毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第二章 左 団 扇

一 一丈二尺を肩に


牛魔王をのせた辟水金睛獣は大空をつききって、
先へ先へとすすんだ。
「あいつ、一体、どこまで行くつもりなんだろうか」

あとを追いながら、悟空はしきりと首をかしげている。
野を越え、川を越えて、なおもあとを追跡して行くと、
高い山のそびえるあたりで、突然、牛魔王の姿を見失った。
「おやおや」

あわてて元の姿に戻ると悟空は山を分けて奥へ入った。
見ると、山の中に湖があって清らかな水をたたえている。
湖の畔りには「乱石山碧波潭」という石碑が立っていた。
「牛ちゃんの奴、このあたりで失踪したところを見ると、
 水の中へもぐったに違いない。
 さては水底の化け物と友達づきあいがあるんだな。
 よしよし、ひとつ俺も中へもぐって見ようじゃないか」

悟空は呪文を唱えると、今度は一匹の泥蟹に化けた。
そして、横這いをしながら湖の中にドブンととびこんだ。
 
碧波潭とよばれるだけあって、水は深い。
どこまでもどこまでも沈んで行くと、
水の中に美しい御殿が浮んでいるのが見えてきた。
御殿の入口をさがすと、
はたして金睛獣がつなぎとめてある。
「どうだ。やっぱり俺のカンはあたったな」

御殿の門をくぐると、中は水がなく、
陸上の楼閣と何ら変ったところがない。
しかし、よくよく見ると
壁は珊瑚の柱に真珠がふんだんにちりばめてあって、
その輝かしさはとても地上の比ではない。

すっかり感心しながら、なおも奥へすすんで行くと、
大広間へ出た。
目の玉を上へあげて覗いて見ると、
一番上座に牛魔王が席を占め、その両隣りには蛟の精が、
更に牛魔王と向いあって老竜王が坐って
互いに酒杯を傾けあっている。
広間の中は行ったり来たりする走り使いで
ごったがえしているので、
悟空の泥蟹はその中にまぎれ込んで中へ入ろうとした。
「こらッ。あの蟹をとりおさえろ」

声をあげたのはと見ると、老竜王だった。
途端に周囲に控えていた家来たちが
ワッとばかりに悟空をとりかこんでしまったので、
「生命ばかりはお助けを!」
と悟空はその場に立往生してしまった。
「お前はどこの風来坊だ。
 無断でここへ忍び込んできて、大事なお客のいる前で、
 縦に歩かずに横に走るとは無礼千万だぞ」

竜王がそう叫ぶのをきくと、悟空はまわりの者に向って、
「私は湖の脇の崖の中に住む横行介士です。
 生来の野蟹で王宮の礼をわきまえず、
 とんだご無礼を申しました。
 どうか平にお許しを」

家来たちがそのまま竜王につたえると、
「田舎者じゃ仕方がない。
 今度のところは勘弁してやるから、そとへつまみ出せ」

追われるまでもなく、
悟空はあわてて宮殿のそとへ逃げ出した。
「こりゃとんだ赤恥をかいてしまったわい。
 このままここで待っていても、
 飲み助の牛ちゃんのことだから、
 いつになったら果てるかわかったものじゃない。
 仮に宴会が終るまで辛抱強く待ったところで、
 芭蕉扇を貸してやろうという話には
 ならないかもしれない。
 そうだ。そうだ。ウム。
 いいことを思いついたぞ」

泥蟹から元の姿にもどると、悟空は金睛獣のそばへ近づき、
縄をといてその上にまたがった。
そして、横っ腹に一鞭くれてやると、
水の中をくぐって忽ち湖の上へ出て来た。

出て来たのを見ると、それは悟空ではなくて、
金睛獣にのった牛魔王である。
もとよりそれは牛魔王に身をやつした悟空の姿であった。

金睛獣は牛魔王の乗物だけあって、
霧の中でも雲の中でもロケットのようなフルスピードで
疾走する。
悟空をのせたまま、
あっという間に翠雲山は芭蕉洞の洞門へとやってきた。
「おい。かえってきたぞ」

門を叩く音に、娘ッ子が急いで扉をひらくと、
そこに牛魔王が立っている。
すぐ奥へとんでむって、
「奥様。旦耶様がおかえりになりました」
「まあ、ほんとかしら」

とるものもとりあえず羅刹女は門前までとび出してきた。
見ると、本当に牛魔王がそこに立っている。
「あなたがおかえりになってくれるなんて、
 きょうはどういう風の吹きまわしかしら」
「全くだな。でもお前も元気で何より」
「大王もまあ、十七歳に若がえったようじゃありませんか」
「そりゃ、お前、皮肉かい?」
と牛魔王に化けた悟空は苦笑しながら、
「何しろ玉面公主のところへ招かれてからというもの、
 向うにも色々と雑用があってな。
 奴は財産の管理なんてことはてんで無智ときているので、
 もう一軒会社の社長を兼任させられたような
 忙しさなんだよ」
「…………」
羅刹女が黙っているので、悟空はあわてて話題をかえた。
「それよりも、お前、きくところによると、
 孫悟空の奴が三歳法師のお供をして
 火山の近くまできているそうじゃないか。
 もしそれが本当だとしたら、
 ここへ芭蕉扇を借りにくるかもしれない。
 何しろ奴には恨みがあるから、
 この際、かたきを討たねばなるまいと、
 そう思って急いで戻ってきたのだよ」

