毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第五巻 色は匂えどの巻
第六章 からっ風

一 頭痛のタネ


「さあ、大へんだ。
 お師匠さまが誘拐されたらしいぞ」
と悟空が叫んだ。
「犯人はどうも女らしいです。
 一陣のからッ風とともに消えてなくなりました」
と沙悟浄がいうと、
「そりゃ犯人は女と相場がきまっているさ」
と八戒はニヤ二ヤしながら、
「女子供じゃあるましし、
 逆さにしてふれば金がゾロゾロ出てくるような
 大富豪でもないし、
 うちの師匠の取得といったら、
 見かけがよろしいというだけのことだからな。
 どうも女という奴は
 色男ばかり追いまわして仕様がないよ」
「しかし、そんな冗談ばかり言っている時じゃないぞ」
悟空が中空にとびあがって、あたりを見まわすと、
一陣の砂煙と共に
風が西北へ向って吹きすぎて行くのが見えた。
「おい、きょうだい。方角はあちらだ。
 お前らも一緒に来い」

三人とも雲にのって中空へあがってしまったから、
西梁女国の女たちは眼をパチクリさせながら、
「あれあれ。“男心は秋の空”だけかと思ったら、
 “風とともに去りぬ”だよ。
 女王さま。“だから言ったじゃないの”と
 言われぬうちに、“あきらめましょう”よ、あっさりと」

燃える思いに身も心ももだえていた女王もさすがに、
水をぶっかけられたように我にかえって、
すごすごと宮殿へひきあげて行った。

一方、三人の弟子たちは、
風のあとを追って進んで行くうちに、
とある高い山のそびえるところへさしかかった。
風は既に勢いを失って、ふと下界を見おろすと、
霞の中にぼんやりと
石垣のはりめぐらされているのが眼にうつった。
「おりて見ようじゃないか」

三人が塀のそばへおりてよくよく見ると、
塀のうしろに石の扉があって、
「毒敵山琵琶洞」という看板がかかっている。
「うむ。妖怪の巣はここだな」

八戒がいきなり熊手をふりあげて、
門扉をこわしにかかろうとしたので、
悟空はあわててひきとめた。
「待て待て。
 風のあとを追ってきたら、ここまで来てしまったが、
 まだここのあるじが犯人であるときまったわけではない。
 俺が中へ入って様子をさぐってくるから、
 お前らはそのへんで待機していてくれ」
「そぅだそうだ。
 勇敢な人間にもそれくらいの慎重さは欲しいものだ」
と沙悟浄は応じた。

悟空は揺身一変、一匹の蜜蜂に化けた。
蜜蜂は塀を越え、門を二つすぎると、
あずまやのあるところへ出た。

そこには女たちが沢山あつまって、
何やら賑やかそうに笑い興じている。

やがて奥から二人の腰元が、
盆にホカホカした饅頭をのせて出て来た。
「奥様。お待ちかねの饅頭ができあがりました」

奥様とよばれたお化け女はにこにこ笑いながら、
「じゃすぐあの人をここへよんできてちょうだい」
「ハイ、只今」

美しく着飾った若い娘が、三、四人、奥へとんで行った。
あの人は誰だろうと思っていると、
やがて乙女たちに支えられるようにして現われたのは
三蔵法師であった。
三蔵はすっかり悄げかえって、
まるで足腰のたたないじじいのような歩き方をしている。
「あの調子じゃたたないのは足腰ばかりじゃあるまいよ」
と思わず悟空は舌打ちをした。

しかし、女のお化けは、遠くから三蔵の姿を見ると、
すぐそばへかけよってきて、
「さあ、さあ。どうぞこちらへ。
 ここは西梁女国の宮殿のように
 豪華なところではありませんが、
 案外、静かで、お経を読んでくらすには
 およろしいところでございますよ。
 あなたがお経をよんで、
 私がいつまでもおそばできいている……
 なんてのはちょっと美しい風景じゃございませんこと? 
 ホホホホ……」

しかし、三蔵は鬱々として口をひらこうともしない。
「あら、まあ。
 そんなにお考えになることってございませんわ。
 私、ちゃんと知っておりますのよ。
 あなたが西梁女国の宴会で
 ほとんど箸に手をつけなかったことを。
 でもここは精進と生臭と、
 ちゃんと二通りのものを用意してございますから、
 安心しておあがりになれますわ」

──おやおや、何と親切なお化けだろう、と三蔵は思った。
しかし、お化けの親切の方が
女王の恋心よりも怖ろしいかも知れないぞ。
もしご機嫌をそこなうようなことをしようものなら、
どんな目にあわされるかわかったものではない。
「精進と生臭とおっしゃいますと、
 どういう違いでございますか?」
と三蔵は努めて口をきいた。
「生臭は人間の肉でつくったあんこ、
 精進の方は小豆をつぶしてつくった
 あんこでございますわ」
「それじゃ、私は精進の方をご馳走になります」

