毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第七章 色の道は底なし

三 女 の 靴


裏庭の暗いところまでくると、
二人は芝生の上に腰をおろした。

女は悟空の肩やら腰やら、あちこちさわりながら、
しきりに挑発行為にでてきたが、
そのうちに身体をすりよせて来て、
「ね、あなた! ダーリング!」

手はしきりに、
悟空の肝心なところをさぐる気配を見せている。
「冗談じゃない。
 本当に俺を卒倒させるつもりらしいぞ」

今をおいては、
到底、逃げるスキがないと見てとった悟空は、
女の手をつかんでいきなりその場にひきたおした。
「あら。ひどいじゃないの。
 あたしを手ごめにするつもり?」
「そうだとも。俺のこの巨大な棒の威力を知らねえか」

悟空はガバととびおきると、
元の姿に戻って素早く手に如意棒を握りしめた。
化け物が顔をあげて見あげると、
そこに立っているのが
唐三蔵の一番弟子だったからアッと驚いたっが、
さすがは男を何人も一呑みにしたほどの女怪だけに、
素早く起きあがると、
悟空が打ちおろす如意棒を両手に握りしめた双股剣で
ガチリとうけとめた。

寺の裏庭は忽ち一大戦場と化した。
夜のしじまを破るようにして、鉄棒と剣が鳴る。
悟空は如意棒を型通りにまわしながら、
一歩一歩と相手に肉薄して行った。
化け物は敵わじと見たのであろう。
突然、うしろをふりむくと、一目散に駈け出した。
「やい。逃げるな」

悟空は遅れまじとあとを追ったが、
化け物は左脚からハイヒールを脱ぎとると、
プッと息を吹きかけて、「変れ!」と叫んだ。
と、本人と全く同じ姿の女が現われ、
両手に一本ずつ双股剣を握りしめて、
悟空へ立ち向って行った。

その隙に化け物は一陣の風となって方丈へ吹き込み、
三蔵の襟元をつかむと、
そのままいずこともなく消え去って行った。

そんなこととは知らないから、
悟空は夢中になって女のあとを追って行き、
ただの一打ちで女を叩きつけた。
「ギャッ」というと思ったら、
案に反して女の姿はかき消え、
その代りに女靴が片足だけポロリと落ちてきた。
「しまった。図られたぞ」

悟空は大急ぎで、師匠のいる方丈へ戻ってきたが、
既に三蔵の姿は見当らない。
「こん畜生! バカ野郎!
 間抜け! ひェつとこ! 只餌食い!」

悟空は思わずカッとなって入八戒と沙悟浄を
怒鳴り散らした。
「何のためにお前らをここに残しておいたんだ?
 殴り殺してやるぞ」

あまりの剣幕に、
八戒は逃げ場を失っておろおろしているが、
そこは覚悟のよい沙悟浄である。
「兄貴の腹の底を見破りましたよ。
 兄貴はお師匠さまがいなくなったのを口実に、
 まず我々を消して、
 それから、自分は国へ引きかえそうといぅのでしょう?」
「バカを言うな。
 お前らのような無駄飯食いは叩き殺してしまって、
 俺一人でお師匠さまを助け出してくる!」
「ハッハハハ……」
と沙悟浄は笑い出した。
「それならば、たとえ無駄餌食いでも、
 我々二人が加わらなければ、仕事になりませんよ。
 馬は誰が牽きます? 荷物に誰が背負います?
 三味線だって、
 一本糸では音楽にならないではありませんか?」
「それもそうだ」
とあっさり悟空は頷いた。
「ですから、今夜のところは勘弁して下さい。
 その代り、もう夜も明けるでしょうから、
 お日さまが出てきたら、
 すぐ一二人で一緒にお師匠さまを探しに行きましょう」

三人が暗がりの中でごそごそ荷物を片づけているうちに、
ほのぼのと夜が明けてきた。
早速出発しようとすると坊主たちがやってきた。
「和尚さま。どこへおでかけでございますか?」
「いやはや、昨日、お前らに大きな口を叩いたが、
 化け物をつかまえないうちに、
 逆にこちらの方がお師匠さまをさらわれてしまったんだ。
 仕方がない、
 これからお師匠さまを探しに出かけるところだ」
「そりゃとんだことになりましたね。
 で、一体、どこへさがしに行かれるのでございますか?」
「お師匠さまが連れて行かれたところさ。
 見当は大体ついている」
「それなら、そんなにお急ぎにならないでも、
 朝ご飯をおすませになってはどうですか?
 今すぐ用意をさせますから」

