福森雅武さんの器、そして人となりを愛したひとりに、
随筆家の白洲正子さん(明治42年〜平成10年)がいます。
『日本のたくみ』という随筆集のなかで、
一章をさき、福森さんのことを綴っている白洲さん。
ご遺族の協力をいただき、
その全文を、ここに掲載させていただくことになりました。
白洲さんによる、福森さんのすがた、
ぜひ、お読みくださいませ。


伊賀の丸柱(まるばしら)に
おいしいものを喰べさせる家がある。
本職は陶工だが、料理好きで、
自分の山でとれる茸や山菜が中々うまい。
松茸などは背負籠にいっぱい出て来るし、
冬は猪、夏は鮎も釣ってくる、
それに伊賀は牛肉もうまいと、
うまいことずくめで誘ってくれた友人がいた。

おいしいものを喰べるためには、
千里の道も遠しとしない私だが、
時間がなくてしばらく行くことができなかった。
その間に、友人から大きな土鍋がとどいて来た。
使ってみると、従来のものよりはるかに工合がいい。
実に心の行き届いた土鍋だと思って、愛用していたが、
それが土楽さんの造ったものと知ったのは
後のことである。

京都から伊賀へ行く道はいくつもある。
宇治川から、宇治田原を越え、
信楽(しがらき)へ出て行く古道と、
木津(きづ)から木津川にそって行く街道と、
近江(おうみ)の水口(みなぐち)から、信楽を経て、
丸柱へ入る道などで、
昔はどこから行っても一日がかりの旅であった。
ことに近江と伊賀の境にある丸柱は、
人里離れた山中の寒村だが、
この頃は道もよくなったので、
一時間二、三十分もあれば車で行ける。
友人にうながされて、ようやく訪ねる気になったのは、
数年前の秋の一日であった。

その時は京都から水口を経て行ったが、
道がよくなったのには驚いた。
それより驚いたのは、新道の両側に、
信楽名物の狸の焼きものが、
立錐の余地もなく並んでいることだった。
友人に聞くと、近頃は狸がよく売れるそうで、
売れるのは結構だが、
陶器の釉(うわぐすり)ではなく、
エナメル様のペンキでも塗ってあるのか、
ぴかぴかと光っているのが薄気味わるい。
信楽の焼きものも、
ついにここまで堕落したのかと私は悲しかった。

信楽の長野で左に折れ、
峠を一つ越えるとすぐ丸柱である。
ここは別天地の静けさで、
どこの家も、昔ながらのゆきひらを作っている。
ゆきひらは、関東でいう土鍋のことで、
おかゆや湯豆腐に用いる雑器である。
思うに、信楽は商売人の町で、
伊賀は職人の里なのであろう。
地つづきなのに、気風もちがい、
昔からあまり往(ゆ)き来(き)もしないという。
土楽さんの家は、丸柱に入ってすぐのところの、
山にかこまれた静かな一角にあった。

土楽は屋号で、本名は福森雅武さんという。
焼きものを造るようになって七代目に当たるとかで、
そういう旧家の主(あるじ)に
ふさわしい風貌の持ち主である。
最初に行った時は、木工の黒田辰秋氏と、
長男の乾吉(けんきち)さんも同席で、
福森さんと乾吉さんは親友であることを知った。
いろり端で、直ちに酒宴がはじまる。
壁には熊谷守一の絵がかかり、
庭で切った野草が、無造作に活けてある。
乾吉さんの造ったいろりのふちは見事なもので、
そのままお膳がわりになるほど、広くて大きい。
福森さんは、そこで松茸と落鮎(おちあゆ)を焼いたり、
肉を煮て下さった。
山菜のつまみ物を盛った器は、
根来(ねごろ)の盆を模したのであろうか、
台がついていて、これもお膳のかわりになる。
ほんとは漆器で造りたかったのに、
乾吉さんに頼んでも、いつまで経っても
できて来ないので、陶器で代用していると、
福森さんはいった。
こういう山里で、自作の器で頂く料理が
おいしくない筈はない。
私たちは、お昼から夜になるまで飲みつづけ、
京都の宿に帰ったのは午前二時ごろであった。

