毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第八巻 ああ世も末の巻
第一章 理想境か失望境か

一 懐疑はおどる


童貞を守ることが
どうしてそんなにも必要なことであろうか。

八戒は盛んにそのことを強調するが、
女の魔手を逃がれた三蔵は、
まるで財宝を盗賊の手から守り通したかのように
嬉々としている。
「しかしね、お師匠さま」
と旅を続けながら、八戒は言った。
「お師匠さまはえらくお堅いことをおっしゃるけれども、
 そのお堅い頭だって、もとを言えば、
 お師匠さまのおふくろさんの
 あすこの門をくぐりぬけてきたのではありませんか。
 そして、そのもっと源をたずねれば、
 それはお師匠さまのおやじさんが
 息子の堅い頭をああでもない、
 こうでもないと振ったせいではありませんか?」
「それはまあその通りだが……」
と三蔵はニッコリ笑いながら、
「しかし、
 だからこそ私は同じ迷いをくりかえしたくないんだよ」
「ですが、お師匠さま。
 ご自分が体験しないで、
 どうしてそれが迷いであると断言できますか?」
「ハッハハハ……。
 すると、お前はこんな詩を知らないと見えるな」

三蔵は馬上から、あまり大きな声ではないが、
皆にはそれとききとれる声で吟じた。

  元来有口更無言(くちはあれどもことばはいえず)
  百億毛頭擁丸痕(まるいあたまにあとのこす)
  一切衆生迷塗所(ここはしゅじょうのなきどころ)
  十万諸仏出身門(ここはほとけのほんせきち)

「ワッハハハ……」
と真先に笑ったのは意外にも悟空であった。
「ワッハハハハ……。
 お師匠さまがこんな方面にも学があるとは
 知りませんでした。
 一体いつそんな勉強をなさるんですか?」
「十何年もお前らと旅をしていると、
 少しは賢くなるものさ。
 特に八戒の教育がよろしいからね」
「教育というのは
 西方のコトバでエデュケイションというのですよ。
 エデュケイトするとは、
 中にあるものをひっばり出すという意味ですから、
 無いものを身につけさせることではなくて、
 もともとあるものです。
 お師匠さまの体の中にもともとあるものですよ」
と八戒も負けずに言いかえした。
「うむ。そりゃ全くないとは言えないね。
 その証拠に以前は読書といえば経典ばかり読んでいたが、
 この頃は週刊雑誌や実話雑誌の方に
 先に手が出てしまうからね。
 朱に交われば赤くなるというが、
 私も大分堕落したものだ」
「いやいや。
 そういうのを堕落というのではありません」
と沙悟浄が口を出した。
「世間で人格者と言われている人たちは、
 世間知らずであるが故にお人好しな連中が多いのです。
 しかし、それでは言葉の正しい意味における
 人格者とは言えません。
 本当の人格者は、世の中の実も表も知った上で、
 なお悪に強い人たちのことだと思います」
「そういって慰めてくれるのは有難いけれども、
 欲求不満と戦うのは楽じゃないよ。
 そうじゃないかい、八戒!」
「いや、全くだ」
と八戒は手を叩いてとびあがった。
「お師匠さまのその口から、
 その言葉がいつ出てくるかいつ出てくるかと
 待っておりました。
 この調子なら極楽もきっと大分近づいてきましたよ」

折から炎熱にうだる季節であったが、
四人が道を歩いていると、
突然、マロニエの並木の下から、
一人の老女が右手に子供を抱えてとび出してきた。
「和尚さん。
 これから先へ行かれてはいけません。
 悪いことは言いませんから、
 どうぞここから引きかえして下さい」

びっくりした三蔵は馬からとびおりた。
「それはまたどういうわけですか。
 海は魚のおどるに任せ、天は烏の飛ぷに任せる、
 という諺もあるのに、
 西方へ行く道たけがとざされているとは!」
「ところが、お生憎なことに、海には領海ができ、
 空には領空ができる時代になったのです」
老女は西の方を指さしながら言った。
「ここから五、六里ほど行ったところに
 滅法国という国ができました。
 ここの新しい国王は──と申しましても
 人民が選んだ代表者ということになっているのですが──
 “宗教は人民の阿片だ”といって宗教の追放を宣言し、
 坊主と名のつく者は一万人殺すまでやめないと、
 片っ端から大虐殺をおこなっています。
 もうこれまでに既に九千九百九十六人を処刑し、
 あと四人で一万人というところですから、
 今から出かけて行くのは減法国王の大願を
 成就させてやりに行くようなものですよ」
「そいつは大へんだ。
 ご親切に教えていただかなかったら、
 ひどい目にあぅところだった」

三蔵は青くなりながらも、
「ところで、もし減法国を避けて通るとしたら、
 どこぞ廻り道をして西方へ行く道はございませんか?」
「いやいや。
 成層圏をとんで行く以外に、
 西へ行く方法はございませんよ」
「そんなことをおっしゃるけれど、マダーム」
と八戒が脇から嘴を入れた。
「我々はみな成層圏はおろか、
 宇宙のあちらこちらを
 自由にとびまわることが出来るのですよ」

