毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第六章 インスタント・ドクトル

一 嘆きの王国


弥勒菩薩は悟空に案内されて小雷音寺に入ると、
すぐ粉々になった大銅鑼の破片をかきあつめにかかった。
「まさか、
 これが菩薩の持物とは思わなかったものですから」
と悟空が頭をかいていると、
「なあに、大丈夫。
 覆水は盆にかえらずというが、
 砕銅は何度でも鋳なおすことができるからね」

菩薩はそう言って、銅の破片を一ところに集めると、
ブーッと息を吹きかけて何やら呪文をとなえた。
と、忽ちもとの大きな銅鑼が眼前に復元した。
「ではさようなら。
 三蔵や皆の者によろしく」
「どうも有難うございました。
 色々お世話になりました」

菩薩の姿が見えなくなってから、悟空は奥へ入って、
三蔵や八戒や沙悟浄の縄目をほどいてやった。
「ああ、腹がペコペコだ。死にそうだ」

八戒お礼をいうどころか、身体が自由になると、
もう早くも台所へ向ってかけ出している。
「助太刀にきてくれた天兵たちは、
 どうなっているだろうか」

三蔵が心配顔でいうと、
「あとからかけつけてくれた亀将軍も蛇将軍も、
 みんな一緒に地下牢へおしこめられている筈ですよ」
「じゃ一刻も早く助け出してあげなくっちゃ。
 八戒、ご飯を食べるのはあとにして、
 早く地下牢を破る手伝いをしておくれ」

どうやら無事に二十八宿や五方掲諦や
亀、蛇両将軍らを救い出すと、
悟空らは小雷音寺に火を放って、
宝座も講堂もことごとく炊き払ってしまった。
さて、無事、小西天を通りすぎた一行は
更に西へ西へと馬を進めて行った。
いつしか冬もすぎ、春も終って、
またも熱い陽の射す真夏がやってきた。
「どうやら久しぶりで都会へ近づいてきたらしいな」

まわりを見ても、家なみが次第に多くなってきて、
何となく都の匂いがしてくる。
なるほど更に馬を進めると、
城壁をめぐらした大きな町が目の前に現われてきた。
「ここはどこだろうな」
と、馬の上から三蔵が大きな声で言った。
「おや、お師匠さまは近視になったと見えますな」
と悟空が笑った。
「近視になんぞなるものか。
 私の視力は、右も左も一・二だ」
「でもそれは大唐国を離れる前のことでしょう。
 年と共に体力に変化が現われるように、
 人間の視力にも衰えが見え出すものですよ」
「バカをお言いじゃないよ。
 私はまだそんな年でもないし、
 だいいち中年になれば、遠視になることはあっても、
 近視になるようなことはないよ」
「それならば、あの城壁の上にひるがえっている旗の字が
 お見えになりませんか。
 黄色い地に大きな字が三つ書いてあるじゃありませんか。
 アッハハハハ……。
 それともお師匠さまは知ったような顔をして、
 その実は字が読めないのかな」
「いくら私が人が好いと言ったって、
 なめるにもほどがあるよ。
 一体全体、
 風にはためいている旗の字が見えるものかね?」
「じゃどうして私には見えるのだろうか?」
「それはお前の眼が曲っているからさ」
「相手になることはありませんよ、お師匠さま」
と沙悟浄が脇から口を出した。
「兄貴は長旅で退屈しきっているので、
 お師匠さまをからかっているのです。
 城の姿も定かでないのに
 旗の字が見える道理がありません」
「ところが俺にははっきり見える。
 朱紫国と書いてありますよ」
「朱紫国なら西方の独立王国に違いない。
 関文の査証を受けずばなるまいよ」

ほどなく一行四人は城門へ辿りついた。
馬をおりて橋をわたり、門を三つばかりくぐると、
城内の広い通りへ出た。
通の傍らには市が立っていて
黒山のように人だかりがしている。
そこへ見なれない風貌の男たちが入ってきたので、
人々は珍しがってまわりに集まってきた。
「トラブルをおこさないように気をつけて歩け。
 間違いをおこすと大へんだからな」

三蔵に注意されて、
八戒も沙悟浄も処女のようにうつむいたまま歩いている。
ひとり悟空だけが胸を張って
あちらこちら珍しそうに眺めている。
そのうちに一行は塀にかこまれた大きな建物の前まできた。
見あげると、会同館と君板が出ている。
「一先ずこの中へ入ってみようじゃないか」
と三蔵が言った。
「中へ入ってどうするのですか?」
と悟空がきくと、
「会同館というからには
 諸国の人が集まってくるところだろう。
 お前らがここで一休みをしているあいだに、
 私が国王のところへ行って査証をもらってくる」
「そうして下さい。
 どうも見世物でもないのに、
 こううしろからゾロゾロと見物人について来られちゃ、
 かないません」

