毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第三章 猿の冬籠もり

三 陰陽にも秋の風


よほど勇気のある者でなければ、
こんなところへ単身乗りこんで来ることは
出来ないであろう。

というのは獅駝洞の中は見わたす限り骸骨の山、
地面に敷かれた絨毯が人間の髪の毛でできているし、
壁は頭蓋骨をつみあげて築かれたものだからである。

しかし、前門を通りすぎ、更に第二門を通り抜けると、
俄かに幽静な寡囲気にかわった。
青々と茂った竹には風がささやいているし、
来るべき冬を間近に控えた高山植物が
生命短しとばかり咲き誇っている。

更に第三門をくぐると、奥に三人の魔王が
デンと坐りこんでいるのが見える。
いや、その兇悪そうなこと。

一人一人の化け物のまわりには
全身鎧兜で身をかためた手下どもが
幾十人となく取り囲んでいる。

殺気立ったその場の有様を見ると、
小鑚風に化けた悟空は、怖れをなすどころか、
すっかり喜んで、奥へ近づいて行った。
「大王」

声をかけると、
「よお。小鑚風か」
「ただ今、かえりました」
「山の様子はどうだった?
 孫悟空とやらいうのに出会わなかったか?」
と大大王がきいた。
「大王を前にしては申しあげかねます」
「何だと? そいつはまたどういうわけだ?」
「もし本当のことを申しあげて、
 大王がご機嫌を悪くなさると困るからであります」
「いや、苦しゅうない。ありのままを言え」
「では申しあげますが……」
と悟空は、さっき門の外の手下どもに喋ったようなことを、
あることないこととりまぜて話した。

驚くのは意気地のない小妖怪どもだけかと思ったら、
老魔までが額に汗をしている。
「おい。きいたか。
 こちらが奴らの来るのを
 待ち構えているだけかと思ったら、
 向うも鉄棒に磨きをかけて、
 こちらをやっつける準備をしているそうだよ」

大大王はまわりの者をふりかえると、
「すぐ表にいる者に中へ入って門をしめるように言え」

折りかえし報告があって、
「大王。表にいる連中はどこへ行ったのか姿も見えません」
「なに?
 さては風の声に驚いて逃げ出したと見えるな?
 だから言ったじゃないか、
 唐の坊主なんかにかかわらずに、
 門をしめて奴らをだまって通してやれ、と。
 こうなったら、早く戸をしめることだ。
 おい、早くしろ」

一仕事やらないうちに、戸をしめられてしまっては、
悟空の方が具合が悪い。
よし、どうせ嚇かしついでだ、とばかりに悟空は続けた。
「大王。まだございます」
「何だ?」
「奴は大言壮語して、大大王の皮を剥いでやる、
 二大王の骨をえぐりとってやる、
 三大王の筋を抜いてやる、などと申しております。
 たとえ門をしめても、
 奴は蝿に化けることが出来ますから、
 向うからこちらへ忍びこんできて
 逆にこちらの寝首をかくかも知れません」
「そうだ、そういうこともあり得る。
 ここはそのむかし蝿がうようよしていたが、
 蝿をなくそう運動で今や一匹もいなくなってしまった。
 だから、もし蝿がとんで入ってきたら、
 そいつは孫悟空と思えば間違いない。
 皆の者気をつけろ」

案外、何でも真に受ける無邪気な化け物なので、
悟空はすっかり愉快になってきた。
「よしよし、そうとわかったら、
 ひとつ蒼蝿をとばしておどかしてやれ」

悟空は頭のうしろから毛を一本抜きとると
息を吹きかけて「変れ」と叫んだ。
と、一匹の蒼蝿が現われて、
真直ぐ老魔の顔に向ってとんで行ったから、
老魔の驚くまいことか。
「大へんだ、噂をした途端に入ってきたぞ」

あわてた小妖怪どもが尻をぷっつけあって
蝿を追いまわしているので、
我慢のできなくなった悟空は思わず、
「ウッフフフ……」
と吹き出してしまった。
「しまった!」と思ったが、もう間に合わない。
なぜならば、笑った途端に化けの皮が剥げて、
小鑚風の口がとんがり口に変ってしまったからである。

三大王が素早くそれを見つけて、
いきなり悟空の腕をつかまえた。
「兄貴兄貴。すんでのところをだまされるところだったよ」
「どうした、どうした」
と老魔が言うと、
「孫悟空は、あの蝿ではなくて、この小鑚風だ。
 この小鑚風は偽者だ」
「しまった! 見破られたか」
と悟空は思ったが、なおも糞度胸をすえて、
「私が孫倍空ですって? 
 大王、よおく私の顔を見て下さい」

「ハッハハハ……こいつは小鑚風だよ。
 俺は一日に三度は顔を見ているから間違いっこない」
と老魔は笑いながら、
「お前の金稗を見せろ」
 悟空が服の中から金牌をとり出して見せると、
「この通り本物だよ」
「いやいや、兄貴。
 さっき俺はこいつが笑った途端に
 とんがり口をつき出したのを、この眼で見た。
 俺がこいつの腕をつかまえたら、
 あわてて口をひっこめたが、この眼に狂いはない。
 おい、者ども、縄をもって参れ」

手下どもは縄を持ってきて無理矢理、
小鑚風をしばりあげた。
着ていた服を剥ぎとると、かくれた部分が毛だらけなので、
もうこれ以上かくしおおすことが出来なかったのである。
「とうとうつかまえたぞ。者ども。
 三大王のために酒宴の用意をせい。
 孫悟空さえ取り押えたら、
 もう三蔵は俺たちの腹の中に入ってしまったも同様だ」

