言ってるなかに、ごく自然に、
ぼくらを招き入れてくれる。
特別な目で見ることもなく、
過剰にもてなすわけでもなく、
「ともだちが連れてきたんだから、大丈夫」
と、全幅の信頼があるムード。
そしていったん心をゆるせば、
「いつまでも、いて、いいんだよ」
と言わんばかりの、受け入れぶり。
フィンランドを旅して、その風景や人びとに
「いいなぁ」と思った瞬間はたくさんありますが、
この、「自分がここにいても、いいんだ」という感覚、
受け入れてもらっているという感覚が、
ほんとうに、うれしかったです。

マルッティさんが仕事をリタイアしたのは、
1991年のこと。
まだ、52歳のときのことでした。
膝をこわし、手術を受けたところ、
かえって悪化させてしまったうえ、左目を失明。
長く、学校など、公共の建物の
管理人を続けてきたマルッティさんでしたが、
病気のために引退することになったのです。
福祉国家で知られるフィンランドですから、
リタイア後の生活を心配することはありませんでしたが、
身を粉にして働くことを続けてきたマルッティさんには、
「することが、なくなる」ことのほうが
つらかったのでしょう。
趣味で毎日をすごすわけにはいかないと、
村の世話役を、ボランティアで始めました。

もともと、釣りは大好きでした。
物心ついたときから竿をもって湖に出かけていました。
7歳のころには、
釣った魚を自分で調理できるようになっていたし、
10歳のときには、お父さんから、
網のつくりかたも教わりました。
(いまでも、網は自分でつくります。)

足が悪くなる前は、
毎日のように、仕事が終わると釣りに行き、
週末は踊りに出かけました。
(ちなみに奥さまと知り合ったのも、
 夏のダンスホールだそうです。)

冬は、氷のはった湖にスノーモービルで出て、
氷の下に網を仕掛けました。
みんながうんざりするような
マイナス20度にもなるキヒニオの冬も、
マルッティさんにとっては楽しいものでした。

そんなマルッティさんですから、
8年前にはじめた釣り同好会の世話役は
天職のようなものだったかもしれません。
10人乗りのいかだの管理と操縦、
4人が泊まれる湖畔のコテージのメンテナンス。
(ちなみに、詰め込めば
 もう4人くらいは泊まれるそうです。)
基本的には同好会の利用が優先ですけど、
あいているときであれば、貸しコテージとして
使うこともできるこの施設には、
夏になるとフィンランド各地から人がやってきます。
体調のじゅうぶんではないマルッティさんには、
その世話役の仕事は
忙しすぎるのではないかなぁと心配になるのですが、
みんなが、釣りをして、
笑顔になってくれるのを見ることが、
マルッティさんにとっては、
なによりの元気のもとらしいです。

「でも、もう、そろそろ、終りかもしれないね」

と、しずかにマルッティさんが言います。

「釣りは、なにしろ体力を使うからね。
 いずれ、できなくなるかもしれないよ」

わずか1日だけの出会いでしたけれど、
すこし遠くを見ながら、そんなことを、
ぽつりぽつりと話すマルッティさんを見ていると、
すこし、せつなくなりました。
ぼくらが、なにかできるわけではありませんし、
どうか丈夫で、健康でいてくださいと、
祈るしか、ないのですけれど──。

さぁ、そろそろ、おいとまする時間です。

「今日はどうもありがとう。
 きみたちが来てくれて、楽しかったよ。
 また、どうぞ、いらっしゃい」

ありがとうございます、マルッティさん。
そのときはまた、いかだ舟、出してくださいね!

お元気で。

2009-05-04-MON
takei

とじる

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