YAMADA

第2回 『いつもさみしい』は、
大勢といっしょにいるほうが感じやすい。


ほんとに、いつもさみしいんですか?
なぜ『いつも』、『さみしい』のか、
まだまだ、理解に苦しんでいる、
田中宏和でございます。
いま「理解に」と打とうとしたら、
誤って「理科犬」と変換してしまいましたよ。
タイピングも夏バテ気味であります。
たぶん「理科犬」は、メガネに白衣ですよ。

さて、そんな時候の挨拶とも、
雑談ともつかない、
ソフトタッチのツカミから入ってみましたが、
初回に予告しましたように
まずは、血液型の話は、
ひとまず棚上げにしまして、
『いつもさみしい』をよく知ろうシリーズを
はじめたいと思います。


「いつもさみしい?」の問いかけへの
みなさんからの返信メールは、
すがすがしいほど
まっ二つに分かれておりました。
「よくぞ自分の気持ちを言い当ててくれた!」
「そもそもすべての人間は
 いつもさみしいものなんじゃないの?」
という
すこぶる同意派
「『いつもさみしい』人がいるなんて、
 さっぱりわからん!」
「そもそも、
 『いつもさみしい』ってどういうこと?」
という
まったく理解不能派の2タイプです。

これほどまでに、
世を二分するような議論は
今まで他にあっただろうか、と、
わたくし、考え込みました。
天動説と地動説か。(ちょっと大げさ過ぎる)
倒幕派と攘夷派。(『新選組!』を意識してみた)
いや、もっと身近に、
世間の意見が分かれるようなことが、
無かっただろうか?
夏のレジャーは、海か山か。
(話題として生ぬるい)
髪は、左分けか右分けか。
(分けてるだけだ)
なんと言いますか、
この「いつもさみしい問題」は、
人が生きる上での基本スタンスを
きっぱり分けるような問題なんです、どうやら。

たとえば、
目の前にバナナの皮が落ちていたら、
自らそれに向かって踏み込んで
すべりこけにいくか、
それとも、
そしらぬ顔をして通り過ぎていくか。
(長いし、違う!)

とにもかくにも、
みなさんから怒濤のように押し寄せた
メールをご紹介していきます。
『いつもさみしい』をよく知ろうシリーズその1は、
「『いつもさみしい』は、
 大勢といっしょにいるほうが
 感じやすい。」
という傾向です。

では、さっそく。

=
O型です。
はい。いつもさみしいです。
でも、いつも誰かといたいとか、
一人だとなんにも出来ない
という事ではないのです。
誰かと一緒にいても、とても楽しくても、
やっぱりさみしいと思います。
特にさみしさを感じるのは、
すごい人ごみの中にいる時とか、
太陽が真上にあって
自分の影も見えないような時とか。
およそさみしさを感じないような時。
心の壁のどこかに小さな穴があいているような、
そんな気がするのです。

そんな気持ちがあたりまえに感じているのですが、
おかしいでしょうか?

だいじょうぶです!
お仲間はたくさんいらっしゃいます。

=
笑ってしまいました。
わたくしO型、36歳女子です。
はい、いつもさみしいです。
特に大勢でわいわい飲み会で
盛り上がっているときなど
さみしいです。
お開きになると、もっとさみしくなります。
ひとりきりでいるときもさみしいけど
誰かと一緒のときの方が、さみしいです。

こんなポジティブカミングアウトなO型さんに限らず、
この「大勢でいるほど」タイプの
『いつもさみしい』の方が、
たくさんいらっしゃったんです。


もちろんO型さんだけでなく、
A型の方でも。

=
私はA型だけど、いつも寂しいです。
とくに感じるのがみんなと食べに行ったり
カラオケに行ったりしているときです。
みんなと楽しめるのですが
何か寂しさを感じてしまいます。

さらに、B型でも。

=
僕は、友人等から「お前、B型だろ」と、
すぐに見破られるくらいの典型的なB型なのですが
『いつもさみしい』です、はい。


普段から人を笑わせたりするのが好きなので、
落ち込む事はホント少ないのですが。
友人達と楽しく遊んだり飲んだりしてるときに
必ずと言っていいほどなのですが、
始めはとても楽しくて仕方ないのに、
時間が経つと何故かフとした瞬間に
さみしさを感じてしまう。