それから後は、ひまさえあれば
丸柱をおとずれるようになった。
福森さんはいつもにこにこしているだけで、
あまり多くを語らなかったが、
つき合っていければ、
人間というものは自然にわかって来る。
彼は作家とか陶芸家と呼ばれることが嫌いで、
作品という言葉も絶対に使わない。
料理が好きになったのも、
それを盛る器が造りたかったからで、
茶道具にも、オブジェにも、興味はない。
家の伝統で、一時茶器の類(たぐい)を
手がけたこともあるが、つまらないので止してしまった。
ということは、古いものを模倣するのがいやなので、
現代の生活に合った日常雑器を造りたいのであろう。
逆にいえば、それは伊賀本来の焼きものの姿に
還ることである。
伊賀といえば、私たちは直ちに
桃山時代の花入れを思い浮かべる。
が、あのごつごつしたわざとらしい形を
私はあまり好まない。
福森さんに聞いてみると、あれは農民のものではなく、
筒井氏がこのあたりを領していた頃、
織部か誰かの注文で焼いたのではないか、という。
その証拠に伊賀の窯跡からは、
あの手の破片は一つも出てはこない。
福森さんの邸内からも、陶片はたくさん出るが、
いずれも種壷か擂鉢(すりばち)のたぐいである。
茶道の初期の時代には、珠光や紹鴎(じょうおう)が、
そういう雑器の中から美しいものを発見して、
茶器に応用したけれども、
いわゆる伊賀の花入れには、土の香りがしない。
そういわれてみれば、
無理に荒々しい姿を模したような感じがする。
勿論、中には美しいものもなくはないが、
利休で頂点に達した茶道は、
何とかそこから脱出しようとして、
あれこれ工夫を凝らしたに違いない。
そういう不自然さが、伊賀で育った生粋の陶工には、
我慢がならないのであろう。
福森さんが、作家とも陶芸家とも呼ばれたくないのは、
現代の陶芸界への反撥だけではなく、
桃山・徳川時代の茶器に対する抵抗も、
多分にふくまれているように思う。
先にもいったように、彼は至って寡黙な人間なので、
あくまでもそれは私の想像にすぎないが、
実際に使ってみないと、そのよさがわからないのが、
福森さんの焼きものである。

写真でみてもわかるとおり、
彼の土鍋は、蓋が特別大きい。文福茶釜に似ているので、
黒田乾吉さんがからかって、「文福鍋」と名づけた。
理由を聞くと、新鮮な野菜の緑を保つためには、
なるべく蓋が大きい方がいいそうである。
反対に、鍋の部分は浅いので、使いやすく、
蓋が厚いため、温度も長く保つことができる。
見たところは極く平凡な日常雑器にも、福森さんの作品、
いや造るものには、そういう心遣いがこもっており、
何より丈夫で、健康な姿をしているのが頼もしい。
使えば使うほど味がよくなるのも、
現代の焼きものには珍しいことである。

彼の工房には、六、七人の職人が働いていた。
生活の方は、主としてゆきひらの類で成り立っているが、
別に福森さん自身の仕事場もある、
この方は茅葺屋根の田舎家である。
そこで彼はゆっくりひまをかけて、
友達をもてなすための器を造る。
土は先ほど書いた峠、
ーーこれを上山(こうやま)と呼ぶが、
そのあたりから無限に採れるし、
赤松の薪(まき)は自分の持山で切る。
子供さんは四人いて、
いつ行ってみても、自分でこねた器で、
ままごと遊びをしているのだから、
こういう人たちには叶わないと思う。
近頃の陶芸家は、自分で土をねる人は稀で、
機械でまぜたものがたやすく手に入る。
易きにつきたがるのは人間の本能だが、
陶器は自分で土をねる
その手の中から生まれて来るものだ。
福森さんにはそれ以上に、田圃や畑も耕さなくては、
本物の陶工とはいえないと信じている。
喰べるだけのものは確保して、さてその上で陶器を造る、
それが千年続いた伊賀の伝統なのである。

伊賀・信楽とひと口にいうが、陶土が同じだから、
足利以前の作は、専門家がみても区別はつかない。
それがはっきりして来るのは、
前述の花入れを造るようになってからで、
花入れがすたれた後は、ゆきひらが主となった。
正確に述べると、ゆきひらは共蓋で、
鍋に口と手がついているものだけをいう。
植木鉢や狸のような、
大物で売り出した信楽は商売上手で、
客が買いに来るまでじっと待っているのが、
伊賀の人々の性分である。
山一つへだてているだけで、人情も方言も違い、
信楽は踊が好きで、伊賀は歌しか歌わない
という話も面白く聞いた。

そういう生活をしているから、
福森さんは遊ぶことが好きである。
というより、遊ぶことが人生にとって大切だ
と思っているらしい。
趣味は魚釣りと、料理を造ることで、
それによって人をもてなすことを
無上の楽しみにしている。
それらがすべて焼きものにつながっていることは
いうまでもない。
彼の一貫作業は、そこまで徹底しているのだが、
時にはこんな風に呟くこともある。
「皆が分業でやっている頃はよかった。
 よってたかって丸くおさまるほど
 理想的なことはないのだ」と。
そういう時の福森さんは孤独で、寂しそうに見える。
彼はまだ三十を少し出たくらいだが、
年より老けてみえるのは、
大世帯をかかえて、人知れぬ苦労をしているに違いない。
乾吉さんがはじめて会った時は、
痩せ細って、眦(まなじり)が耳まで裂けているような
鋭い感じの青年だったという。
今はそういうとげとげしさは失せ、
六尺豊かな大男が、仕事着のままいろり端に座って、
にこにこ応対している姿には、
円熟した大人の風格がある。
己れを主張しない伊賀のびとの謙虚さが、
陶器で金もうけをして、作家と呼ばれるより、
一介の陶工として立つことに、
生甲斐を見いだしたのであろう。
彼は心の底からの茶人なのだ。
むろん現代の似非(えせ)茶人ではない、
彼の言葉を借りていえば、
「よってたかって丸くおさまる」人間関係に、
幸福を見出す生活人なのである。

