毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第七章 色の道は底なし

一 三蔵の弱気


更に奥へ進むと、
山門に「鎮海禅林寺」という大きな額がかかげられている。

三蔵は、耳できくと目で見ると、
あまりに違いすぎる西方事情に驚きながら、
山門をくぐると、ちょうど一人の喇嘛(らま)僧が
こちらへ向って歩いてくるのに出会った。

喇嘛僧はスマートな三蔵の姿を見つけると、
すぐそはへやってきて、
ニコニコ笑いながらその手にさわったり、足にさわったり、
ついで鼻をつまんだり、耳を撫でたりした。
それから抱えるようにして、方丈の中へ連れて行った。
「あなたさまはどちらからおいででございます?」

挨拶が終ると、喇嘛僧がきいた。
「私は大唐国から勅命を受けて
 天竺の雷音寺へお経をとりに参る者でございます」
と三蔵は答えた。
「へへへへ……」
と喇嘛僧は笑い出してしまった。
「その冗談はこの土地では通用致しませんよ。
 なにしろ私たちはだてに頭を坊主にしたわけじゃ
 ありませんからね」
「そいつはまたどういう意味ですか?」
とびっくりして、三蔵がききかえすと、
「この土地では好きこのんで坊主になる人間なんか
 一人だっておりませんよ。
 家が貧しくてとても子供を養いきれない親が、
 子供の頭を剃ってお寺へ送り込むのです。
 ですからお寺は、言って見れば孤児院みたいなところで、
 一旦坊主になった者が、
 今さら国王の勅命のと口走っても、
 誰も本気に致しません」
「しかし、私は本当のことを申しあげているのです」
「ほほお?
 すると、あなたはたった一人で
 東土からおいでになったとおっしゃるのですね?
 一体、東土からここまでどのくらいの道のりがあるか
 ご存じないんですか?
 山という山、河という河には
 妖怪変化がうようよしているというのに、
 そのおやさしい顔立ちで化け物たちを手玉にとって、
 無事通り抜けて来られた、とでもおっしゃるのですか?」
「ご不審に思われるのもご尤もでございますが、
 実は聖人ではございません。
 外に徒弟を三人待たせております」
「外とは、どこのことでございますか?」
「山門の外でございます」
「や、そいつはたいへんだ。
 ここは一歩山門を出ると、
 白昼でも百鬼の横行するところです。
 早く中へ呼び入れないことには、
 どんな目にあわされるかわかりません」

喇嘛僧は二人の小僧に命じてすぐ外へ迎えにやらせた。
二人は外へ出て行ったが、
間もなく息せききってとんでかえってきた。
「和尚さま。あなたのお弟子さんはどこにも見当りません」
「なに? 見当らない?」
「ハイ、お化けが三、四人立って、
 こちらを睨んでいるだけでした」
「ハッハハハ……。
 で、そのお化けはどんな顔つきをしていました?」
「一人は雷のようなトンガリ口で、
 一人は豚のような長い口で……」

喇嘛僧が説明するのをきくと、三蔵は笑いながら、
「実はその三人の面のまずいのが私の弟子ですよ。
 もう一人のきれいな女の方は、
 私がここへ来る途中の松林の中で助けてあげたんです」
「しかし、あなたのような美男の和尚さんが、
 どうしてまたそんな醜男どもを
 連れて歩いているのですか?」
と喇嘛僧が口を出した。
「顔はまずくとも、なかなか役に立つ連中ですよ。
 さ、早く行ってもう一度呼んできて下さい」

三蔵が催促すると、小僧はおそるおそる外へ出て行って、
「皆さん。お師匠さまがお呼びでございます」

言いながらもブルブルふるえているのを見ると、
八戒は悟空の肩をつついて、
「この小僧ときたら、まるでバネ仕掛けの人形みたいだよ」
「お前の面相におののいているのさ」

悟空が言うと、
「チェッ」
と八戒は舌打ちをしながら、
「何も自分でえらんだ面じゃないのにさ」
「まあ、そう仏頂面をしないで、
 その口を少しひっこめたら、
 今の十倍くらいは色男に見えるよ」

三人の徒弟と道づれの女は、
小僧に案内されて禅林寺の中へ入った。

やがて夕食の用意が整い、一同ご馳走にあずかると、
陽が暮れてあたりが暗くなった。
方丈には煌々と明りがともり、夜は次第に更けて行くが、
集まった喇嘛僧たちはいつまでも散って行こうとしない。

仕方がないので、三蔵は、
「明日早く出発したいと思いますから、
 休む場所をお貸しいただけませんでしょうか?」
「それはよろしいんですが、
 一つどうしていいかわからないことがございます。
 ほかでもありませんが、このご婦人の方は
 どちらにお休みいただいたらよろしいのでしょうか」
「ああ、そのことならご心配には及びませんよ」

やっと納得したように三蔵は笑いながら、
「別に下心があって連れてきたんではないのです。
 ですから、どうぞ、
 どこか適当なところがございましたら、
 そこへ寝かせてさしあげて下さい」
「それでは天王殿の裏に寝床の用意をさせますが、
 よろしゅうございますか?」
「ええ、結構ですとも」

