乗組員やえの疑問

東京スカイツリーの建っている場所は、
もともとは何があったの?

スカイツリーおじさんの解説

まずは基本的なところから。
所在地は「東京都墨田区押上一丁目」です。
浅草の浅草寺とは隅田川を挟んで向かい側にある
位置関係で、東京駅から5km圏内。
東武伊勢崎線、京成押上線、東京メトロ半蔵門線、
都営浅草線の鉄道4線が交わる交通の結節点にあり、
しかも成田空港と羽田空港を結ぶ路線上にあるという
観光タワーとして申し分のないロケーション。
大きさは東西方向に約400m、南北方向は約90m。
そのほぼ真ん中にタワーが建つ格好です。

東京スカイツリーから隅田川までの距離が
おおまかに500m。
東京スカイツリーの最高高さは634mですから、
もしも東京スカイツリーを寝かせると、
ちょうどアタマが届いて「枕」となる距離に
隅田川が流れているのですね。

さて、この場所は、もともとは
東武鉄道の貨物列車ヤード跡地でした。
以前は北関東から鉄道で東京に運んできた物資を
この場所で船に積み替えて運河や川を使って
全国各所に運んでいましたが、
1993年に貨物の取り扱いを終了しました。
設計を始めた2005年当時は、
東武鉄道の資材置き場などに使われていました。
東京スカイツリーを含む東京スカイツリータウンは
このヤード跡地を活用した計画なのです。

ちなみに、事業主である東武鉄道は、
1902年(明治35年)に、
東武伊勢崎線「吾妻橋駅(現業平橋駅)」を開業し、
1911年(明治44年)には、
東武鉄道本社がこの地に移転しています。
ざっと100年もこの地で事業を行っていたわけで、
事業主の地元に対する並々ならぬ愛着は
こうした歴史を背景にしているのだと思われます。

もう少し前、明治期はどうだったのでしょう?
その頃は「本所区小梅瓦町」と呼ばれていました。
この地区は梅が多かったことから「小梅」、
同じく「瓦」の生産が盛んだったことから、
この名称がついたとも言われています。
付近には多くの職人が住み、
様々なものづくりの伝統が継承されていました。

じゃあ、江戸時代は?
江戸時代初期には、隅田川を国境に下総国に属し、
葦の生い茂る湿地帯に農地が散在する、
といった江戸の「郊外」でした。
1657年の「明暦の大火」の後、
このあたりの開発が本格化していき、
北十間川などでも開削工事が開始されました。
やがては、武家屋敷や町屋も建ち並び、
1713年には代官、町奉行も置かれました。
国境は現在の江戸川に移り、
この地域は武蔵国の一部へとなっていったのです。
そして、江戸きっての盛り場であった浅草、
屋敷町だった本所、
景勝地でもあった向島とあいまって、
「食」「風情」「職人のものづくり」といった
江戸文化がこの地に生まれていったのです。

ではNHK「ブラタモリ」よろしく縄文時代は?
BC2000年頃までは縄文海進の時代で、
関東では東京湾が内陸まで進出していて
墨田区全域も海でした。
そこへ古代の河川(現利根川や荒川や入間川)が
永い時間をかけて土砂を運び、それが堆積していき
現在の地盤が形成されていったのです。
BC2000年から、縄文海退が始まって、
東京湾の沖積平野化が始まったと考えられています。

地形

そして、現代。
この地に東京スカイツリーが建設中であります。
縄文人も、江戸っ子も、明治時代のハイカラさんも
まさか634mものタワーが建つとは
思いもよらなかったことでしょう。
となると逆に、遠い未来にはどうなっているでしょうね。

こうした地歴も調べた上で設計していますから、
東京スカイツリーが
歴史や風景をつなぐようなタワーになることを
願っています。

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2011-05-17-TUE