毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第八巻 ああ世も末の巻
第八章 末世の終り

一 忘却の彼方


銅台府をあとこした三蔵の一行は、
いよいよ仏の国に足を踏み入れることになった。

さすがは西方極楽だけあって、
そんじょそこいらの金持の庭園とは違って、
天と地の珍花宝樹を集めた絶景が続いている。
松も柏も幾千年の風雪に耐えてきた老樹ぞろいで、
古いものに憧れる三蔵の懐古趣味を
満足させるに充分であった。

三蔵の一行は夜を日についで先を急いだが、
六、七日もたつと、
やがて前方に高層の建築物が見えてきた。
「悟空や。あれをごらんよ」

三蔵は鞭をかざして前方を指さすと、悟空は、
「お師匠さま、
 ニセモノの仏の土地では、
 あわてて馬をおりて、その場にひれ伏したのに、
 どうしてホンモノの極楽にやってきたら、
 いやに落着いているのですか?」
と言った。
「いやいや。
 経験というものはおそろしいものだね。
 何度も予行演習をしたら、
 仏さまにお目にかかっても驚かないだけの
 度胸が出来てしまったよ」

そう言いながらも、三蔵は急いで馬をおりると、
弟子たちと一緒に歩き出した。

やがて門前まで来ると、
一人の童子がそこに立って待っている。
「もしや
 東土からおいでになられたお方ではございませんか?」
「ハイ。 左様でございます」

三蔵が威儀を正して、ふと前を見ると、
奥から錦衣をまとった一人の仙人がニコニコ笑いながら、
こちらへ向ってやってくる。
「お師匠さま。あれは金頂大仙ですよ。
 ここはきっと霊山のふもとにある玉真観です」
と悟空が相手の姿を認めて言った。

さすがに緊張を覚えた三蔵はすぐにそばへかけよると、
両手を合わせて丁寧に挨拶をした。

金頂大仙は破顔一笑、
「ずいぶんお待ちしていたのですよ。
 十何年も前に観音菩薩が、あと二、三年もすれば、
 あなたがおいでになると言っていたものですから、
 今日来るか、明日来るか、
 と思いながら待っておりました」
「おそれ入ります。
 何しろ浮世のことは
 とかくつまらないことで手間をとるものですから……」
「いやいや。
 手間をとることが即ち人生なんですよ。
 長い旅を本当にご苦労さまでした。
 むさ苦しいところですが、
 先ずは奥へ入って旅の塵でもお拭いになって下さい」

その晩、一行は大仙のご馳走になり、
久しぶりに風呂へ入ってから寝床についた。

翌朝、三蔵は着ていた衣服をとりかえ、
その上から錦欄袈裟をつけ、
頭の上に毘蘆帽、手に錫杖を握って、
金頂大仙に別れの挨拶に行った。
「馬子にも衣裳……じゃなかった。こいつは失礼」
と大仙は大笑いをしながら、
「昨日はボロボロの乞食坊主だったのに、
 今日は二枚目ですな。
 このままあの世こ行ってもらうのが
 惜しいような男っぷりだ」

三蔵が辞意を告げると、
「まあ、お待ちなさい。
 私が道案内を致しましょう」
「なあに、そんな必要はありませんよ。
 私が道を知っていますから」

悟空が言うと、
「お前さんの知っているのは空路だろう?
 聖僧はまだ雲に乗る術をご存じないから、
 やっぱり本道を通って行くよりほかないよ」
「そう言われて見ればそうですね。
 じゃご面倒でもご足労をお願いしますが、
 早いとこ出かけましょう。
 何しろうちのお師匠さまときたら、
 仏キチガイで、千里も一里どころか、
 十万八千里を遠しとせずやって来たのですから」

大仙はますます笑いころげながら、三蔵の手をとると、
「ではどうぞこちらへ」

前門を出るのかと思ったら、そのまま祭壇の上へあがった。
ここに法門があって、ここを抜けると、
すぐ目の前に霊山が見えている。

大仙は霊山の頂を指さして、
「ごらんなさい。
 空の上まで五色の瑞光が
 幾千重も続いておりますでしょう。
 これがかの有名な霊鷲高峯で、仏祖の聖境です」

三蔵があわててその場に跪こうとすると、
「早マル男性はもてませんよ。
 恍惚境に至るまでにはまだまた距離があるんですから」

悟空がひやかすと、
「これッ、聖地に入ってまで、
 そんなはしない冗談をいうものじゃないよ」

三蔵はびっくりしてたしなめたが、大仙は、
「では皆さん。
 聖地におつきになったのですから、ここで失礼致します」
「そうですか。
 どうもいろいろご親切に有難うございました」

