毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第五章 子を飼う国

一 デマの都


手下どもは蒸籠の蓋をとると、
先ず八戒を一番下の段に入れた。
次の段には沙悟浄。
そして、次の段には悟空。

しかし、悟空は奴らが手を出してくる前に
素早く一本の毛を抜いて身代りにおくと、
自分はさっさと中空にとびあがってしまった。
そんなこととは知らないから、
小妖怪どもは寄ってたかって身代りの悟空を抱えあげると、
三段目におろし、
それから最後に三蔵を一番上の段におろした。
「八戒や沙悟浄なら
 少々くらい強い蒸気をかぶっても大丈夫だけれど、
 お師匠さまではインスタント食品になってしまうぞ。
 何とか方法を講じてやらないことには……」

小妖怪どもが盛んに薪をくべているのを見ると、
悟空はすぐに呪文を唱えて北海竜王を呼び出した。
「北海の小竜敖順です。何かご用でございますか?」
「使い立てをして申しわけないが、
 俺の師匠があの鉄の蒸寵の中で蒸されかけているんだ。
 蒸し殺されないようによろしく頼むよ」

言われて竜王は一陣の冷風を鍋の下へ送りこんだ。
その下では火が燃えているが、
鍋との間に緩衝地帯がおいてあるから、
熱は鍋の中へ伝わって来ない。

そのうちに夜も更けてきたので、老魔は手下の者どもに、
「ご苦労だった。
 あの通り金縛りにして蒸籠の中におしこんだからには、
 あとは蒸しあがるのを待つばかりだ。
 当番の者は火を絶やさないように充分気をつけるように。
 それから明朝はニンニクと塩と酢の用意を
 忘れないようにな」

あとの注意をすると、
化け物たちはそれぞれの寝所へひきあげて行った。

悟空は空の上から化け物たちの声をきいていたが、
耳をすませても蒸籠の中からは何の物音もきこえて来ない。
「蒸気があがってくりゃ少しは悲鳴をあげそうなものだが、
 どうしたんだろう?
 まさか北海竜王の来ないうちに
 蒸し殺されてしまったわけじゃあるまい」

雲をおりた悟空は揺身一変、
一匹の黒蝿に化けると蒸籠のそばへとんできた。
「一体全体、悶気で蒸されるのだろうか、
 それとも出気で蒸されるのだろうか?」
ときき覚えのある八戒の声である。
「へえ?
 悶気とか出気とか、そりゃまたどういう区別だい?」
と沙悟浄がきいた。
「知らないのか、料理のABCすらも?」
と八戒は言いかえした。
「悶気蒸しとは蓋をした蒸し方で、
 出気蒸しとは蓋をしないで
 蒸気の出るに任せた蒸し方だよ」

それをきくと、一番上にいた三蔵が、
「蓋は少しあいたままだよ」
「ぁれッ。
 じゃ今夜一晩かかってもまだ死ねないかもしれないよ」

三人が話しあっているのをきいた悟空は
すぐ蒸籠の上へとんで行くと、軽く押した。
と、蓋はすっぽりと蒸籠の上にかぷさった。
「大へんだ。蓋がしまってしまったよ」

三蔵はすっかりあわてた。
「じゃ悶気蒸しだ。いよいよ今夜でおさらばだよ」

八戒が言うと、三蔵も沙悟浄もおいおいと泣き出した。
「泣くな。泣くな。
 どうやら薪をくべる奴らが交替したらしいぜ」
「どうしてそれがわかる?」
と沙悟浄がきいた。
「いや、さっきここへ入れられた時は
 少しリユウマチ気味だったから、
 蒸気で蒸されてちょうどいいと思っていたが、
 今度はクーラーから冷たい風が
 吹きこんできたみたいだぜ。
 お−い。薪番!
 もう少し薪を入れてくれ」

「フフフ……」
ときいていた悟空は思わず含み笑いをした。
「俺が竜王に頼んで
 シベリアおろしの冷風を送りこんでやらなかったら、
 とっくの間に蒸し豚になっているくせに、
 全く贅沢な奴だ。
 もう二、三度大きな声を立てたら、
 風の方で怒って逃げ出して行ってしまうぜ」

早く三人を助け出してやろうと思うが、
いまここで本性を現わしては
忽ち大騒ぎになってしまうに違いない。
「そうだ。
 いつか北天門で護国大王と賭けをやった時に手に入れた
 催眠虫がまだ残っていたっけ。
 あれを使ってやろうじゃないか」

腰帯の中に手を入れてさぐって見ると、
まだ十二匹ほど入っている。
「二匹はタネに残しておいて、
 あとは奴らにくれてやろうぜ」

手にとってポイと投げると、
虫は忽ち小妖怪どもの鼻の孔からもぐりこんで行き、
十人の薪番はその場に横になってねこんでしまった。
「アッハハハハ……細工はリュウリュウ」

悟空はもとの姿に戻ると、蒸寵のそばへ近づいて、
「お師匠さま」
「や、悟空じゃないか。早く助けておくれ」
「兄貴は外にいるのですか?」
と声をききつけて沙悟浄が言った。
「もちろんだとも。
 お前らのような罰あたりじゃないからな」
「今のうちにうんと毒づくがいいさ、
 どうせ俺たちは阿呆で馬鹿で間抜けなんだから」

