毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第五巻 色は匂えどの巻
第七章 男泣き

三 まあまあ菩薩


「花果山へ戻ろうか。それとも天界へ行こうか」

カッと頭にきて、思わずとび出しては見たものの、
悟空は中空で思案に暮れてしまった。

花果山へ戻れば、家来たちから、
やあ、またおかえりですかと笑われてしまうだろう。
天宮へ行って、
あすこでしばらく静養するという手もあるが、
どうもあすこは退屈でかなわない。
と言って竜宮へ行って居候するのも具合が悪い。
何しろ今まで四海竜王を家来か下僕のように
顎でこきつかっていたからな。

考えてみると、
自分が大きな面をして天下をのし歩いたのは、
三蔵を助けて人間世界に光明をもたらそうという
大義名分があったればこそであった。
いま、その仕事を離れてみると、
まるで杖を奪われた老人のように、
心は漠としてよりどころがないのである。
「ああ、ああ」
と悟空は雲の上で何度も長大息をした。
「乞食と小説家と坊主は
 三日やったらやめられないというけれど、
 こうなったら詫びを入れて元へ戻る以外に
 方法はないな。 
 坊主の生活なんて
 糞面白くもないと思っていたんだが……」

やっと心をとりなおすと、悟空は雲を走らせて、
三蔵のところへ戻ってきた。
「お師匠さま。どうかお許し下さい。
 もう二度とあんなことは致しませんから」

三蔵は、しかし、ウンともスンとも答えようとせず、
悟空が執拗にせがむと、
またも緊箍児経を口ずさみはじめた。
およそ二十回も繰りかえしただろうか。
「とっとと消えて失せろというのに、
 まだ消えて失せないのか」
「消えて失せるつもりなら、
 どこへでも行くところはあります」
と悟空は哀れっぽい顔をしながらも、
「でも、もし私がいなかったら、
 お師匠さまはきっと西天まで
 無事到着できないかもしれないと思うと……」
「バカをお言いでないよ」
とさすがの三蔵も堪忍袋の緒が切れて、
思わず大きな声をあげた。
「もうお前とは縁を切ったのだから、
 この私が目的地へ辿りつこうがつくまいが、
 お前の関係したことか。
 早く行け行け。
 いつまでもこんなところでうろうろしていると、
 脳妹噌がとび出すまでやめないぞ」

許してくれるどころか、剣もほろろの挨拶なので、
悟空は観念して、再び斗雲に乗ると、
中空へとびあがった。
「糞坊主め!
 一念だけで極楽浄土まで辿りつけると思っているのか。
 俺がいなかったら、
 明日にも化け物の餌食になってしまうのが
 本当じゃないか。
 もっとも人間という奴は本当のことを言われると、
 とびあがって怒るものらしいけれど」

そう思いなおすと、いくらか気持もおさまつてきた。
「悪いのは俺だけじゃない。
 そりゃ俺だって癇癪持ちだから、
 少しは行き過ぎたこともやる。
 しかし、手を汚さないで世の中を渡ろうとする
 師匠の方も間違っているじゃないか。
 こうなったら、
 事の経過を先ず観音菩薩にきいてもらおうじゃないか」

悟空は斗雲をグルリと方向転換させると、
南洋大海さして進んで行った。

ほどなく落伽山が見えてきた。
雲をおりた悟空が紫竹林の中を分けて入って行くと、
木叉行者が迎えに出てきた。
「やあ、いらっしゃい。何か御用ですか?」
「いや、
 ちょっと観音さまにお目にかかりたいと思いましてね」
「じゃどうぞこちらへ」

木叉に案内されて潮音洞の入口にさしかかると、
今度は善財童子に出会った。
「おや、珍しい人だな。
 今日はまた何かお願いがあって
 おいでになったのですか?」
と善財童子はきいた。
「お願いなんてものじゃない。文句があってきたんだ」
「観音さまに文句があるんだって?
 アッハハハハ……」
と善財童子は笑った。
「お猿さんに文句があるというなら話がわかるが、
 大慈大悲の観音さまをつかまえて、
 文句があるなんて言ったら
 世間の人に笑われるばかりですぜ」
「何言ってやがるんだ」
と思わず悟空は怒鳴りかえした。
「お前がここへきて
 観音さまのお稚児さんをつとめるようになったのは
 誰のおかげだ?
 お前こそ世間の物笑いの種だ」
「おやおや、今日はえらいご機嫌が悪いじゃないか。
 私は冗談を言ったつもりなのに、
 目をむいて怒り出すなんて少し様子がおかしいぞ」
そう言っているところへ、白鸚哥がとんできたので、
木叉と善財は観音まがお呼びになっていることを知った。
二人に案内されて蓮台の下まで行った悟空は
菩薩の顔を遙かに仰ぎ見ると、
いきなりその場にうつ伏して泣き出してしまった。
涙がこんこんと湧きあがり、
とめようとしてもとめることが出来ないでいる。