去年の秋、福森さんは、
「冬になったら、能登へ寒鱈を喰に行かないか」と
誘ってくれた。
その時、「すい場」という言葉をはじめて聞いた。
本来は京都の子供たちが使う言葉だが、
自分だけが知っている内緒の場所で、
好きな友達か、尊敬している人間にしか教えない
遊び場のことである。私は光栄に思った。
心待ちにしていると、二月のはじめに
電話がかかって来た。
一行は黒田乾吉さんのほか二、三人で、
「切符も用意してあるから、
 おかごに乗ったつもりで来い」といわれた。

能登のどこへ行くとも知らず、
京都の駅で待ち合わせ、北陸線に乗ると、
例によって、すぐ酒宴がはじまった。
私が覚えているのは、
北陸にも(その年は)雪がないことと、
金沢で乗りかえたことだけである。
やがて、誰かの家に着き、福森さんが料理にとりかかる。
乾吉さんは京都から、
包丁とまな板と砥石まで持参していた。

さて、待望の寒鱈は、東京の鱈とはぜんぜん別物で、
話には聞いていたが、
こんなにおいしいものとは知らなかった。
刺身にしても、ちりにしても、煮ても焼いてもうまい。
ま子や白子のとろとろした味も、河豚に劣らない。
そのほか、なまこにこのわたにこのこ、
銀色に輝くさよりの糸づくりなど、
この世のものとも思われなかった。
夜になると、土地の方たちが集まって来た。
雪国の人はお酒が強い。
私が酔い疲れ、喰べ疲れて、うとうととしている傍らで、
盛んに飲みかつ歌う。
近頃はやりの民謡なんてものではない。
潮風にきたえられたしぶい声で、
盃(さかずき)の廻る間(ま)に合わせて、
ゆっくりと手を打ちながら歌う。
私は夢心地に、この世の極楽とはこういうものだ
と思って、聞きほれていた。

最後に彼らは、はちめという魚を焼いて、
丼酒(どんぶりざけ)にひたし、
「骨酒」と称するものを廻して飲む。
その時歌う歌を、「七尾(ななお)まだら」といい、
まだらは曼荼羅(まんだら)の転じたものであるとか。
歌詞はおきまりの「めでためでたの若松さま」であるが、
やはりこのような歌は、このくらい悠長に、
しっかりと歌わないと気分が出ない。
うかつな私は、その瞬間、
能登の七尾に来ていることに気がついた。
誰かの家は、福森さんの友達の松井信義さんの
生家であることも、酔いがさめた後に私は知った。

翌日も上天気で、昼頃、
松井さんのおじさんのかき小屋へ行く。
奥さんや娘さんたちが、目にもとまらぬ早さで、
かきをむいていた。
いつもは辛い仕事だが、今年は暖かいので楽だと、
たのしそうに笑う。
男も女も、健康そのもので、皆いい人相をしている。
都会では当節お目にかかれない日本人の顔である。
七尾の海は、深くえぐれた入江になっていて、
暖流と寒流が出会う場所なので、
鱈が産卵のため北から下って来ると聞くが、
今日はことさら湖水のように静かで、暖かい。
おじさんは舟を出して、
かきの棚場へ連れて行って下さった。
鉤のついた棒でひき上げると、かきはいくらでもとれる。
雪を頂いた立山(たてやま)と白山(はくさん)を
遠望しつつ、
舟の中で喰べる生かきの味はまた格別であった。
小屋へ帰った後も、
私たちはストーヴの上で焼いて喰べた。

夜になると、又しても宴会で、「骨酒」を廻して飲み、
「七尾まだら」を歌う。例によって福森さんは、
にこにこ笑いながら、泰然と飲んでいたが、
さすがに心がほころびたのか、
苦労話をほんのひと言聞かせてくれた。
彼は四男に生まれたので、家を継ぐつもりはなかったが、
三人の兄たちが死に、父親も若くして亡くなると、
末っ子の少年の肩に、家代々の職人と、
家族の生活が一時にのしかかった。
陶器の技術は、子供の頃から
見様見真似で知っていたものの、
だまされたり、利用されたりで、
人の世のつれなさが身にしみてわかったという。
「九十円で売った鉢を、京都の店で、
 五百円の値がついているのを見た時は、茫然となって、
 町の中を気が抜けたようにさまよいました」
「眦が耳まで裂けた」のは当然である。
その危機を脱して、今日のような生活を楽しむ人間に、
彼が成長したのは見事という他はない。
生活と仕事が分離したところに、
美しいものは生まれない。
それが日本の伝統というものだろう。
福森さんのような職人に接するとき、
明日の文化は都会からではなく、
足がしっかりと地についた人々の中に、
鬱勃と興って来るに違いない、そう私は信じている。

白洲正子著『日本のたくみ』
“土楽さんの焼きもの 福森雅武”より
全文を転載させていただきました。
なお、改行箇所は、原文とは異なります。


『日本のたくみ』白洲正子
新潮社(新潮文庫)

2014-04-01-THU