田中博子さんのこと。

田中博子さんがベトナムに渡ったのは
1999年7月のことでした。
日本で外資系の調理器具の会社に勤めていた頃、
ベトナム料理に興味を持った田中さんは、
気軽な旅行のつもりでベトナムを訪れ、
すぐにこの国のとりこになりました。
日本で働きながら年に数度ベトナムにでかけ、
北から南までいろいろな文化を見てきました。
そうして出会ったのが手工芸、とりわけ刺繍でした。
しかし当時、ベトナム刺繍は
どれだけ繊細でも、高い技術と時間を必要とするものでも、
かんがえられないほど安い価格で売られていました。

「こんなふうに二束三文で売られていて、
いいんだろうか?」

そんなおり、勤め先が日本から撤退することになり、
田中さんは退職を決意します。
「もう、人に雇われるのはやめよう。
ベトナムに来て、手工芸を日本に伝える仕事をしよう」
と決意をしたのでした。
何のツテもありませんでしたが、
きっとなんとかなる、と信じていたそうです。

しかし、こちらに来てわかったことは、
まずベトナム語ができないと、なにもできないということ。
そこでまず1年間は学校に通い、
5年ほど、毎月1回日本の企業のために
ベトナムについてのレポートを書く仕事に就きながら、
地盤づくりをしていきました。
そのあいだに日本では
ベトナム雑貨のブームが起こりましたが、
田中さんはそこには乗りませんでした。
いくらみんながほしいと言ってくれても、
心からいいと思えなかった。
それが理由でした。

それよりもやるべきことは、刺繍です。
田中さんは電話帳で検索をかけ、
片っ端から工場に電話をして、バイクで回って、
いい刺繍の仕事をしてくれる先を探しました。
ロアンさんと出会ったのも、その頃のことでした。

見つけた優秀な技術をもつ工場と組んで、
日本向けの刺繍製品をつくる仕事をはじめた田中さん。
その過程では、ベトナムの社会にも
いろいろな変化がありました。
外国人がひとりビジネスをはじめるということについても
いろいろな強い風当たりもありました。

「何も起こらない日は、なかった。
いまでもそうですよ」
あかるく笑う田中さんですが、
ほんとうに「トラブルは日常茶飯事」だそうです。
なかでも大きかったのは、
ロアンさんの勤める会社が縮小となり
ロアンさんたちが仕事をうしなったことでした。

ロアンさんたちの世代は、
自分たちが叶えられなかった「よい教育」を
子供たちに受けさせたい、という夢があります。
世の中で活躍し、よい収入を得られ、
快適な暮らしができるように、
せいいっぱいのサポートをしたいと考えています。
ですから、その人が
どれだけ刺繍の高い技術をもっていても、
仕事がなければさっとその職を捨て、
まったく違う仕事に就いてでも、定収入を得て、
子供たちによい暮らしをさせてやりたいと考えます。
けれどもいっぽうで、刺繍の高い技術は、
そのまま「消えて」しまいます。
その技術は、書類やデータにはなっておらず、
教える人もなく、学校もなく、
職人さんたちの頭の中に、ひっそりとしまわれています。

「私たちが知らない、見たこともない刺繍の技法が
いっぱい頭に入っているひともいます。
けれども、現代はそういう腕のいい人も
定収入が得られる、子供の教育費ができるからと、
一般の企業に転職してしまう。
それはあまりにも、もったいないですよね。
だから、彼女達が常に刺繍の仕事で
手を動かしていられるようにして、
この技術をできるかぎり残していきたいと考えています。
微力ながら何かできるのならば、
ちょっとでも長く、この作業をしてくれる人がいるよう、
なんとか食い止めたい。
なくなっちゃうかもしれないけれど、
せめて遅らせたいと思います。
いまの私の目標は、この仕事がかっこいい仕事である、
ということを、ベトナム国内で発信することです」

ちなみに、ベトナムの刺繍については、
その起源に諸説があります。
フランス人が教えて帰った、
教会のシスターがフランスに行き習ってきた、
中国に習いに行ったベトナム人が
技術を持ち帰った──、など。
もしかしたらそういう技術が混ざって、
いまの刺繍になっているのかもしれません。

「ベトナムの街は、どんどん変化しています。
わたしは、昭和の頃、小さいときに見てきた風景を、
もう1回見ているような気がしています。
新しいものがどんどんどんどん入ってきて、
デパートが来た、ファストフードができた、
コンビニができた‥‥って、
まるで日本で過ごした時間をもういちど、
2回目の人生を違う角度からみているようなんです」

そんなふうにして、
田中さんはひとり、ホーチミンを拠点に、
この仕事をつづけています。

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