どうも話の様子がおかしいので、悟空は目を据えて、
老女の姿を見つめた。
見ると、老女は観音菩薩の仮りの姿で、
手に抱かれたのは善財童子ではないか。
「やあやあ。
 これはこれは、観音さまではございませんか」

悟空があわてて両手を合わせると、
菩薩は早くも瑞雲にのって空へ舞いあがっていった。
三蔵をはじめ、八戒も沙悟浄も
大急ぎでその場にひれ伏したが、
もうその時は二人の姿は見えなくなっていた。
「お師匠さま。
 観音菩薩はもう南海にかえりついてしまいましたよ」
「どうして観音菩薩だということを
 早く教えてくれなかったのかね?」
と三蔵は文句を言った。
「だって私が両手を合わせた時、
 お師匠さまはまだお話をしていたじゃございませんか?」
「それにしても弱ったことになったたあ。
 滅法国で坊主を殺しているというのに、
 おめおめと殺されに行くバカはいるまい」

八戒と沙悟浄が口をそろえて言うと、
「なあに。
 妖怪変化にあい、虔穴竜潭にもぐりこんでも、
 擦り傷一つ負わないで生き抜いてきた我々じゃないか。
 滅法国と言ってもたかだか人間のやっていること、
 怖れるようなことは何もないよ」
「でも、もう日も暮れかかっているし、
 さしあたり今夜、庇をかりるところをさがさなくっちゃ」
「だから、お前らはお師匠さまを
 人目につかないところへ連れて行って、
 しばらくそこで待っているがいい。
 そのあいたに俺が町の中へとびこんで
 様子をさぐってくるよ」

悟空は一行を崖のかげに連れて行くと、
自分は揺身一変、雲の上の人となった。
見ると、滅法国の上には、
その名にふさわしからぬ瑞雲が棚びいている。
「おやおや。
 減法というのは世間の錯覚かもしれないぞ。
 でなきゃ俺のこの眼か錯覚をおこしているのか?」

陽は西に沈みかかって、あたりは刻一刻と暗くなっている。
「いくら夜になってからとて、
 このご面相で町中へ出て行くわけには行くまい。
 よしそれなら、
 とんで火に入る夏の虫と化けようか」
悟空は一羽の蛾に化けると、
いそがしそうに翅を動かしながら
明りのある方へとんで行った。
どこの家の門前にも明りがついていて、
まるで元宵節のような賑々しさでおる。
とある一軒の家の門前までくると、
明りの上に
「安歇往来商賈(おやすみどころ)」と書いてある。
下に「王小二店」と更に書き添えてあった。
「うむ。ここは宿屋だな」

早速、窓のすき間から中へもぐりこんで見ると、
晩餐をすませたあとの人々が、
着ていた服や帽子を脱いで寝台に就こうとしている。
「しめたぞ!
 これでお師匠きまは無事に滅法国を通過できる!」

言わずと知れたこと、悟空の頭に浮んだのは、
これらの旅客の衣服を盗み出して
三蔵たちに着せることであった。
ところが、悟空がそう思った次の瞬間に、
宿の主人は旅客に向って、
「皆さん、
 お休みになる時は身のまわりのものに気をつけて下さい。
 万一、荷物をなくなされても、
 宿では責任を負いませんよ」
「それじゃ困ります。
 もし泥棒が入るおそれがあるなら、
 私たちの荷物を
 どこぞ安全なところへしまっておいて下さい」
言われて王小二は荷物や衣類をまとめると、
自分らの住んでいる棟の方へ運び出した。
驚いた悟空が頭巾の上に翅をおろしてついて行くと、
王小二は門灯を消して自分の部屋へ戻り、
これまた衣服を脱いでねむってしまった。
ところが、王小二の部星では、
おかみさんが子供をあやしながら、
いつまでも縫い物を続けている。
「こりゃ弱ったぞ。
 おかみさんがねるまで待っていた日には、
 城門がしまってお師匠さまが入って来られなくなる!」

しびれをきらした悟空は、
まさに“飛んで火に入る夏の虫”よろしく
体当りで行灯にぶっつかって行った。
あっという間にあたりは暗くなった。
間髪を入れず、悟空は揺身一変、一匹の鼠に化けると、
チュウチュウと二声三声鳴き声を立て、その場にとびおり、
あたりの衣服の頭巾をさらって逃げ出そうとした。
「あれッ。あなたッ。ネズミのお化けが出たよオ」

それをきくと、悟空は暗闇の中で居直って、
「よくきけ、王小二。
 俺はネズミでも何でもない。
 本当は唐僧のお供をして西天へ
 行く斉天大聖というものだ。
 この国のデクテーターとやらが
 無道で我々僧侶を無事通してくれない。
 やむを得ず俗人の衣裳をちょっくら拝借に及ぷが、
 用をすませたら必ずかえしに来るから心配をするな」

王小二はあわてて暗闇の中で自分の服を着ようとするが、
上着の袖に足をつっこんだり、
ズボンに手をつっこんだりしているうちに、
悟空の姿は見えなくなってしまった。

2001-04-11-WED

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