ふくもり まさたけ

1944年、三重県伊賀市生まれ。
江戸時代から続く伊賀「土楽」の7代目当主。
著作に『土楽食楽』『土楽花楽』(文化出版局)
などがある。
2008年、「ほぼ日」とコラボした土鍋
「ベアシリーズ」の原型を制作。

参考ページ:
「うちの土鍋の宇宙。」
白洲正子『日本のたくみ』より
『樋口可南子のものものがたり』より
土楽の公式サイトはこちら。



この1年、すごく精力的だった?
そう見えますか。
何、「ほぷらす」で今回、
ぼくのがいちばん早かったの?
わっはっは。そうですか。
作りたいものから作った、それだけですよ。
いやあ、何もないですよ。
偶然、重なったんですね、いろいろ。
たしかに東北にも何遍も行ったし、
あちこちで個展も多かったかもしれんけど、
こういうことはね、決めても、
どうなるかわからないとこがありますでしょう。
ま、料理と一緒やね。



震災の影響ですか──。
行ってね、実際を見たら、
やっぱり気持ちが変わりました。
海の、想像もできないエネルギーというのは、
人間の気持ちまでも圧倒してしまうというかね。
やっぱりもう、何ていうか、身が止まるというか、
時間が止まるというかねえ、
気持ちも全部止まってしまうというような
感覚になったんですよ。
鳥肌が立ってね。
‥‥考えることを超えたものを、
自分の身に感じられるということがありましたね。
だからどうだということでもないんだけど、
行くと、本当に喜んでくれる人たちも
いっぱいいるわけね。
何をしたらいいのか悪いのかもわからなかったからね、
実際、喜んでくれたというのがよかった。



そう、昨年、器では、磁器をやりましたね。
たしかに何十年ぶりやね。
これは、土との出会いだったんです。
前から、向付の型だけは作ってたんですわ。
それで、ちょうどそれに合うような磁器土が見つかった。
明時代によく似たものができてるんですよ。
古染付というんですけど、
それの雰囲気で何かを作りたいと思ってたから。
そういうチャレンジだったんですね。



道歩や円は──、私はまだ、
そういうふうに(同じ作り手として)
見るということはなくてね。
まだあの子らの物が、完成してませんので。
迷ってますか? わっはっは、そうですか。
ずーっと自分で自分を迷いながら、
しばらく行くんじゃないかなと思います。
迷ってていいんですよ。
だんだん年代経って、何かの壁があったりすると、
越えなければならないんです。
それはつらくて、どうしようもないものだけれど、
越えなければ、次ができませんからね。
物というのは何か一つあったら、
それを乗り越えてまた自由になって、
またこう迫ってきて、また自由になるという、
それをどんどん繰り返していかなかったら、
そこで止まってしまうんですよ。
例えば文章を書いててもね、
前から同じ調子のものでずーっと書いてると、
何かもう一つ違う意味の雰囲気を出したいと思ったら、
そこから抜け出さなきゃならないでしょう。
それを繰り返さなきゃならない。
自分が感動しなかったらお客も感動しませんからね。
同じですよ。何でも同じ。



何というかね‥‥自分の考えというのは、
積み重ねていく人が多いんだけど、
あるとこからそれも脱却して、
いつも真っ白に戻るほうがいい。
いつも真っ白に。
そこから出発して、また真っ白になる。
積み重ねたらね、必ず途中で不安定になるんです。
例えば字を書くのでも、
上手な人の字を下に置いて書くと、
ある程度上手にはなるんだけど、
もうどうにもなりません。
自分の自由な形ちゅうのができなくなっちゃう。
概念から入るというのはそういうことです。

2012-03-14-WED








この蹴ろくろのいいところは、余韻です。
力を使ってないわけでしょ。
惰性で回ってるわけです。
ゆっくりで、早くつくる。


▲電動ろくろではなく、
自分の足で蹴ってまわす「蹴ろくろ」を使います。


高台をね、比較的こうして高くすると、
持ったときに熱くないでしょう。
お茶漬けっていうのは、
ちょっとごはんがあって、お茶をたっぷり。
だから大きめがいい。
まわりがそんなに熱くならないほうがいい。
熱いと、お茶わんを口につけられない。
そういう条件がね、
ごはん茶わんをつくるときに体に入ってるんです。