それを表に出す事はせず、
むしろ気付かれないように
一層明るくひょうきんに振舞うけれど、
家に帰って寝るまでさみしさを引きずってます。

授業を受けてる時や
バイトで一生懸命仕事をしている時、
ご飯食べてる時でも、
何故かさみしさを感じる事もあるので、
やっぱり『いつもさみしい』です。

この「典型的なB型」さんも、
ギャグやネタが
すべりまくって
さみしいわけじゃなさそうです。

「さびしがり」は、
人が周りにいないと、
「さびしさを募らせる」習性の人のはずです。
わたくしには、わかりません。
人がいるほど「さみしくなる」ってのは、
いったい地球上に
何が起きているんでしょうか?

周りに人がいるほど、
肌寒さを感じて生活を送っている人が多いということは、
もしや氷河期が近いのか。
いや、
物理的な人間数では埋められない
全身を貫くような孤独感が、
世界をおおっている。
そんなふうに、
「いつもさみしい問題」が見えてきました。

=
さみしいです。
改めて「さみしいですか?」と
問われれば、
「そーだなー、おもに、さみしい、かな?」
と思います。

幼いときから過ごしてきた
自宅で感じていたことは
「ここを出て行かなくてはいけない。」という思い。
なぜだか分からないけど
「ずっとここにいる」とは思えなかったし。
一人暮らしの十数年も
「ここは仮の住まい」という意識があるから
大きな家具なんか買おうとも思わなかったし。
さみいしいけど、こうしていたい。
と思えるときもあれば、
どうしようもなく
「さみしくない」時間を過ごしたくて、
忙しくしていたり。
結婚した今も「終の棲家」を探しているという感じ。

友達と馬鹿騒ぎをしていても
「楽しい」と感じるのと
同時に別の感情がついてくる感じ。
ひとりでぽつんとしていて
「さみしい」のはよいのです。
人がいっぱいいるところのほうが、
より「さみしい」と感じるかもしれません。
なんだか、さみしいです。
でも悲しいのでも、不幸なわけでもないのです。
(よしえさん)

「『いつもさみしい』は、
大勢といっしょにいるほうが
感じやすい。」
みなさんのメールから
共通して読み取れるのは、
大勢の中にいる自分を
いつもどこか俯瞰した視線から、
客観的に見つめているような姿勢です。

=
ただ誰かいればいいとか
そういうものでもなくって
なんだか冷静に第3者の覚めた目で
いつも状況を見ている私
がいて、
周りほど熱くなったりできないのも
さみしい原因かと思われます。

たとえば、
いま刻々と自分の瞳がとらえている
ライブ映像とは別に、
高いアングルからの
モニター映像を常に流し続けている感じです。
実際に、「自分を見ているもう一人の自分」
の存在を防犯カメラのような
たとえで送ってきた方が
何人もいらっしゃいました。

おそらく、人間の自意識に、
カメラやテレビがもたらした変化って、
そうとう大きなものだろうと考えられます。
とくにここ最近のカメラ付携帯の普及で、
日本人まるごとカメラマン状況になってきてますから、
ひとりひとりが
「撮る撮られる」の関係を増加させることで、
自分を客観的に見るくせが
加速的に日常化していそうでもあります。
そんな自分モニタリング術が高まるほどに、
他人と心がしっかりつながっていないこと、
自分の心の根っこが
どこともなく漂流していることに、
意識が向いていってしまう。
そして、
大勢の人たちと心を通わせたり、
一体感を感じたりすることは、
そもそもないだろうということを
人生の事実として淡々と受けとめ、
『いつもさみしい』は
生まれているんではないか。
そんな風に感じました。

『いつもさみしい』とは、
あるあきらめから湧きだす気持ちなんでしょうか。

■件名を「いつもさみしい問題。」にして、
  postman@1101.comまで、
 ぜひ感想をくださいね!
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2004-08-20-FRI
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