今につながる最初は?

絵を描くのが、こどもの頃から好きで、
小2くらいから、藝大に行こう、って決めてました。
親には、反対されました。
だから大学に受かって、すぐ、うちを出て、
金銭的にも自立をしました。
いろんなバイトをしながら、
ずっと、全部ひとりでやってきました。

大学ではどんなことを?

最初の4年間は、抽象画を描き、
大学院で2年間、デザインの勉強をしました。

 

その間にも、もういろいろ作り始めた?

そうです。最初につくったのはノートとミラーです。
ノートは、毎年つくりかえ、今年で10周年です。

販売はどのように?

運がよくて、パリのデパートの
ボン・マルシェのバイヤーさんを
皆川明さんが紹介してくださって、
そこでノート、ミラー、ステッカーを
置いて下さったのがはじまりです。

 

皆川さんと知り合ったのは?

大学を卒業する前です。
松下計先生が知り合いだったんです。
「大谷は就職活動したら、
 作品だけだったら受かるけれど、
 面接で落とされるだろう」って言われて。
「おまえが小声でしゃべることを、
 ちゃんと耳を傾ける人のところがいいんじゃないか」
と紹介して下さいました。
そして作品を見てもらえて、
ミナ・ペルホネン京都店の
内装を手伝うことになりました。

でも、資生堂に就職することになったんですね。

就職をしない選択もありましたが、
同じ研究室の子たちが就職活動をしているのが
楽しそうに聞こえて、
受けたくなったんですけど、
その時点で資生堂ともうひとつしか残ってなくて。
そうして資生堂に入って、いま8年目です。

 

資生堂の仕事は忙しいですよね。

ロケだと、14時イン、33時アウトとかもありますよ。
そういうのを普通にしています。

 

その忙しさのなかで、雑誌を立ち上げたり。

資生堂に『花椿』っていう雑誌があるんですけれど、
担当にはなれなかった。
だったら自分で紙媒体を作ろう、と、
いろんな仕事で知り合った方にお願いしながら、
年3回、いま、4号目まで出しています。
女性の装飾品が毎回テーマになっていて、
1号目がサングラス、
2号目がグローブ、次がブローチ、
4号目がレースアップシューズ‥‥というふうに。
5号目はペンダントがテーマでもうすぐ完成します。


ご自身もモデルなさったり。
 ファッションもつくっていますよね。

はい、洋服を作っています。
「Ki Noé」というブランドです。
ゆきの絵→ユキノエ→キノエ、と名づけました。

 

武蔵美でファッションも教えるように。

そうです、先生もやっています。

 

ファッションに惹かれるのはどんなところですか。

ただ洋服が作りたかったんです。
藝大にはファッションコースはないので、
紙媒体のものをつくってたんですけど、
皆川さんに、
「大谷さんの絵が布になったときにどう見えるか」、
「いつかやってみなよ」と言われたことがあって。
松下教授も、
「布をやり始めることによって、
 また新しい大谷の作風が生まれたりする」と。
「紙では出せない表現をひと通り覚えたら、
 デザインに戻ったとしても、
 絶対、知識として紙にもいい反応が返ってくるから。
 だから、いろいろ学ぶことはいいことなんだ」と。

何か次にこれを、ってありますか。

ガラスをやってみたいです。
最近、藝大にガラスの工房ができたんです。
ですから博士課程で研究室に入って、
籍を置きながら、学んでみたい。

 

ガラスではどんなことをやりたいんですか。

ガラスで何ができるのかはまだわからないんで。
基礎を教えてもらってから、
たぶんやりたいことが出てくるんじゃないかな。

 

挑戦意欲や好奇心が強いって思いますか。

わからないですね。
そんなに好奇心旺盛だとは、自分では思わない。
でもそれは、ものを作ってる人にとっては
当たり前のことかなと思ってます。