それをきくと、羅刹女はハラハラと涙をこぼして、
「男は女房がなければ金が身につかない、
 女は亭主がなければ身によりどころがない、と申します。
 あなたがいなかったおかげで、
 私はもう少しであの猿に殺されるところだったのです」
「何だと」
殊更に悟空は声を荒立てて、
「すると、奴はここへ現われたのか。
 それはいつのことだ?」
「つい昨日のことですわ。
 扇を借りに来たから、私は息子のかたきだ、
 扇は貸すものかと言ってやりました。
 そうしたら、
 自分はあなたのご主人と義兄弟の間柄だといって、
 私をお嫂さんだなんて呼ぶんです」
「そう。五百年前に義兄弟の緑を結んだことがある」
「私は言ってやりましたわ、
 義兄弟なら何だってうちの息子を
 ひどい目にあわせたりしたかって。
 そして、
 芭蕉扇を一あおぎあおいで吹きとばしてやりましたわ。
 ところがどうでしょう。
 どこへ行って覚えてきたか知らないけれど、
 防風術を身につけてやって来て、
 私があおいでも身じろぎしないどころか、
 いつの間にか私のお腹の中にもぐりこんで、
 さあ、扇をかせ、かさなんだら、
 腸をねじまげてやるぞとおどかすんです。
 とうとう私から扇をかっさらって出て行きましたわ」
「畜生奴。
 何だって扇をとられてしまったんだ。
 きけばきくほど頭に来ちゃうじゃないか」
「だけど安心よ」
ニヤリと羅刹女は笑った。
「私が貸してやったのは贋物なんです。
 今頃贋物だとわかって頭を抱えこんでいるでしょうよ」
「すると、本物はどこにおいてある?」
「ご心配無用。
 私がちゃんとしまってありますわ」

羅刹女は腰元に酒の用意をさせると、
早速、悟空の杯になみなみと酒を注いだ。
「こうして久しぶりにさし向いになると、
 結婚したばかりの頃を思い出すわ。
 あなたもむかしにかえって思いきり飲んでちょうだい」

そう言われると今更拒むこともできないので、
悟空は笑いながら、
「それよりお前、お前がさきに飲んでおくれ。
 俺が家を留守にしても、
 こうして家の中がちゃんとしているのは、
 ほかならぬお前がちゃんとしているからだ。
 さあ、感謝の杯を先ず一杯」
「まあ、きょうは何てやさしい人なんでしょう。
 でも妻はやっぱり刺身のツマですわ。
 感謝されるもされないもないことよ」

肩にもたれたり、肌にさわったり、
チョウチョウナンナンとやっているうちに、
羅刹女は次第に情感が溢れてきた。
そこを素早く察知した悟空は、
「ときにお前、芭蕉扇はどこにしまってあるんだ。
 よく気をつけないと、孫悟空という奴は変化自在だから、
 盗まれてしまわないとも限らないぜ」
「ホホホホ……」

笑いながら、
羅刹女は口の中から杏くらいの小さな扇を吐き出して、
悟空の前にさし出した。
「ここにあるじゃありませんか。ほれ、ごらんなさい」

悟空は手にとってしげしげと眺めたが、
こんな小さなもので、
あの火山の火が消せるとはどうしても思えない。
こいつもまた贋物じゃなかろうか。

いつまでも悟空が小扇に心を奪われているのを見ると、
羅刹女は脂粉の匂う顔をヌッと目の前につき出してきて、
「さあ、それをしまって、酒にしましょうよ。
 何をそんなに考えこんでいらっしゃるの」
「いや、こんなちっぽけなもので、
 どうやって八百里の炎を消すことが出来るんだろうかと
 不思議に思っているところだよ」
「おやおや。
 まあ、何としたことでしょう。
 二年間、家を留守にしただけで、
 自分の家の宝物の扱い方まで忘れてしまうなんて。
 きっと玉面公主に
 脳髄まですっかり吸いつくされてしまったのだわ」
「脳髄まで吸いつくされたというほどではないが、
 この頃はどうも記憶力がすっかり悪くなってしまってね」

手にとった小扇をいじりまわしていると、
「そうじゃないわよ。
 左手の親指で柄の上の第七番目の紅い糸をつまんで、
 嘘呵吸吹呼といえば、忽ち一丈二尺になりますよ。
 火山の炎が八百里でなくて八万里あったとしても、
 ただの一あおぎでしずまってしまいますわ」
「ホエイフイホーハーヒーフイホー、
 そうそう、そうだったな」

忘れないようにもう一度復誦をしてから
徐ろに立ちあがると、
悟空は先ず扇を自分の口の中へほりこんだ。
そして、自分の顔を一なでなでおろしながら、
「よく見ろよ、この顔を。
 お前の亭主であるかどうか、
 顔を洗いなおして見るがいい」

それと気づいた羅刹女は、
驚きのあまりその場に伏せてしまった。
「悔しいったらない、ああ。
 はずかしいったらないわ」

叫びつづけているのをそのまま後に残して、
悟空は芭蕉洞をとび出した。
そして、斗雲にのると、
一足跳びに山の上までとびあがった。

誰もいないところまでくると、
悟空はさっき羅刹女がしたように
口の中から小扇を吐き出した。
それから教えられたように、
第七番目の紅い糸をひねって呪文を唱えると、
あれよあれよと思う間に、
小さな扇が一丈二尺もある大扇になった。

手にとって見ると、この前の贋物と寸分違わない。
「これで火山の火が消えるものかな?」

物は試しだが、
それよりも先ずお師匠さまのところへ戻ることだ。

悟空はひろげた扇を縮めようと思ったが、
あんまりあわてすぎてつい縮める方法をきき忘れたので、
どうしようもない。
仕方がないので、
一丈二尺を背中にかついでエイコラサッサと
もときた道を戻って行った。

2001-02-16-FRI

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