毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第八巻 ああ世も末の巻
第八章 末世の終り

二 蔵 の 中


岸へついて、一同がふりかえって見ると、
底無し船の姿は既に消えてしまっていた。
「さっきのは誰かご存じですか?」

悟空がきくと、三蔵は首をふった。
「あれは接引仏祖だったのですよ」
「えっ? あの方が?」

急いで廻れ右をして両手を合わせると、
八戒と鉢合わせをした。
反射的に八戒も三蔵に向って両手を合わせた。
「何も師弟の間で水臭い真似をすることはありませんよ」
と悟空は笑いながら、
「なるほどお師匠さまは
 我々のような用心棒がついていなければ、
 とてもここまで来られなかったでしょうが、
 我々だってお師匠さまのような
 仏教キチガイと一緒でなければ、
 とても極楽くんだりまでやって来る気は
 しなかったでしょうから。
 まあ、見て下さい。
 桃の林の向うに雷音寺の屋根が見えかくれしていますよ」

三蔵は手の舞い足の踊るのを覚えながら、
雷音寺の山門へと急いだ。
「ようこそ、おいで下さいました」

門外には四大金剛が打ち揃って迎えに出ている。
「弟子の玄奘でございます」

三蔵が頭をさげて、門を入ろうとすると、
「少時、お待ち下さい。奥に連絡致しますから」

四大金剛の中の一人が二番門へ、二番門が三番門へ、
三番門から更に大雄殿へ上奏すると、
如来至尊釈迦牟尼文仏はいたく喜んで、
八菩薩、四金剛、五百阿羅、三千掲諦、十一大曜、
十八伽藍を一堂に呼び集める一方、
すぐ三蔵を招じ入れるように命じた。
「では奥へどうぞ」

四人はおそるおそる大雄殿へ進んだ。
三蔵は如来の前に伏して三拝九拝をし、
恭々しく関文を手に捧げ出した。

如来は関丈を手にとると、
三蔵の通ってきた困難の数々を丹念に眺め、
いちいち頷きながら、またそのまま三蔵へかえした。
「ごらんのとおり、私は大唐皇帝の聖旨を受けて、
 遥々お経をいただきに参上致しました。
 これも数々の迷える魂を救いたいという
 一念からでございます。
 どうぞ仏祖さまには
 私どもの意のあるところをお汲みいただいて、
 一日も早く帰路につけるよう
 お取計らいいただきたいと存じます」

大慈大悲の如来は、無限の微笑を浮べながら、
おごそかにこう言った。
「お前のあの南瞻部洲のことは私もよく知っている。
 天高く地厚く、物資豊富で人口も多い。
 しかし、欲張りと好色の気風は巷に漲っているから、
 詐欺、殺人、強盗、さては、不忠不孝、不義不仁、
 さらにまた、賃金闘争、国会乱闘、デモ行進、
 轢き逃げ、脱税、等々の不埒な行為はああとを絶たない。
 生きながらにして阿鼻叫喚の地獄図を展開しているのも
 無理からぬことではないか?」
「仰せの通りでございます。
 ですから、いかにすればこうした不正不公平から
 人々を救うことが出来るのか、
 それを教えていただきに参ったのでございます」
「それは一口で言えば、道義心が地におちているからだ」
と釈尊は言った。
「なるほど孔子孟子か生まれて、
 仁義礼智信ということを教えた。
 しかし、歴代の帝王がこの教えを
 官吏登用試験の必須科目に加えても、
 流刑絞殺刑に処せらわる者の数は一向に減少していない。
 どうしてかというと、
 それは孔孟の教えが
 支配階級の秩序維持にばかり利用されて、
 空手形になってしまっているからだ。
 どうしてもここで道徳再教育をやる必要があると
 言わざるを得ない」
「あれッ、文部大臣のようなことを言っているよ」
と八戒が悟空に耳打ちすると、如来は少しも騒がず、
「いや、私の言う道語数育は仁義礼智信のことではない。
 煩悩の源は何であるかをよく考えて見るがいい。
 すべての煩悩は欲から出発している。
 だから欲を捨ててしまわない限り、
 いくら道徳の話をしたところで
 決して煩悩から解脱することは出来ないであろう」
「とおっしゃると、
 欲は人間がどこかで拾ってきたものでございますか?」
と沙悟浄がきいた。
「いや、欲は生まれついたものだ」
「じゃ捨ててしまえるわけがないじゃありませんか。
 拾ったものなら、恋でも金でも、
 捨てちゃえ捨てちゃえだけれど、
 身についたものを捨ててしまうのでは、
 身体まで捨ててしまわなければならなくなりますよ」