▲片手で、のびのびと、すぅーっと引きます。

守ったら、ダメなんですよ。
こういう形がいいと一度いいとなると、
まあみんなが評判とるでしょ。
でも、それを守ったら、
もう自分の二番煎じになるから。
それは勢いがなくなる。


▲これは昨年の野焼きのようすです。


▲燃えさかる炎のなかには、何百ものうつわと‥‥。


▲赤いような、時には、白光のような色を放つ陶仏が。
よろしければ「福森さんの野焼き」もごらんください。

円も道歩も同じことを言ってましたか。
それが基本だからね、私のところの。
みんなね、外の形をつくろうと思う。
こう見て、この形がいいという。
違うんよ。
形をつくろうと思っちゃいけません。
ろくろを回していて、
中が、こうゆったりぐわーっとひけたら、
外もきれいになってるのよ、自然に。



私のうつわを色っぽいと糸井さんがおっしゃった?
ああ、色っぽいんだろうね、本人が。あはははははっ。
何も考えてないよ。
何も考えてない。
もう少し開いたものとか、
ちょっと締まったものを、というのは思うけど、
他は何にも考えてません。
お茶漬けしたら、というのも、
つくる前に、自分の体に入ったものだから。
「お茶漬け、これはお茶漬けにいいように」って、
考えてつくってたらもうダメです。

形じゃないの、場面。
場面っていうのは、たとえばごはんを食べる場面、
お酒を飲む場面、お茶を飲む場面っていうのが、
そのお客様が来た場合もあるし、
毎日飲む場合もあるし、
そういう場面っちゅうのがあるわけでしょう。
だけど、それにぴったりと生理的にこう、
何ていうか、合ううつわっていうのは、
それはすべてそれが満足せんと合わないわけ。
作り手個人が出てたら、うるさくてもう合わない。


▲福森さんがよく言われること。
「器は前に出ず、後ろに下がらず。
使えば料理とともに引き立てあう。」


だけど、こっちがね、
夢がこう‥‥夢っていうか、
個をなくすというの。
自分が“大きく”なかったら、
皆さんに行き渡らないのよ。
大きいほど行き渡るから。
自分=個性、と思ってたら、
皆さんが、絶対、毎日使うのに、飽きちゃうから。

個をなくすとね、
人のことも関係ないし、自分も捨てられるし。
個も、他も、自他も、因果も、
相対も、なんにもないところを。


▲今回、出品するごはん茶わん。
この時点では、福森さんはまだどういう化粧をするか、
どういう釉薬をかけるか決めてません。

これにこの後、何やるか? ははははっ。
わかんないですよ、そりゃあもう。
釉薬は灰を主体にした薬をかけようとは思ってて。
あとは、刷毛目をやってもええかなとか、
まあいろいろ。
もう日々変わると思っといてもいいくらいやからね。


▲後日、できあがった灰釉刷毛目飯碗がこちら。

いい陶器っちゅうのはつかまえどころがないのよ。
「こっちつかまえた」と思ったら、
どっかまた逃げられたような気がするし。
自分でつくっても
「いいのができた」なんて思わんですよ。
沈黙するのよ、うつわが。
うつわが沈黙して
使い手のもとで、勝手に育っていくのよ。
はっはっはっ。それはいいうつわ。
自分がこうだと思ってるよりも、
ずーっとよくなっていくんよ。

そういうふうに、私は思ってるんだけどね。
こっちの予想のようにできたらおもしろくないね。
私から離れたとたんに、
違う道を進むんよ。はははっ。
それがおもしろいんよ。
この年になったら、ずい分それが
「はあっ、おもしろいもんだな」と。



「いい」というのはね、
まあ何でもそうだけど、悪いのでもいいのでも、
全部、一時間とか一分ずつでも動いてるわけ。
だから、みんなね、西洋的に考えると、
ここで切って、これがいいか悪いかを
みんなで議論するわけよ。
東洋的に考えたら、
全部これは移り変わってるのよ、もう絶えず。
あいつの思想が嫌いだと、こう思うでしょ。
ほたら、たとえばそれが
恋愛関係になったらみんなよくなる。
そうでしょ?
はははっ。だから、みな、動いてんのよ。
諸行無常という、そういうもんなんだ。

2011-02-25-FRI
写真:大江弘之 + ほぼ日刊イトイ新聞 

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