それをきくと、化け物は笑いながら、
「お前たち。
 旦那様は精進饅頭をおあがりだそうですから、
 早く熱いお茶を持ってきておあげ」

お茶の用意ができると、化け物は精進饅頭を手にとって、
それを二つにわって三歳にわたした。
仕方がないので、三蔵も肉饅頭を手にとって、
女の前にさし出した。
「あら、どうしてわって下さらないの?」

その意味が三蔵には一向に通じない。
「私は出家でございますので、
 それだけはどうぞご勘弁下さい」
「そんなことを今更おっしゃるなんて。
 それじゃおききしますけれど、
 どうして子母河の水をお飲みになられましたの?」
「水の清らかさに、ついだまされてしまったのですよ」
と仕方なさそうに三蔵は答えた。
「それならば、ついでに私にだまされても
 よろしいじゃございませんこと?」

あずまやの格子の目からそれをきいていた悟空は、
パッととび出すと、忽ち木相を現わして、
化け物の前に立ちふさがった。
「やい。助平ババア」

その手に握った如意棒を見ると、
お化け女は口から煙を吐き出して
まわりを煙幕にかくしながら、
「早く三蔵をかくしてしまって!」

そして、
自分は三股になった鋼叉を握ってあずまやをとび出すと、
「男はみな覗き趣味があるときいていたけれど、
 猿まで覗き趣味があるとは知らなかったわ。
 いざ、この一突きを!」

さあッとつき出した鋼叉を、
悟空はひとまず如意棒でガチリと受けとめた。

二人は洞内から洞門の外までとび出してきたが、
それを見ると八戒は俄かに勇猛心を覚えて、
「よしッ。俺が助太刀をするぞ」

八戒は熊手を握りしめると、前へとび出して行って、
「兄貴、俺に任せた任せた」

化け物は八戒の姿を見ると、
またも口から煙、鼻から火を出してこれに応じた。
女一人に男二人だというのに、前や後から攻め立てても、
女は、一向にくたびれる様子もない。
「孫悟空。お前さんは私を覚えちゃおらんだろうが、
 私はちゃんと覚えていますぞ」
と化け物は怒鳴った。
「当り前だ。
 俺ゃこんなところで女郎買いをやった覚えはないさ」
「何ょッ。私の言っているのは腕力の話よ。
 雷音寺のお釈迦さまだって、
 この私にはタジタジなんだから」
「そりゃそうだろうよ。
 女にタジタジとならない男があったら、
 こちらがお目にかかりたいよ」

三人は口と力を合わせての大合戦を続けたが、
なかなか勝負がつきそうになかった。
ところが、突然、悟空が、
「アイテテテテ……」
と頭をかかえて逃げ出 した。

それを見ると、八戒も背中を見せてかけ出した。
「アイテテテテ……」
と、化け物が引きあげたあとでも
悟空はなお頭を抱えこんでいる。
「戦いたけなわという時に、何だってまた急に
 脳天の破れたような声を張りあげて逃げ出したんだよ」
と八戒がきいた。
「いや、頭にパチリと何かふれたような気がしたら、
 途端に割れるような痛さだ」
「テンカンでもおこったんじゃないですか?」
と沙悟浄が脇から言った。
「いや、そうじゃない。
 頭に何かふれたような気がした。
 何という武器か知らねえが、あれにはまいった」
「俺の頭は石よりかたいと
 かねがねご自慢の頭だったはずだがな」
と八戒がひやかした。
「そりゃその通りだ。
 雷に打たれ、刀であんまをされ、八卦炉で鍛えられても、
 どうもなかった頭だ。
 それがただの一打ちでヒリヒリするのだから、
 あの女はよほど大した武器を持っているに違いねえ」
「金で打たれたのではなくて、
 金のことを言われたのと違うのか。
 男は、女に金のことを言われるのが一番頭にくるからな。
 アッハハハハ……」
と八戒は笑いながら、
「どれどれ。ちょっと手を放してみろ。
 穴があいたかどうか、見てやろう」
「穴なんぞはあいちゃいない。バカにするな」
と悟空はブリブリ怒っている。
「それよりも、お師匠さまはご無事でしたか?」
と沙悟浄がきいた。
「うん。いまのところ、生命に別状はないが、
 セガレの方が累卵の危きにあるようだ」
「そんなことをきかされると、
 俺も覗き趣味を発揮したくなったな。
 どうだ。
 これからまた勇気をふるいおこして、
 挑戦をしに行こうじゃないか」
「いや、いや。
 頭が痛くて、とてもそれどころの騒ぎじゃない」
「まあ、今日のところはやめておくのも手ですよ」
と沙悟浄が言った。
「悟空兄貴が頭が痛いということもあるけれど、
 色情乱舞のさなかに、お師匠さまをおいておくのも、
 そう悪くはないのではありませんか。
 お師匠さまにとっては
 またとない精神修養のチャンスですよ」
「うむ。それもそうだ」
と、あとの二人も賛成をした。

2001-01-31-WED

BACK
戻る