八戒がすぐに反駁した。
「いかにもその通り。
 身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあれ、
 と諺にも言われているじゃないか。
 現にここへ来るまでの間に、
 玄奘法師も余計なものは一切捨ててきているだろう」
「ですが、八戒から食気と色気を抜いてしまったら、
 何が残るでしょうか?」
と悟空がきいた。
「何も残らないよ」
と如来は答えた。
「やっぱりそうですか?」
「そうだとも。何も残らないね」
「じゃ、仮に沙悟浄から
 “忠実”の精神を抜いてしまったら?
 そして、私から“向う見ずの冒険心”を
 抜きとってしまったら?
 私はまだいいとしても、
 沙悟浄のようにお師匠さまの尻に
 ついてまわるよりほかに能とてない奴に、
 お師匠さまの尻についてまわるな、と言ったら、
 それこそその日から路頭に迷ってしまいますよ」
「みんな同じことだよ。結果においてはね」
「そうかな?
 何かうまく言いくるめられているような気がして
 仕方がないな」
「どうしてそうであるかということは、
 三つの蔵に入ったお経を読めばよくわかる。
 法という蔵にあるお経は天を談じ、
 論という蔵のお経は地を説き、
 経という蔵のお経には鬼のことが述べてある。
 これを読んでしまえば、
 人生がいかに空しいものであるかを悟るであろう」
「空しいということを悟るためにお経を読むわけですか。
 一体、そのお経の数は蔵に三杯もあるということですが、
 どのくらいの量になるのですか?」
「全部で三十五部、
 巻数になおすと、一万五千一百四十四巻になる筈だ」
「へえ?
 それじゃ全部読み終れるまでに
 一生がすぎてしまうではありませんか。
 なるほどそれでは読み終った頃には、
 人生の空しさが実感として湧いて来るわけですね?」
「これ、
 如来さまに対して失礼なことを申すものではありません」

三蔵がびっくりしてたしなめると、
「怒ることはない。
 悟空の言うのも理屈の一つだ。
 道はいろいろあるが、悟りは一つだからね」

釈尊は相変らず柔和な微笑を浮べながら、
「では、阿儺と伽葉の二人に案内してもらって、
 一先ず食事をしたためるがよい。
 食事が終ったら、宝閣へ行って三蔵経を一揃い
 引渡してもらえるように手配しておくから」

四人は阿儺と伽葉の二人に連れられて御殿をひきさがった。

食堂へ入って見ると、食卓に並んだものはいずれも仙茶、
仙果、仙など、人の世とは異なった珍品ばかりである。
八戒は常日頃の習性で思わず手を出したが、
不思議とホンの一口二口で腹が一杯になってしまった。
「どうしてもっと食べないんだ?」
と悟空はきいた。
「どうしてだか、俺にもわからない。
 ひょっとしたら、俺もお供えに手の出ない仏の
 仲間入りをしたのかも知れない」

つまらなそうな顔をして、八戒は答えた。

食事が終ると、四人は宝閣に案内された。
門をひらいて、中へ入ると、カビ臭い匂いがしてくる。
見ると、お経は櫃の中に入れてあって、
無数に積みあげられた櫃の外側に、
楷書でそれぞれのお経の名前と巻目が書いてあった。

その一つ一つを拾って見ると、次の如くなる。

 涅槃経一部    七百四十八巻
 恩意経大集一部     五十巻
 礼真如経一部      九十巻
 維摩教一部     一百七十巻
 仏本行経一部      八百巻
 虚空蔵経一部      四百巻
 宝蔵経一部      四十五巻
 大光明経一部      三百巻
 金剛経一部       一百巻
 菩薩経一部    一千二十一巻
 首楞厳経一部    一百十一巻
 華厳経一部       五百巻
 未曽有経一部  一千一百一十巻
 正法論経一部    一百二十巻
 菩薩戒経一部   一百一十六巻
 伽経一部       一百巻
 仏国雑経一部  一千九百五十巻
 本閣経一部     八百五十巻
 具舎論経一部      二百巻
 法華経一部       一百巻
 僧祇経一部    一百五十七巻
 宝威経一部   一千二百八十巻
 維識論経一部      一百巻
 決定経一部     一百四十巻
 大般若経一部   九百一十六巻
 三論別経一部    二百七十巻
 五竜経一部      三十二巻
 摩竭経一部     三百五十巻
 西天論経一部    一百三十巻
 大智度経一部    一千八十巻
 大孔雀経一部    二百二十巻
 大集経一部     一百三十巻
 宝常経一部     二百二十巻
 起信論経山部      一千巻
 正律文経一部      二百巻

さて、阿儺と伽葉の二人は、蔵の中を隈なく見せ終ると、
三蔵を片隅に引張って行って小声で、
「時に、和尚さん、
 東土から遥々、ここまでおいでになって、
 我々にどんな心づけをくれるおつもりですか?」
「心づけですって?」
三蔵はびっくりして、
「何しろここへ来るまでだって、
 托鉢をしながら、やって来たのですよ。
 仮に国を出る時、何か持って来たとしても、
 途中で使いはたしてしまっています」
「フン。
 いくら坊主丸儲けと言っても、それは檀家に対しての話。
 まさか仲間同士で
 お前らは飢死をしろという挨拶はないだろう」

二人があれこれ難癖をつけているのを見ると、
悟空は我慢がならなくなって、
「お師匠さま、如来のところへ行って、
 ご自身でお経を渡してくれるように頼んで来ましょう」

阿儺は形勢不利と見るや、
「今のは冗談だよ。
 ちょっと浮世の真似をして見ただけのことだ。
 さ、欲しいだけ持って行きな」

言われたままに、
四人は渡された経典を次から次へと
白馬の背にのせて行った。

2001-05-10-THU

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