毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第八章 尾花と露

二 インスタント・ベビー


悟空の老鷹は穴の中から飛び立つと、
洞門の入口へ戻ってきた。
「兄貴。化け物はいたかね?
 お師匠さまの姿も見つかったかね?」
と八戒かきいた。
「いたよ。いたよ」
「じゃお師匠さまはしばりあげられているかね。
 それとも蒸籠にでもかけられているところかね?」
「ところが、そうじゃなくて、ご馳走を並べられて、
 これからいよいよ最後の一線にかかるところなんだ」
「すると、兄貴は披露宴のお相伴に
 あずかってきたところなのかい?」
「バカを言っちゃいかん。
 お師匠さまの生命も危いというのに、
 酒なんぞ飲んでいられるかい?」
「それじゃここへ何をしに戻ってきたんだ?」

悟空は今までの経過を手短かに話すと、
「じゃもう一度、お師匠さまを助けに行ってくるから、
 お前らはあんまり淫らな想像をせん方がいいぞ」

言うなり、またも一匹の蒼塊に化けると、
穴の中へ入って行った。

奥へ入って見ると、
化け物は手下たちを動員して忙しそうに立ちまわっている。
悟空は気づかれないように魔を通りぬけると、
三蔵のいる東廊へ進んで行った。
「お師匠さま」

悟空の呼び声をきくと、三蔵はとびあがって、
「悟空か。何という向う見ずなことをしてくれた!
 他の人間は身体の中に胆っ玉があるのに、
 お前ときたら、
 胆っ玉が身体を包んでいるみたいじゃないか。
 おかげであの淫売女は気違いみたいになって
 俺をものにしようといって騒ぎ立てているよ」
「まあまあ、そう怒らないで下さい。
 私にいい考えがありますから」
「どんな考えがある?」
「さっき裏庭へ出て見たんです。
 そしたら、いい考えが浮んできました。
 どうかあの女を裏庭へ誘い出して下さい」
「誘い出してどうするつもりかね?」
「裏庭に桃の木があります。
 私がよく熟した紅い桃に化けておりますから、
 あの女に食べさせるのです。
 向うのおなかの中へ入ってしまったら、
 あとはもうこちらのものですよ」
「なるほど。じゃお前の言う通りにしよう」

二人で相談がおわると、
三蔵はかつてないほど積極的な態度で、
格子戸の中から出て行った。
「お嬢さん。お嬢さん」
「あら。私をおよび?」
「ちょっとお願いがあるんです」
「まあ、改まってお願いだなんて、
 どういうことなんです?」
「部星の中にばかりとじこもっていると、
 どうも窒息しそうな気持がするんです。
 よろしかったら、ご一緒に散歩をしてくれませんか?」
「まあ」
と化け物は俄かに目を輝かせながら、
「あなたにそんな素晴しい趣味がおありとは
 知らなかったわ。
 行きましょう、ご一緒に」

化け物は裏庭の門にかかった鍵をあけさせると、
三蔵の肩にもたれかかるようにして、裏庭へ出た。
「きれいなお庭ですね。花がきれいですね」

広い庭には二人のほかに、植物や風や光がいるばかり。

次第に佳境に入ろうとして、ふと見ると、
いつの間にか二人は桃の林にさしかかっていた。
「おや。あすこに熟れた桃がある!」
「あら、本当。おいしそうだわ」
「じゃとってさしあげましょう」

三蔵は手をのばすと、
真赤になった桃をつんで女の前にさし出した。
「お嬢さん。あなたの唇によく似合った桃です。
 これをあなたにさしあげましょう」
「まあ、何て親切なお方!」
と化け物はすっかり喜んだ。
「東洋の男性は女に不親切だなんて真赤な嘘ね……」

化け物は紅い桃を口元まで持ってきた。

ところが、あわて者の悟空ときたら、
相手が桃にかみつくまで待っていられない。
女が白い歯を見せたすきに、さっさと喉の中にとびこみ、
相手が目を白黒させている間に、
腹の中へもぐりこんでしまった。
「あれ、まあ、何という桃でしょう。
 自分で口の中に入ってしまったわ」
「きっと美人に食べられたいと思ったのですよ」
「でもタネもまだ出していないんですのよ」
「美人のおなかのなかで
 タネをつけたいと思ったのでしょう。
 きっと今にだんだんおなかが大きくなってきますよ」

