毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
あとがき

一九五八年、アメリカの人工衛星が
ソ連のスプートニックのあとを追っかけるようにして
打ち上げられた直後に、
当時、「中央公論」の編集長をやっていた
竹森清さんが私に
「西遊記」の連載をやらないかと誘いをかけてくれた。
「天空を駈けめぐりたいという人類の夢が
 第一歩を踏み出したわけだが、
 この夢を真っ先に小説に書いたのが西遊記だから、
 あれをここで再現してもらいたい」
といった主旨であった。

一般の日本人の作家や中国文学者に比べると、
私は中国文を句読点をつけないで読める立場だから、
適任と考えてくれたのであろう。
それは有無い話であったが、
西遊記をそういう目的を持って読んだことがなかったので、
少し余裕をもらい、
改めて明刊本金陵世徳堂「新刻出像官板大字西遊記」を
最初から最後まで通読した。
この小説は中国では
いわゆる四大奇書の二冊に数えられており、
日本でも子供たちの間にひろく読まれている。
しかし、日本で知られている西遊記は、
石の中から生まれた孤独な猿が
孫悟空となり天界荒らしをやる部分と、
金角銀角あたりの怪物とわたりあう
奇想天外な部分だけで終っており、
天竺にお経をとりに行く長い長い、
退屈で苦難に充ちた族程のところは
全く省略されてしまっている。

この族程を原文に忠実に再説しようとしたら、
恐らく読者が一人もついて来なくなるだろう。
それくらい描写そのものが
退屈きわまりないことも事実であるが、
現代人の眼から見て、
どうしても納得のできないところが少くとも二つはある。
一つは、勧善懲悪の仏的教思想が
この小説の底流になっていることである。
善を行えば必ず良い報いがあるという
因果応報のトリックくらい現代人に受けないものはない。
次に、原文では海千山千の怪物どもが
二十歳すぎたばかりの三蔵法師を師匠に仰ぎ、
ハイハイと何事も素直にきいているが、
そんな不自然な上下の関係で
生命賭けの冒険など続けて行けるわけがない。
そこで、私は勧善懲悪の思想を表面からかくしてしまい、
また面と向っては
お師匠さまお師匠さまと立てている悟空や八戒も、
かげにまわると、
「あの世間知らずのゲイ・ボーイ奴が……」
と師匠の悪口をいいあってストレスの解消をするのである。
ちょうど社員がかげにまわって社長の棚おろしをやる
現代の企業集団と思っていただけれは間違いはない。
更に、約四百年前に、原作者呉承恩が書いた時は、
何しろ科挙の試験を何回受けてもしくじった
落第坊主の空想妄想の所産だから、
恐らく当時としては劃期的なものであり、
また当時の体制社会を揶揄する鋭さもあった筈である。
それを現代社会にあてはめたら、
先ずこんなことではないか、
といった書き方をすべきだと思った。

かくて五年四カ月という
「中央公論」はじまって以来の長期連載で、
二千五百六十枚の大長編になってしまった。
面白い面白いと言って、毎号「中央公論」が出る度に、
真っ先に読んでくれた中山伊知郎先生のような方は、
「もう少し原文に忠実だったらよかったのに」
とふざけすぎをたしなめられた中国文学者の先生もあった。
思うに、この先生は
西遊記の原文をお読みになったことがないのであろう。
その証拠に、比較的原文に近い西遊記の翻訳本で、
読者を最後まで引張って行けるものは残念ながら
一冊として存在していないのである。

今度、文庫本になるに際して、私は十年以上もたったので 、
感覚がずれてしまっているのではないか、
社会戯評的な要素が
チンプンカンプンになっているのではないか、
とおそれながら、再読してみたが、
どうやらその心配はなかった。
なにしろ今の私の方が年をとったせいか、
息が長くなって、テンポが鈍くなっているし、
社会戯評的なものも、殆んど古くなっていない。
おかげで全くといってよいほど改筆をしないですんだ。
十数年前と、今と違っていることは、
読者の層が一変したことで、
私が小説書きであったことすら知らない若い人たちが、
「よくもこんバカなことを書く人がいたものだ」
と笑いながから読んでくれていることである。

中山伊知郎先生も指摘しておられたが、
「西遊記の面白さは、
 一人一人(?)の妖怪が、
 それぞれものすごい力をもちながら、
 その力に皆限界があるところにある。
 天界に行って観音さまと直談判のできる孫悟空が、
 食うものに困ったり、
 僅か百里先にある河が予見できない
 といった矛盾が出てくる。
 妖怪と妖怪の関係また然りで、
 その限界のあるところから化け物の社会ながらに
 一つの道徳のようなものが出てくる」
という何とも痛快な物語なのである。

これは、とりもなおさず、人間社会そのものであり、
私が現代版「西遊記」の再現に情熱を燃やしたのも、
そうした化け物社会の人間臭さに魅いられたからである。
私が自分の西遊記を書いた時、
第一巻(一九五九年三月刊)の扉に書いた最初の文句は
「道という道は天竺に通ずれば、
  孫悟空よ、出鱈目に行け」であった。
そして、第八巻(一九六三年六月刊)の
「ああ世も末の巻」の最後の文句は
「観光で、坊主が食べる末世かな」
である。
今もその感想に変わりはない。

邱 永 漢
一九七七・八・十

2001-05-12-SAT

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