親鸞に会いにいく。  平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きた 親鸞(しんらん)。 肉食妻帯し子どもをもつなど、 お坊さんの戒律で禁じられていたことを次々に破り、 “いいことをしようなんて思っていたら天国には行けないよ” 750年前にそんなことを言った人でした。 吉本隆明さんは言います。 「坊さんとしては変わり種ですが、 問題にならないくらい偉い人だと思います」 親鸞は、流罪を解かれてもすぐに都へ戻らず、 自然を相手に糧を得て命をつなぐ人びとが住む土地で 何十年も布教を行いました。 吉本隆明さんの語る親鸞を手に、 各地で親鸞が遺したものを追いかけてみようと思います。


003 煩悩の人。 ここはふたたび茨城県。常陸国(ひたちのくに)稲田。
親鸞が『教行信証』の執筆に着手した場所です。

越後国(新潟県)で流罪を解かれた親鸞は
この地にやってきました。
しかし、本来なら
流罪前にいた故郷の京都へ戻るのがふつうです。
同じく讃岐に流されていた師の法然は、
赦免後に京都へ戻っています。
なぜ親鸞は京都へ戻らず常陸国に赴き、
その後20年をすごしたのでしょうか。
説はいろいろあります。

・法然や親鸞の、専修念仏をかかげた浄土宗は
 迫害を受けたために流罪になったのだから、
 京都に戻って再びそういう目にあうのが嫌だった。

・当時人気絶大だった法然の
 (人気があったからこそ恨みをかい、迫害された)
 跡目争いが予想され、それに加わりたくなかった。

また、こういう意見もあります。

・越後での、民との交流が影響した。

「越後の民との交わりが大きかったのでしょう。
 そう思いますよ。
 親鸞聖人ってね、そういう方じゃないでしょうか」

そう話してくださったのは
稲田禅房西念寺(稲田御坊)につとめるお坊さんです。

「天変地異にみまわれたうえに、京都は戦の時代です。
 栄養失調で餓死したり
 病気で悩んでいる人がたくさんいたことでしょう。
 仏法というものは
 そういう人びとの心に響かないでしょうし、
 響かないとすれば、
 いったい仏法とは何なのか。
 それが親鸞聖人のいちばんのテーマだったわけです。

 越後に流罪になったとき、
 あのあたりに住んでいた人びとの暮らしを
 親鸞聖人はごらんになったでしょう。
 宗教とは無縁に生きているのです。
 そういうことについて
 越後時代にかなり模索なさったと思います。
 だから、流罪を許されても京都に帰らず
 関東にやってきたんだと思います。
 これは、若いときに比叡山を降りられた
 原因にもつながります」



親鸞は9歳で比叡山に出家、
約20年間、修行を積みました。
しかし、30歳を目前にして、
それまでの自分を否定するかのように
山から去ります。



「親鸞聖人の教えのいちばんの特徴は
 なんだかわかりますか?
 いままでの戒律に囚われていない、ということです。

 当時の比叡山のお坊さんたちというのは、
 肉食妻帯を禁じられていました。
 しかし実情は、多くのお坊さんが
 裏で戒律を破っていたようです。
 比叡山のふもとでは、
 奥さんのような女性が住んでいたりしました。

 親鸞聖人はもちろん、それを知っていました。
 そういうごまかしは、嫌だったわけです。
 ごまかさない親鸞聖人は、自分の煩悩に
 悩み苦しんだのでしょう。
 さらに、それだけでなく、
 人間らしく家族を持って子どもをもつ、という
 ごくふつうの願望が強かったのだと思います」


法然や親鸞が生きた当時、お坊さんたちは、修行を積むといいながら、本当はあまり修行を積まないで堕落していました。一方、お坊さんと関係のない、多くの人たちは、生きていることの困難を抱えていました。

『吉本隆明が語る親鸞』p139より




「厳しい修行をしても、煩悩というものは消え去らない。
 悟ったといったって、どのお坊さんも
 裏ではとんでもないことをしている、
 目を覆いたくなるような現状がある。  
 やがて、親鸞聖人は
 比叡山から京都の六角堂に参籠するようになり、
 夢の中で聖徳太子のお告げを受けて法然上人のもとへ行きます。
 法然上人は
 念仏することで極楽に往生できるという
 専修念仏の教えを説いた人でした。







 法然上人は、あの時代のトップクラスの
 頭のいいお坊さんです。
 知恵第一主義、
 文殊菩薩と呼ばれていたそうですよ。
 一方、親鸞聖人というのは、どうでしょうね、
 性格的にはきつさと‥‥少々荒い面も
 あるのかもしれない。
 なぜかというと、流罪になって、
 そして越後から常陸の国にまでやってきて
 布教活動をこつこつしていくというのは、
 そうとう頑固でないとできないと思います。
 師の法然上人は、ご自身は戒律を守ろうとしました。
 ところが親鸞聖人はそうじゃない。
 堂々と妻帯したし、肉も食った。
 次々に実践して考えた人です。
 そこが法然上人との、違いといえば違いです」

煩悩の根深さに悩んだ親鸞だからこそ、
「悩む側」「行う側」にも、自分を置いたのです。


つまり人間の欲望、煩悩というのは、お医者さんが言うほど簡単ではないのです。それは人間をどう考えるかによって違ってくるわけで、親鸞は、別な言い方をすれば、自分は「医者でもなければ患者でもない」という言い方をしているわけです。親鸞はそういうことをいつでも忘れなかった人です。

『吉本隆明が語る親鸞』p50より


そんなに人間は立派ではないけれど、そんなに駄目でもないんだよというのが、親鸞の人間に対する考え方だと思います。

『吉本隆明が語る親鸞』p44より

親鸞は、ごくふつうの
人間としての暮らしを実践し、
人びとにとけ込むことで教えを深め、広めました。
稲田御坊のお坊さんはつづけます。



「このお寺ばかりじゃないんですよ、
 あたりの山すその民家にも、
 親鸞聖人の足跡が残っているところがあります。
 ちょこっと行っちゃ休憩して、
 そのへんにいる人たちとお話する、
 それが親鸞聖人の布教でした。
 親鸞聖人は、お寺でふんぞり返って
 説法している方ではないのです。

 みんな、生きることに必死の時代ですから
 そりゃあ忙しいにきまってます。
 みなさんの中に自分から入っていって
 すこしでもその時代の苦しさをやわらげること、
 それが念仏、ということになるわけです。
 ここからずーっと、山の脇をたどるように行けば
 鹿島神宮につづく近道です。そこここに
 親鸞聖人が立ち寄った史跡がたくさんありますよ。

 鹿島神宮に通った理由は、そこに奉納された経典です。
 法然上人からいただいた教えを広げるだけでなく、
 釈迦の漢訳本にあたりながら
 考えを深められていったのだと思います。
 そのあたりも、ふつうの宗教家とは
 異なっているところではないでしょうか。
 いままで高尚な方、
 たくさんいらっしゃいますけれども
 やっぱりわたしらにとっては、
 親鸞聖人がいちばんです。
 自分を棚上げにせず、
 世の中に飛び込んで実践していった方です。

 だから750年経ったって
 親鸞聖人の言葉はいきいきと
 伝わっているわけでしょう」

親鸞はこの地に20年とどまり、
60歳頃になって、京都に戻る決意をします。
その出発地も、ここ稲田禅房西念寺。
旅立つ親鸞のようすを
聞いていきたいと思います。

(つづきます)

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2012-01-12-THU

イラスト 信濃八太郎