観音菩薩は二人の弟子に悟空を扶け起させると、
「悟空や。泣くな、泣くな。
 悲しいことがあったら、私に打ち明けてごらん。
 私で出来ることなら、
 お前のために何とかしてあげるから」
「私が悲しいのは、自分のことではありません」
と悟空は涙まじりの声で言った。
「これまで幾万里という道を、
 私は三蔵和尚に初志を貫かせたいばかりに、
 身をもって働いて参りました。
 虎の牙を抜いたり竜の鱗を剥ぐような、
 それこそ生命がけの冒険をしてきたのも、
 もとはと言えば、その一心からでした。
 それなのに、あの男は私という人間を
 少しも理解してくれようと致しません。
 士は己れを知る者のために死すと申しますが、
 己れを知ってくれようともしない男のために、
 これまでこんなに粒々辛苦してきたのかと思うと……」
「己れを知ってくれようとしないと、
 お前が判断する根拠はどこにあるのかね?」
と観音菩薩はきいた。

悟空は道中、強盗に遭遇した経緯を一部始終繰りかえし、
「そりゃ私に行きすぎがなかったとは言いません。
 しかし、強盗どもを助けてやったところで、
 ほかの通行人が迷惑するだけのことです。
 世の中の人のためを思えば、
 あんな連中は掃き捨ててしまった方がいいのです。
 それなのに、三蔵法師は私ばかりをせめ立てる。
 私の頭も砕けよとばかりに緊箍児経を読み、
 その上、私に出て行けと言うのです」
「お前にもなるほど言い分はあるだろう。
 しかし、たとえどんな悪党でも
 一生の間に真人間になる機会はあるものだ。
 その機会すらあたえずに永遠に葬ってしまうのは
 可哀そうだよ。
 お前のやり方は、世間にも同情者はあるだろうが、
 少くとも仏門にある者としては
 あるまじき行為だと私も思うね」
「そう言われては私もかえす言葉がありませんが、
 しかし、もとをいえば、
 お師匠さまを助けたい一心からでした。
 ですから、結果ばかり云々しないで、
 少しは動機をくんでくれるべきではないでしょうか」
「その点は三蔵にも多少、
 感情的なところがないとは言えないな」
「ですから、もうこうなった以上は仕方がありません。
 私はもとの水簾洞へ戻って
 自分なりの生き方をしたいと思います。
 お願いですから、私の頼みをききとどけて下さいませ。
 私を自由にして下さいませ」
「お前はその通り自由ではないか。
 どこへでも自分の思ったところへは
 自由に行くことが出来る」
「でもこの頭の輪が邪魔になります。
 どうかこの輪をとりのぞいていただきたいのです」
「ハッハハハ。お前の頼みとはそのことだったのか」
と観音は笑った。
「人間は誰でも完全なる自由を求めたがる。
 しかし、完全なる自由はどこにもあるものではない。
 たとえば、サラリーマンはお金さえあれば、
 こんな職業にしがみついていなくてもよいと溜息をつく。
 ではお金があったら彼は自由であるだろうか。
 そりゃ職業からは自由になるだろう。
 しかし、お金があればあったで、
 今度はお金から自由でなくなる。
 それと同じように、
 お前は自分の頭の輪から自由になろうともがいているが、
 もがいているあいだが、実は自由の境地なんだよ」
「そんな理窟は
 哲学者の世界では通用するかも知れませんが、
 私のような行動主義者には理解できません。
 私は頭痛の種を、
 私以外の誰かの手に握られているのは嫌なんです」
「ところが生憎なことに、
 お前のその頭の輪をゆるめるお経は私も知らないのだ。
 あれはそのむかし、
 東土から西方へお経をとりに行く人のためにと言って
 釈迦如来が私にことづけたもので、
 それをゆるめる術までは教えてもらわなかったのでな」
「それじゃ仕方がない。じゃこれで失礼致します」
「失礼するって、ここを出てどこへ行くつもりなんだね?」
「西方へ行きます。
 西天へ行って釈迦如来にお願いして、
 この輪をとりのぞいてもらいます」
「まあ、待て待て。
 そんなにあわてないでも
 先ずお前のために吉凶を卜してあげよう」
「今更、吉凶をうらなっても
 どうせろくなことはありませんよ」
「いやいや、お前の吉凶ではなくて、三蔵の吉凶だ」

菩薩は蓮台の上に端座したまま、じっと遠くを睨んだ。
まことに便利にできたもので、そうしているだけで、
菩薩の心は三界をくまなく洞察することが出来るのである。

ややあって菩薩は口をひらいた。
「悟空や。
 お前の師匠に今や危難がせまろうとしている。
 恐らく間もないうちにお前に助けを求めにくるだろう。
 お前はここでしばらくしておれば、
 万事、私がうまく話をつけてあげるよ」

2001-02-06-TUE

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