毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第二章 左 団 扇

二 歴史はくりかえす


さて、一方、碧波潭の水底ですっかり一杯機嫌になって
出てきた牛魔王がふと見ると、
つないでおいた筈の辟水金睛獣が見あたらない。
「金睛獣を無断で放した者は誰だ?」

竜王が追及すると、部下の者は、
「存じません」
「気がつきませんでした」
と首をふるばかり。
「そういえば、さっき酒宴たけなわな時に、
 見知らぬ泥蟹がまよいこんできましたね」

竜王の息子たちがそういうと、
牛魔王は初めて気がついたように、
「そうだ。
 さっき私がここへ招ばれてくる前に
 孫悟空という男と一合戦やったから、
 犯人は奴かもしれない」
「孫悟空とおっしゃると、そのむかし、
 天宮荒らしをやったあの斉天大聖のことですか?」
「その通りです。
 なかなか手ごわい相手ですから、
 皆さんも十分気をつけられた方がよろしいですよ」
「それよりも、
 大王の乗り物を持っていかれたのでは困りましたね」
「なあに、大したことはありませんよ。
 アッハハハ……」
と牛魔王は笑いながら、
「今からあとを追っかけて行ってとりかえして来ますから」

水を分けて湖上に出た牛魔王は、
雲にのると、芭蕉洞めざしてとんできた。
あけっばなしになった門を入ると、
はたして金隋獣がつなぎっばなしになっている。
「やっばり孫悟空にしてやられたらしいな」

牛魔王と気づいた羅刹女は、
すぐそばへよってきてその袖にしがみつくと、
「あなたという人は何としたことです。
 酒に酔っばらって有頂天になっているから、
 金睛獣を盗まれたりするんですよ。
 おかげで私は人に顔向けが出来ないくらい
 赤恥をかいてしまったわ」
「悟空の奴はどこへ行った?」
「私の宝物をだましとって逃げてしまいましたよ。
 考えれば考えるほどカッとなってくるわ」
「まあまあ、そうあせることはないよ。
 今に俺が奴をふんづかまえて生き皮剥いで、
 お前の気がすむまでやっつけてやるから」

牛魔王は傍らにいる侍女をふりかえると、
「すぐ武器をもって参れ」
「生憎と大王の武器はこちらにはございません」
「俺のがなければ奥様のものでもいい」

着ていた外出着を脱ぎすてて、肩からタスキをかけると、
牛魔王は侍女のさし出した青鋒宝剣を握りしめ、
あたふたと芭蕉洞からとび出した。

山の上空をすぎ、造か遠くを見渡すと、
芭蕉扇を肩にかついだ孫悟空がエッチラオッチラ
空の上を駈けている。
「ありゃ何という恰好だ。
 何だって扇をひろげっばなしにして
 走っているのだろうか。
 うっかりあいつのそばに近づいて、
 あの扇で一あおぎあおがれた日には、
 それこそこちらが十万八千里の彼方まで
 吹きとはされてしまいかねないぞ。
 待て待て。
 向うが俺の姿に化けて俺の女房をだましたのなら、
 ひとつこっちも奴の身内に化けて
 奴をだましてやろうじゃないか。
 そうだ。
 奴のおとうと弟子の猪八戒なら、
 そのむかし顔を合わせたことがあるから
 何とか見破られない程度に化けることが出来るだろう」
悟空に七十二変化の術があるなら、
牛魔王にも七十二変化の術がある。
揺身一変、猪八戒に化けると、
牛魔王は先廻りをして悟空の行く手に立ちはだかった。
「よう、兄貴」

呼ばれて悟空はやっと八戒に気がついた。
「お前、何をしにこんなところへやってきたのだ?」
「兄貴がなかなかかえって来ないものだからお師匠さまが、
 もしかしたら牛魔王に敵わないで、
 てこずっているのじゃないかと心配してな、
 俺に見に行って来いといったんだ」
「ハッハハハ……そんな心配は要らねえ。
 ごらんの通り必要なものはちゃんと手に入れてきたよ」
「ほお。するとこれが本当の芭蕪扇か。
 世は贋物バヤリだから、こいつもまた、
 贋物をつかまされたんじゃないかな?」
「贋物か本物か、ためしにお前を一あおぎしてやろうか」

悟空が肩の芭蕉扇を手にとりなおしたので、
牛魔王の八戒はびっくり仰天して、
「いや、結構結構。
 それよりも
 一体どうやってその芭蕪扇を手に入れたんだね?」
「それがな、なかなか傑作な目にあったぜ」
と悟空は二ヤニヤしながら、
「牛魔王の女房に色仕掛けで言いよられてなあ、
 お前なら芭蕉扇なんて
 ほっぽり出してしまったんじゃないかと思うほどだよ」
「そいつは惜しいことをしたな。
 兄貴も友達甲斐がないというものだよ。
 そういう時はこの八戒を
 一緒に誘ってくれればよかったのに」

牛魔王は煮えくりかえる心をおさえて、
わざと微笑を浮べながら、
「しかし、とにかくよかったな。お師匠さまも喜ぶぜ」

二人は帰途についたが、一丈二尺の大扇を持っているので、
悟空は思うように歩けない。
「俺が代りに持ってあげようか」

牛魔王が言い出すと悟空はいささかの疑いも持たずに、
「それなら頼むぜ」

手から手へと渡された途端に、
牛魔王は何やら呪文を唱えた。
と、一丈二尺の大扇が
あッという間に杏の葉ほどの小扇に縮まった。
それを素早く口の中へほりこんでしまった。
「しまった!」
と悟空が気づいた時は既に遅い。
牛魔王は本性を現わすと、
「どうだ。俺がどこの誰だかわかったか?」
「ウム。雁狩りが雁に目の玉をつつかれるとはこのことだ」

いきなり耳の中から如意棒をとり出して、
牛魔王目がけて殴りかかったが、
牛魔王は巧みに身をかわすと、
口から扇を出してさっとばかりに一あおぎした。

十万八千里のかなたまで飛んで行くかと思いのほか、
悟空は盤石のように動かない。
それもその筈、
霊吉菩薩のくれた定風丹を肚の中にのみこんでいるからだ。

一度あおいでもビクともしない者は
二度あおいでも同じことである。
あわてたのは悟空でなくて、牛魔王の方だった。
急いで扇をまた口の中へ含むと、隻手に剣をかざして、
無鉄砲に打ちかかってくる悟空の如意棒を防いだ。

さて、二人が合戦をしているあいだに、
三蔵法師の方が待ちくたびれてしきりにあくびをしている。
「牛魔王というのはそんなに手ごわい相手だろうか?」
「そりゃ天下広しといえども、
 牛魔王の右に出る者はおりませんよ」
と火山の土地神が言った。
「それじゃ悟空でもかなわないだろうか?」
「実力からいえは、雌雄はつけがたいでしょう」
「二千里や三千里の道程は
 須臾の間に行ってかえる筈の悟空が、
 一日たってもかえって来ないところを見ると、
 いまだに勝負がつかないのかも知れないね」

三蔵は俄かに不安になると、
「八戒や。沙悟浄や。お前らの中のどちらでもいい。
 悟空の様子を見に行って来てくれないか?」
「行くのはよろしいけれど、
 積雷山というのはどの方向にあるのですか?」
と八戒かききかえした。
「おわかりにならないのなら、
 私がご案内してもよろしいですよ」

土地神が自分から申し出たので、三蔵は喜んで、
「ではどうぞ宜しくお願い致します」

2001-02-17-SAT

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