金頂大仙に別れた一行は、
悟空を先頭にして霊山を登りはじめた。

五、六里ほども行くと、深い谷にぶっつかった。
谷底には逆流が渦巻き、あたりには人の子一人いない。

三蔵は逆巻く流れに気をのまれて、
「悟生や。とんだところへ来てしまった。
 大仙は我々に間違った道を教えたんじゃなかろうか?」
「いやいや。間遠った道ではありませんよ」
と悟空は笑いながら、
「あそこをごらん下さい。
 あそこに橋がかかっているではありませんか。
 あれを渡れば、極楽に入れるのです」

急いで三蔵がそばへ近づいて見ると、
橋のそばに「凌雲渡」と書かれている。
橋は、と見ると、
奔流のとに両足をおく幅もないような細い独木が一本、
空の涯まで続いているではないか。
「ああ」
と思わず三蔵は叫び声をあげた。
「これは人間の渡る橋ではない。
 ほかに道があるかどうか探して見ようじゃないか」
「ハハハハ……。
 道には広いところもあれば、狭いところもあろのですよ。
 キリストだって、
 金持たちに針の穴をとおって天国に入れと
 教えているじゃありませんか?」
と悟空は笑った。
「しかし、そいつはキリストの方が理不尽だよ」
と八戒がちょっかいを出した。
「金持を天国に入れないと言うものだから、
 金持はスクラムを組んで、
 この世で自分らの天国をつくっているじゃないか。
 お釈迦さまだって、
 もう少し広い道をつくって
 もっと多くの人に入国許可をあたえれば、
 貧乏人たちが皆、極楽へ移民しちゃって、
 金持といえども人手不足に悩まされるであろうのに!」
「ところが、そうは行かないんだ。
 アメリカやオーストラリヤを見ろよ。
 極楽というところはどこでも
 厳重な移民制限をやっている。
 さあ、行こう。
 皆が渡らないのなら、俺が先に行く」

悟空は独木橋の上にとびのると、
あっと言う間に橋の向うに渡ってしまった。
「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい」

手をあげて招くが、
三蔵も他の二人もしきりに手を横にふっている。
仕方がないので、悟空はもう一度戻って来ると、
やにわに八戒の袖をつかまえた。

八戒はその場に這いつくばると、
「助けてくれ。
 どうしても向う岸へ行けと言うなら、雲にのって行くよ」
「バカ言うな。ここはどこだと思っている?
 この橋を渡らなけりゃ、成仏することは出来ないんだぞ」
「成仏出来ないのなら、俺はあきらめるよ。
 本当なんだ。本当に俺は駄目なんだ」

二人がいまにもつかみあいをはじめそうなので、
沙悟浄が仲裁にとんで行った。
その間に三蔵がふと下を見ると、
人がひとり船をこいでこちらへやってくる。
三蔵は思わず声を張りあげると、
「おい、渡し船が来たぞ。喧嘩はやめろ」

三人がとびあがって、近づいて来る船を見つめていると、
何と底のない船ではないか。
船を漕いでいるのは、接引仏祖、
またの名、無宝幢光王仏であることは、
悟空にすぐわかった。
しかし、悟空は素知らぬ顔をして、
「こっちに来てくれ」
と船を呼んだ。

船が近づくと、
「さあ、乗りましょう」
「でも、底無し船では、どうやって渡るのだ?」

三蔵が青くなっていると、船頭は鼻唄まじりに、

  六塵不染能帰一(けがれをしらぬおんみなら)
  万却安然自在行(みちなきみちもうれいなし)
  無底船児難過海(そこなしぶねであればこそ)
  今来古往渡群生(そこぬけおちるうれいなし)

それをきくと、悟空は、
「だから、お師匠さま。
 覚悟さえよければ大丈夫ですよ。
 どんなに風や波が立とうとも、
 沈む心配はないのですから」

三蔵がなおも躊躇していると、
悟空はいきなり三蔵の身体を抱えて、船の上に押しあげた。

三蔵は足を滑らせて水の中へおちこんだが、
船頭が急いで船の上にひきあげた。

続いて、
悟空は八戒と沙悟浄に白馬をひかせて船上にあがった。

接引仏祖はいとも軽やかに船を動かすと、
水の中に死体が一つ映っているのが見えた。
三蔵が思わず、あっと叫ぶと、悟空は笑いながら、
「お師匠さま。あれはあなたじゃありませんか?」
「あっ、本当だ」
「お師匠さまだ、お師匠さまだ」
と八戒も沙悟浄も叫んだ。
「おめでとう。
 これであなたも浮世の煩悩を断つことが出来たのですよ。
 肉体さえ捨ててしまえば、
 喜びも悲しみも遠い彼方のことですからね」

なるほど逆流と思った流れも、
乗り出して見れば、鏡のように清らかな流れ。
見る間に、
三蔵は忘却の彼方に辿りついてしまったのである。

2001-05-09-WED

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