老魔が言うと、三大王は手をふって、
「いやいや。縄でしばったくらいでは、
 孫悟空は逃遁法を使って逃げ出してしまう。
 逃げないうちに、俺のあの陰陽瓶を持って来い。
 あの中へ押し込んでしまってから、
 ゆっくり酒を飲んでも遅くはない」
「そうだ。そうだ。そいつがいい」

三十六人の小妖怪が直ちに倉の中から瓶を担ぎ出してきた。

見ると、背の高さは僅か二尺四寸。
こんな、一人でも持てそうな小さな瓶に
三十六人もの力を要するのは、
この中に陰陽の二気が入っていて、
天文にかなった人数でなければ
梃子でも動かないからである。

三大王は陰陽瓶を庭へ持ち出させると、悟空の縄目をとき、
衣服を剥ぎとり、蓋をとってその中に投げ込んだ。
「さあ、これで西遊記も一巻の終りだぞ。
 悟空の奴が西方に行きたいなら、
 もう一度地獄の釜から這い出して、
 生まれかわって出なおしてきてからのことだな。
 どれ。ゆっくり酒でも飲むことにしようか」

大小さまざまの妖怪どもが緒戦の勝利に酔い痴れたこと
いうまでもない。

一方、陰陽瓶の中にほうり込まれた悟空は
片隅の方に小さくなってうずくまっていたが、
しばらくすると、
スイッチのかかった音がして涼しい風が吹きこんできた。
「ワッハハハ。
 瓶の中へ押しこめられたら、
 化学変化をおこして溶解してしまうときいていたが、
 こりゃ冷房装置のある部塁へ
 無料で入れてもらったようなものじゃないか」

独り言を言った途端に、
「アツツツツ……」
と叫んで悟空はとびあがった。
話をしなければ、いつまでも涼風が続くが、
音を立てれば忽ち猛火が出る仕掛けになっていることを
悟空は知らなかったのである。

幸いにも、悟空には避火術というものがあるから、
どうやら事なきを得たが、しばらくすると、
四十匹の蛇がニョロニョロと這い出してきた。
これも肝っ玉のない奴なら卒倒してしまうところだが、
悟空は少しもあわてずに、えいッと手で叩くと、
四十匹が八十本に切断されてころげおちて行った。

しかし、それと入れかわりに、
今度は三匹の火竜がとび出してきて、
パッパッと焔を放ちながら、
悟空のまわりを猛烈な勢いで動きまわる。
「アツツツツ……。
 蛇蝿なら怖くもどうもないが、どうも火竜は苦手だ。
 早くここから逃げ出さないことには、
 また火攻めにあいかねないぞ」

グッと背丈を伸ばして何十丈の高さになれば、
二尺四寸の瓶など突き破ってしまえるかも知れない
と思って、悟空は「大きくなれ!」と呪文を唱えた。
しかし、この瓶も如意型になっていて、
入っているものが大きくなると、
それに応じて容れ物も無限大になって行く。
「小さくなれ!」
と叫ぶと、容れ物も一緒になって縮んで行くのである。
「弱ったぞ。
 これじゃ抜け出そうにも抜け出せないじゃないか」

そのうちに火はますます勢いを得て、
中にいた悟空はますますあわてはじめた。
「ああ。
 このまま焼かれて見るかげもない廃人になるのは嫌だ」

ふと、その時、観音菩薩を思い出した。

陰陽瓶の中からいくら声を大にして叫んでも
観音菩薩の耳には届くまい。
しかし、万一大難にあったら、
この三本の毛を使いなさい、と言って、
いつか金色の毛を三本くれたことが頭にひらめいた。
「そうだ。あの三本の毛はどうなっただろう?」

手を後頭部にやって見ると、他の毛は悉くなえているのに、
この三本だけはまるで鋼鉄のようにピンと立っている。

すぐその三本を抜きとって、「変れ!」と叫ぶと、
目の前に、一本のドリルと一片の竹べラと
一本の縄が現われた。
「さあ、孔をあけるぞ」

忽ちドリルが活動をはじめた。
竹ベラと紐で弓型をつくり、
それをドリルにとりつけて勢いよくまわす。
と、見る見る瓶に孔があいて、光がさしこんできた。
「しめたぞ。やっと助かったぞ」

虫眼鏡でなければ見えないような小さな孔だが、
そこから抜け出すと、悟空は一匹の羽虫に化けて、
素知らぬ顔で、老魔の頭の上にとまった。
「どうだ、もうそろそろ溶けた頃だろう?」
と老魔が言った。
「そんなに時間がかかってたまるものか」
と三大王は笑った。
「じゃ、瓶を持って来させよう」

瓶を運びに行った小妖怪たちはすぐにとんで帰ってきた。
「大へんです。瓶の気が抜けてしまっております」
「バカな!
 陰陽の両気がこもっているのに
 抜けてしまう筈があるものか」
「でもごらん下さい。こんなに軽くなっていますよ」

一人の男が軽々と持って入ってきたので、
化け物たちはあッと叫んでしまった。
「底に孔があいてしまっている!
 中はすっからかんだ!
 や、すっかり冷めてしまっているぞ!」
「そうだとも。気が抜けりゃ男女の仲だって秋風が吹くぜ」
と悟空はつい減らず口をたたいた。
それをきいた老魔は、
「や、まだこの辺にいるらしいぞ。早く門をしめろ」

しかし、小妖怪たちが門をとざすより一足先に
悟空は獅駝洞を抜け出して、
ゆうゆうと三蔵たちの待っているところへ帰ってきていた。

2001-03-22-THU

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