毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第一章 妻と妾と友と

一 女の二言


芭蕉洞を前にして、
悟空はハムレットのように考えこんでしまった。

師匠の三蔵法師を守って無事に火山をわたろうと思えば、
鉄扇公主の芭蕉扇を借りるよりほかない。
しかし、鉄扇公主の息子の紅孩児は悟空に降参して、
いまでは観音菩薩のもとでお稚児さんをつとめている。
善財童子といえば、善男善女も羨む立派な地位だが、
父親の牛魔王も母親の鉄扇公主も、
息子を自分たちから引き離したことで悟空を恨んでいる。
「芭蕉扇を借りに行ったものか、
 それともこのままひきかえしたものか」

悟空が思い惑っていると、樵夫は笑いながら、
「あなたは出家ではございませんか。
 出家というものは他人に物事を頼んで断わられても
 別に恥にはならない。
 人の世話になってお返しをしないでも
 誰も怪しむ者がない。
 この特権を利用しないということはないでしょう?」

「それはその通りですが、
 実は先年、火雲洞というところで、
 向うのセガレの紅孩児と
 派手にわたりあったことがあるんです。
 私がここへ来たと知れば、
 芭蕪扇を貸してくれるどころか、
 恐らくタダですむまいと思うと、
 つい二の足をふんでしまうんですよ」
「大の男がむかしのことで
 クヨクヨすることはありませんよ。
 あなたは芭蕉扇を借りるのが目的なんでしょう。
 お師匠さまを無事通してあげるという
 大義名分もあるんでしょう。
 それならば、この際、
 堂々と乗りこんで行くに限りますよ」
「いや、どうもありがとう。
 たしかにあなたのおっしゃる通りだ」

名も知らぬ樵夫に教えられて、悟るところのあった悟空は、
別れを告げると、まっすぐ芭蕪洞の門前へやってきた。

堅く扉をとざした洞門の前に立って、遥かに見渡すと、
一望千里の絶景である。
「なるほど、
 俺と義兄弟の契りをむすんだ牛魔王の根城だけはある!
 風光明媚プラス難攻不落の地理地形だ」

しばらくは感心して、あたりを見まわしていたが、
やがて洞門に近づくと、
「牛兄貫はご在宅か」

大きな声で案内を乞うと、
扉があいて、小さな娘ッ子がひとり顔を出した。
「せっかくでございますが、大王はお見えになりません」
「大王がいなくても、奥様の方はおいでになるだろう」
「ハア。奥様なら……」
「それじゃ奥様にこう言って下さい。
 西方へお経をとりに行く坊主が
 火山を通るために芭蕉扇を拝借にまいりましたと」
「あなたはどちらのお坊さんでいらっしゃいますか?」
「東土からきた孫悟空という坊主だと言えば、
 おわかりになるはずですよ」
「ではちょっとそこでお待ちになって下さい」

娘ッ子は悟空をその場に待たせたまま奥へ入って行くと、
「奥様。外に孫悟空とかいう坊さんがやってきて、
 芭蕉扇をお借りしたいと申しております」
「なにッ。孫悟空だって」

塩を火の中へ投じた光景を
ごらんになったことがあるであろうか。
孫悟空の三字をきかされて、
つと立ちあがった鉄扇公主こと羅刹女の表情は
まさしくそれであった。
「とうとうやって来たのね。
 今日来るか、明日来るかと待っていたところだわ」

羅刹女は手下の女に鎧兜をもって来させると、
ただちに身をかため、
両手に一本ずつ青鋒宝剣を握りしめて、
女ながらも威風堂々と洞門を押しあけて出てきた。
「孫悟空とやらはどこにいる!」
「お嫂さん。ここにいます」