八戒がむきになって言うと、悟空は笑いながら、
「まあまあ、そう騒ぐな。今すぐ助けてやるから」
「どうせ助けてくれるなら、根っから助けておくれ。
 もう一度蒸籠に入れなおされないでもすむようにな」

悟空はまず三蔵の縄をほどくと、
続いて身代りになっていた一本の毛を身体におさめ、
更に蒸籠を一段ずつおろして、沙悟浄と八戒を救い出した。
八戒は縄から自由になると、
前後も忘れて駈け出そうとした。
「待て待て。先はまだ長いんだぜ」

その腕をひきとめて、先ず呪文を唱えて竜王をかえすと、
悟空は、
「これから西天まで行く間に
 まだまだ高い山がたくさんある。
 お師匠さまはあの通り健脚とはお世辞にも言えないから、
 馬をとりかえして来ないことには!」

金華殿の下まで行くと、馬がつないであったので、
どうやら無事にとりかえすことができた。
「さきざきにまだ国がいくつもあるから、
 パスポートもとりかえして来なくっちゃ」
「私の荷物なら、
 たしか金鑾殿の左手の方においているのを見かけたよ」
と三蔵が言った。
悟空がとんで行って見ると、
はたして荷物はすぐに見つかった。

八戒が馬のたづなをひき、正陽門に向って歩き出すと、
鈴や板を叩く音がして、なかなか警戒厳重な様子である。
「とても表門は通れそうもないな」

悟空が言うと、八戒は、
「表門が駄目なら裏門だ」

しかし、後宰門に行って見ると、
ここも同じように不寝番が立っている。
「ああ。もしお師匠さまのような凡骨がいなかったら、
 こんな時はお茶の子さいさいなんだがなあ」

悟空が嘆くと、八戒は、
「兄貴。わけはないよ。
 警戒の手薄なところをさがして、
 垣根を乗りこえてしまえばいいじゃないか」
「いやいや。そいつはあんまりいい方法じゃないよ。
 何しろお前ときたら、口に戸の立てられん奴だからな。 
 我々が成功して無事かえったあかつきに、
 実は俺たちは鼠小僧次郎吉の仲間だったなんて、
 あちこち言いふらされてはたまらんからな」
「そんなことにかまっちゃおられんよ。早く早く」

八戒にせかれるままに
悟空は三蔵に塀を越させる工夫をした。
しかし、
三蔵の厄運はまだ完全にすぎ去っていなかったのであろう。
もう寝しずまっていた筈の化け物たちが起きあがって、
「どうだ。
 蒸しあがったかどうか見まわって来ようじゃないか」

三人そろって現場へきてみると、
蒸しあがっているどころか、
薪番は一人残らずねむりこくっているし、
鍋は冷えきってしまっている。
「大へんだ。坊主たちの姿が見えないぞ」

忽ち大さわぎになって、
表門も裏門も人々でわき立っている。
見ると、門の封印はいずれももとのままになっているので、
「まだ宮殴の中から出ていないらしいぞ。
 それ、早くさがし出せ」
命令一下、手に手に松明をつけて庭の中を捜索しはじめた。
四人が見つけ出されたこというまでもない。
悟空だけはいち早く逃げ出したから縄目を免れはしたが、
八戒のボヤくまいことか。
「だから助けてくれるなら中途半端な助け方をしないでくれ
 と念を押したじゃないか。
 これじゃまた蒸寵に逆戻りじゃないか」

しかし、三蔵を宮殿に連れ戻った化け物たちは、
蒸寵の現場へ連れて行こうとはしなかった。
先ず八戒を殿前の柱にしばりつけ、
それから沙悟浄を殿後の柱にしばりつけた。
ただ三蔵だけは老魔がしっかり抱きかかえたまま
放そうともしない。
「そんな恰好をして、まさか生きたまま
 かぶりつこうというんじゃないでしょうね」
と三大王がきいた。
「こいつはそんじょそこいらの食べ物と違って、
 なまのまま食べたんじゃおいしくはありませんよ」
「そのくらいのことはわかっているよ」
と老魔は笑いながら、
「ただ放しておくと孫悟空の奴がまた盗みにくるからね」
「それじゃ裏の錦香亭の中にある
 鉄櫃の中に入れて亭門をしめておいたらどうですか。
 その上でもう三蔵は刺身にして平らげてしまったと
 デマをとばせば、デマがデマを呼び、
 きっとあの猿の耳にも入るでしょう。
 そうすれば奴もあきらめて
 ここから立ち去ってしまうでしょうし、
 その時になってから
 ゆっくり料理をしても遅くはないですよ」
「うむ。それがいい」
「それがいい」

他の二人が賛成したので、
三蔵はその夜のうちに奥に運ばれて
櫃の中にしまい込まれてしまった。
デマの都にデマが乱れとんだことは改めて申すまでもない。

2001-03-27-TUE

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