大急ぎで朝食の用意が出来ると、八戒は腹一杯詰めこんだ。
「さあ、これでよし。
 無事お師匠さまをとりかえしてきたら、
 またこちらへご厄介になりに乗るよ」
「へえ?
 まだこの寺の飯を食いに戻ってくるつもりなのか」

あきれたように悟空は笑いながら、
「時に、天王殿の奥に、
 あの女がいるかどうか見てきてくれんか?」
「いいえ、おりませんよ。
 最初の一晩だけで、
 あとはどこへ行ったのか見当らないようです」

坊主たちが答えると、悟空は、
「どうせそうだろうと思ったよ。
 よしよし、じゃ早速、出かけるとしよう」

坊主たちに別れを告げると、悟空が先に立って歩き出した。
「兄貴、方向が逆だよ。そっちは東だぜ」
と八戒が気づいて言った。
「知っちゃいないんだな?
 この間、黒松林の中でお前らが助けたあの女、
 あれが我々のお師匠さまをさらって行ったんだ。
 もっともお前たち二人は、
 あの女は善良な女だという意見だったようだがね」

悟空がお寺の庭の真夜中の出来事を話すと、
二人は驚きの目を見張って、
「へえ、そんなものかな。人は見かけによらないものだな」

三人は松林の中へ戻って行った。
しかし、いくらさがしまわっても、
妖怪変化の足跡らしいものは見当らない。

悟空は次第に心が焦ってきて、如意棒を抜き出すと、
揺身一変、かつて天宮荒らしをやった時のような
三頭六臂の姿になった。
そして、六本の腕に三本の如意ぴ棒を握りしめると、
柿の中をかけずりまわって、あたりかまわず叩きつけた。
「見ろよ。兄貴もいよいよ頭にきたらしいよ」

八戒が指さしていると、
悟空の目の前にいつの間にか二人の年寄りが跪いている。
「おやおや。打出の小槌みたいなものだな。
 一打ちごとに、山神や土地神が出てくるなら、
 もう一打ちで、化け物もとぴ出してくるかも知れないな」

見ると悟空は声を大にして、
「やい、お前らは地方のボスたちから
 少々のお賽銭をもらっているからと言って、
 一生が安泰だと思ったら、とんだ大間違いだぞ。
 さ、俺たちのお師匠さまをどこへかくした?
 さっさと白状しないと、只ではおかんぞ」
「とんでもない話でございます」
と二人は目を丸くして答えた。
「私どもの管轄内にはボスもおりませんし、
 化け物もおりません。
 化け物がいるのはもっとずっと南の方ですが、
 それについては、私たち、
 ホンの少ししか知っておりません」
「ホンの少しでもいい、知っているだけのことを言え」
「じゃ、申しますが、
 あなたのお師匠さまをさらって行ったのは、
 もしかしたら、ここから南へ千里ほど下った
 陥空山というところに棲んでいる化け物では
 ないでしょうか。
 あすこには無底洞いう洞窟があって、
 女の化け物が巣食っています」
「そいつだ。そいつに間違いない」

悟空はハタと手を打つと、土地神たちに別れを告げ、
急いで八戒と沙悟浄のいるところへ戻ってきた。
「おい、お師匠さまは相当遠方へ行ったらしいよ」
「それなら、こちらも雲にのって追っかけようじゃないか」
三人は雲にとびのると、須臾にして
見るからに嶮しそうな蜂の聳え立ったところへやってきた。
「兄貴、どう見たって、ここけけ化け物の棲家だね」
と八戒が言った。
「山高ケレバ妖怪有リ、さ」
と悟空はすぐに応じた。
「そこでお前に頼みたいことがあるが、
 俺と沙悟浄はここで待っているから、
 お前が先陣を受け持って、
 どこに化け物の洞窟があるか探してきてくれんか」
「チェッ。
 何も俺にそんな損な役廻りを
 押しつけることはないだろう」
「しかし、
 昨夜からお前は全責任はかかって
 自分にあるというようなことを言っていたじゃないか。
 今になってとり消したってもうおそいよ」
「わかったよ。俺がいくよ」

八戒熊手をおっぽり出して、着物の裾をなおすと、
素手のまま山の中へ入って行った。

2001-04-05-THU

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