悟空が遠くから声をかけると、
「おネエさんだなんて、気安いコトバはよしておくれ。
 ここは議会じゃないんだから」
「でも、私は牛兄貴とは義兄弟の仲ですよ。
 兄貴の奥さんなら、
 お嫂さんとお呼びするのが礼儀ですからね」
「義兄弟がきいてあきれるわ」
と羅刹女は叫んだ。
「兄弟ならどうして、
 うちの息子をあんな目にあわせたりしたんです?」
「あなたの息子って誰のことですか?」
「とぼけないでちょうだい。
 枯松澗火雲洞の聖嬰大王は、
 お前のおかげで観音菩薩のところに
 幽閉同様の身になっているではありませんか?」
「アッハハハ……そのことでしたか」
と悟空は声を立てて笑いながら、
「そいつは、お嫂さん、あんたの思い違いですよ。
 もとをいえば私たちが号山をとおりかかった折、
 おたくの息子さんがうちの師匠を生捕りにして
 蒸すの煮るのと騒いだのです。
 そのため観音菩薩が
 若いながらも見どころのある男というので、
 自分のところへ連れてかえったのです。
 今では流転の人間世界を離れて
 天地と共に長い日月を送るようになったのですから、
 私を恨むどころか、
 私にこそ感謝しなければならんはずですよ」
「何てまあ、口の巧い猿だろう。
 しかし、その口車には乗りませんよ。
 お前のおかげで、親の顔を見にかえってくることも
 できなくなってしまったのだから」
「おやおや。
 息子さんにお会いになりたいのならわけはありませんょ」
と悟空は再び笑顔になって、
「あなたの芭蕉扇を貸して下さい。
 無事、うちの師匠を火山の向うにわたしたら、
 私がお礼に南海へ行って
 善財童子を連れてきてさしあげます。
 もし息子さんがむかしにくらべて
 グウタラになっていたら、私があやまりますが、
 反対にむかしより立派な青年になっていたら、
 私に感謝して下さいよ」
「だまってきいておりゃ、
 いつまでも勝手なことばかり喋りまくるじゃないか。
 あやまるあやまらないよりも、
 ちょっとその首をこちらに伸ばしなさい。
 私のこの剣で二、三度ためして見て、
 それで閻魔さんに会いに行かずにすむようなら、
 芭蕉扇は貸して進ぜましょうよ」
「よし来た。今のコトバに偽りはありませんな」

悟空は腕組みをしたまま首を前に伸ばすと、
「ではどうなりと存分におためしになって下さい。
 その代り芭蕉扇は必ず貸して下さいよ」

羅刹女は相手の口上をきくよりも、
両手にもった剣をふりあげると、
いきなり悟空の頭も砕けよと斬りつけた。
ところが二度三度、
いや、続けて十何回めった打ちにしても、
悟空は一向にケロリとしている。

驚いた羅刹女があわてて逃げ出そぅとすると、
「待って下さい。
 芭焦扇をかしてくれるという約束じゃありませんか」
「そうは行きませんよ。
 私のお宝はめったに人に貸せるものじゃありません」
「男に二言はないはずだが……」
「あいにくと私は男じゃありませんよ」
「そうだったな、畜生ッ」
と悟空は怒鳴った。
「約束を守らない女は容赦することはない。
 さあ、こうなったら、おネユちゃんの番だぞ。
 覚悟をせい」

耳の中から針をとり出してクルリと一回転させると、
忽ち如意棒が現われた。

羅刹女は素早く身をかわすと、
両手の剣で巧みに如意棒を受けとめた。
さすがは名にし負う牛魔王の女房だけあって、
剣の使い方も見事なら、進むと見せて退き、
退くと見せて進む虚力実々のかけひきも巧い。
相手を女と見て力をセーブしていた悟空も
次第に真剣になってきて、
エイッ、ヤア、と叫ぷ声の色までかわってきた。

そうなると、やはり男と女では腕力にひらきがある。
形勢不利と見た羅刹女はスキをとらえて身をひくと、
芭蕉扇をとり出して、
「サーッ」
と一あおぎした。
と見よ。
梃子でも動かぬ悟空の身体が塵埃のように吹っとんで、
影も形もなくなってしまったではないか。
「フフフフ……」

ざまあ見ろ、と言わんばかりの含み笑いをしながら、
鉄扇公主は洞内へひきあげて行く。

2001-02-12-MON

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