一方、化け物のおなかに入った悟空は本性を現わすと、
大きな声で叫んだ。
「お師匠さま。
 もう相手に調子を合わせている必要はありませんよ。
 こうなったら、
 生かすも殺すもこちとらの胸三寸にあるんだから」
「本当に大丈夫なんだね? じゃ頼むよ」

三蔵が答えると、
「おや、和尚さん。今、誰に話をなさったの?」
「私の弟子の孫悟空と話をしていたところですよ」
「孫悟空はどこにいるんですの?」
「あなたのおなかの中にいますよ。
 さっきお食べになった紅い桃がそうですよ」
「えッ?」

驚いて化け物は叫んだ。
「ああ。万事休すだ。
 だけど、孫悟空め、
 何だって女のおなかの中へ入ったりするんですの?」
「別に大した魂胆はないさ。
 お前さんの肺臓や肝臓を餌食にして、
 しばらくここで籠城をしようというだけのことさ」

それをきくと、化け物は色を失って、
三蔵の身体に抱きついてきた。
「和尚さま。
 私があなたをお慕い申しあげたのは
 前世からの因縁ですわ。
 伊達や酔興でお慕い申しあげたのではございませんわ。
 それなのに、ああ、それなのに、
 オータールー・ブリッジになってしまうなんて……」

女の涙もろい声をきくと、
悟空は三蔵が仏心をおこすのを恐れて、
拳を握りしめてあちこち力任せに殴りはじめた。
「アイタタタタ……」

化け物はその場に横倒れになって、
息も絶え絶えにもだえ苦しんでいる。
そのうちに声もなく身体も動かなくなったので、
気絶したのだろうと思って悟空が手をゆるめると、
化け物はいきなり息を吹きかえして、
「早くきて。誰かきて」

気をきかして花園の中には手下の者がいなかったが、
化け物の声をきいて遠くから駈けつけてきた。

見ると、化け物が地面にひっくりかえって
手足をバタバタさせているので、
「マダーム。どうなさいました?
 心臓の持病でもぶりかえしたのでしょうか?」
「違う。違う。私のおなかの中に人間がいるんだよ」
「えッ? もうこどもができたんですか?
 いくらインスタント時代でも、それは早すぎますよ」
「そうじゃないよ。
 おなかの中に人間が入りこんだといっているのに!」
「でもここにおいでになるじゃございませんか?
 それともマダーム、この方の身体の一部分だけが
 あなたの身体の中に入りこんだまま
 出てこないのでございますか?」
「いいから、質問はいいから、
 早くこの坊さんを外へ送り出して行っておくれ」

化け物の叫ぷのをきくと、悟空は、
「いやいや。お前が連れてきたんだから、
 お前がお師匠さまを送り出しに行かなくっちゃ駄目だ。
 無事、お師匠さまを外へ連れ出してくれたら、
 生命だけは許してやろう」

やむを得ず起きあがった化け物は、
自分の背中に三蔵を背負うと、外へ向って歩き出した。
「マダーム。どこへおいでになるんでございます?」

召使いたちがきくと、
「捨てちゃえ捨てちゃえ、
 どうせ拾った恋だもの……だよ。
 この坊さんを送り出しても、
 また別の男を拾ってくれば間に合うんだから」

化け物は一条の光にのると、
真直ぐ洞門の入口まで近づいてきた。
「悟空や。外で武器を鳴らしているような音がきこえるよ」

三蔵が言うと、
「おそらく八戒が熊手を鳴らしているのでしょう。
 お師匠さまが声をかけて見て下さい」
「おい。八戒や」

三蔵の声をききつけると、
「おや。お師匠さまが出てきたらしいぞ」

八戒と沙悟浄が道をひらくと、
化け物が三蔵を背負ったまま
穴の中からあがってくるではないか。

2001-04-08-SUN

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