三蔵が承知したので、喇嘛僧は女を連れ去った。
三蔵は、
「では明日の朝が早いから、我々も休むことにしよう」

一同、方丈の一つ部屋でザコ寝をすることになった。

さて、その翌朝。
いつもは真先に起きる筈の三蔵が
いつまでたっても超きて来ない。
荷物も取りまとめ、馬の用意も整ったので、悟空は、
「お師匠さま」と起しに行った。
三蔵は頭をもたげて何かもぐもぐ言ったが、
またそのまま横になってしまった。
「どうしたんです、お師匠さま?」
「どうも頭がフラフラする。
 身体の節々が痛くてたまらない」

八戒が手を出して額にさわって見ると、なるほど熱がある。
「わかった!
 昨夜はゼニの要らないご馳走だものだから、
 食べすぎたんだ」
「バカ言うな。俺がきいて見る」

悟空は八戒を押しのけると、
「お師匠さま。一体、どうしたんです?」
「どうも昨夜、ご不浄に起きた時に風邪をひいたらしい」
「大分顔色が悪いようですが、それで出発できますか?」
「坐るのもおぼつかないのに、
 馬にはとても乗れそうにないよ。
 ああ、とんだことになってしまったものだ」
「何をおっしゃるのです、お師匠さま。
 人間誰しも病気はします。
 身体の調子の悪い時は
 しばらく休養をとればよろしいんで、
 三日や四日遅れたからといって、
 天下の大勢に何の変わりもありませんよ」
「そうですとも。
 我々もちょうど骨休めになりますから、
 安心して病気をして下さい」

弟子たちが声を合わせてそういうので、
三蔵は床に伏したまま、またうとうとしはじめた。

そうしているうちに早くも、三日間たってしまった。
「悟空や」

突然、寝床の中から這いおきると、
三蔵は思い出したように、
「そう言えば、自分の病気にかまけて忘れていたが、
 あのご婦人には、
 ちゃんとご飯を食べさせてあげているだろうか」
「ご婦人の心配をするよりも、
 自分の病気のことでも心配して下さいよ、お師匠さま」

悟空が笑うと、
「それはその通りだ。
 悟空や、そこから紙と筆を出してきておくれ。
 私は太宗皇帝に手紙を書きたくなった」
「手紙を書いてどうなさるんです?」
「お前にもって行ってもらいたいんだ。
 ここにある関文も一緒にまとめてな」
「それはお安いご用ですが、
 一体、どんな手紙をお書きになるおつもりなんですか?」
「ああ」
と三蔵は大きな溜息をつきながら、
「陛下の勅命を受けて幾千万里遙々とやってきたが、
 このとおり病いの床に伏して
 もう二度と立ちあがれそうもない。
 どうかもう一人別の人を遣わされるように
 お願いしたいと思っているんだよ」

それをきくと、悟空はことさらに大きな声を立てて笑った。
「お師匠さま。
 少々気分が悪いからと言って、
 もうあの世に行くことを考えているのですか。
 はばかりながら、あの世も私の縄張りで、
 私がウンと首をたてにふらなけりゃ
 閻王もお師匠さまには手が出ませんよ」
「悟空や。
 私は病気が重いのだから、
 あんまり大きな口をたたかないでおくれ」

八戒は二人の会話をきくと、中へわって入って、
「兄貴。
 お師匠さまが駄目だと言うのに、
 兄貴一人で大丈夫だと頑張っても仕方がないよ。
 駄目なら駄目で、まず馬を売りとばして棺桶を買い、
 あと始末をどうするか皆で相談しょうじゃないか」
「阿呆こくな。
 お師匠さまが今日の大難にあうのは、
 前世、金蝉長老として
 釈迦如来のおそば近く仕えた時からきまったことなんだ。
 仏に仕えながら仏法を軽んじたんだからな」
「ふん。
 寝てもさめても、
 ホトケホトケと口走っているお師匠さまが、
 前世では仏法を軽んじていたんだって?
 じゃ聞くが、
 仏法を軽んじた老が人の世に生まれ出てきて、
 また仏法を求めて西方へ行くとはどういう因果なんだ?」
「それはちょうど大学時代に、
 麻雀やジャズにうつつを抜かした奴が、
 実社会へ出てから俄かに勉強をはじめるようなものさ」
「しかし、
 麻雀やジャズの方が教科書より役に立つかもしれないぜ。
 学校の単位で飯は食えないが、
 麻雀で出世する奴はあるんだからな」
「そりゃ、まあ、そうだ。
 しかし、うちのお師匠さまは、
 麻雀で点を嫁ぐほど気がきいていないから、
 やっぱり教科書的人生を送るよりほかないじゃないか」

二人が減らず口を叩いていると、
「悟空や」と三蔵が口をひらいた。
「とてもとても喉がかわいて死んでしまいそうだ。
 すまないが、
 どこぞへ行って水を一杯汲んできてくれないか?」
「水くらいならお安いご用ですよ、ハイ」
と急いで悟空は外へとび出した。

2001-04-03-TUE

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