八戒は我慢していた嘴をつき出して
グッとうしろを睨みかえした。
驚いた見物人たちは波を打ってうしろへ退いたが、
その隙に一行は会同館の中へ入って行った。
会同館の中には飽長と副館長が事務をとっている。
そこへ見なれぬ怪物がヌッと入ってきたので、
「あなたたちはどこのどなたです?
 何をしにここへきたのです?」
「私は大唐国から西方へ
 経文をとりに行く文化使節でございます」
と三蔵は両手を合わせて言った。
「路中、たまたま御地を通りましたので、
 無断で通り抜けるのもどうかと思い、
 できることなら国王陛下にもお目にかかって
 査証をいただきとう存じます。
 その間しばらくの間
 ここで休息させていただくわけにはまいりませんか」
「それならば、部屋の用意をさせましょう」

館長は手下に何やら命ずると、
さっさと大広間から出て行った。
「ではどうぞこちらへ」

手下が案内しようとすると、悟空は不満げに、
「どうもこの国は待遇が悪くてかなわないな。
 どうして我々を国賓として待遇しないんだろうね」
「そんなことを言っても、
 ここは我が国の属国でもなければ、勢力圏でもないから、
 やむを得ないよ。
 それに往来する人だって多いことだろうから、
 いちいちかまっちゃおれんだろう」
と三蔵は言った。
しかし、悟空は、
「はじめからそういう弱気では困ります。
 向うがその気なら、
 必ず思いなおすように仕向けてやろうじゃありませんか」

二人がそういっているところへ、
係りの者が白米と麺と野菜などを持って現われた。
「かまどは向うにございますから、
 ご自分で自由にやって下さい」
「ところで、国王にお目にかかることはできますか?」
と三蔵がきいた。
「陛下は久しく国務を休んでおられますが、
 今日は色々と議案が出ているので、
 珍しく出ておいでになります。
 もしお目にかかりたかったら、
 今日のうちにおいでにならないと駄目だと思います」
「それならお前たち」
と三蔵はすぐ服を着更えにかかりながら、
「私が一走りしてくるあいだにご飯をたいておいてくれ。
 かえってきて飯を食べたら、
 早速にも出発しようじゃないか」

あとを弟子たちに頼むと、
三蔵は一人で御殿へ出かけて行った。
要件を申し出ると、黄門官はすぐに国王にその旨上奏した。
「ほお。
 久しぶりにここへ出てきて、
 天下に名医を求める布告を出したら、
 途端に高僧が現われるとは!」

国王はいたく喜んで、三蔵を殿下に迎え入れた。
「きくところによると、
 そなたの国でも国王が病気になって
 危うくあの世に行くところを、
 一命をとりとめたそうではないか」
「ハア。仰せの通りでございます。
 話せば長いことですが、
 河の竜王が賭けに夢中になって
 降らすべき雨をふところに入れたために、
 汚職のカドで斬首罪に服することになったのです。
 そこで夢に託して唐王に救いを求め、
 唐王も承知したのですが、
 竜王の首をはねるめぐり合わせになっていた自分の家来を
 ひきとめることが出来ませんでした。
 というのは将棋にことよせて
 家来をひきとめておいたのに、
 家来の方がちょっと居眠りをしている間に
 魂が天へのぽって行って
 竜王の首をはねてしまったからです」
「フーム。そんな家来がいるものかな。
 してその家来はどこの国からやって来た?」
「どこからやって来たってことはございません。
 姓を魏、名を徴と申す
 我が国のれっきとした丞相でごぎいます。
 珍しく天文地理に通じたお方で、
 この方のおかげで国はよくおさまっておりました。
 ただきびしいお方でしたから、
 天命をうけて竜王の首をはねることになると、
 我が王にひきとめられても、
 夢の中で斬るという離れ業をやりました。
 当然といえば当然のことですが、
 竜王がだまってはおらず、
 一旦、助けるとうけあっておきながら、
 唐王は約束をふみにじったと
 あの世に行って訴えたのです。
 そこで我が王は病気になり、
 いよいよあの世に召されることになったのですが、
 魏徴は責任を感じて、あの世にいる判官に手紙を書いて、
 国王に持たせてやりました」
「そしたら?」
「そぅしたら、
 国王は死んで三日してまた生きかえったのでございます。
 魏徴の友情に感じて都城の判官が文書を書き改めて、
 唐王の寿命を二十年のばしてくれました。
 唐国はその恩義に感じ、
 衆生を扶けるための水陸大会を開くために、
 こうして私に遙々と西方へお経をとりに参るよう
 お命じになったのでございます」
「なるほどねえ」
と国王はきき終ると大きな溜息をつきながら、
「貴国にそんなに立派な家臣がおいでになるとは、
 何とも羨ましい限りだ。
 この国では私がこんなに久しく
 病気に悩まされているというのに、
 誰ひとり手をさしのべてくれる家来はおらぬ」
そっと倫み見をすると、
国王は痩せおとろえて黄色い顔をしている。
三蔵が何とか慰めの言葉をかけようと思案していると、
ちょうど、そこへ光禄寺の係官がやってきて、
「お客さまのご飯の用意ができております」

それをきくと、国王も、
「では私の食卓も用意するがいい。
 今日はひとつ遠来の坊さんと
 一緒に食事をすることにしよう」

自分からそれをいい出したので、
かしこまっていた家臣たちもホッとして顔を見合わせた。

2001-03-02-FRI

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