毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第五巻 色は匂えどの巻
第二章 金魚を釣る話

三 魚籃観音


岸へあがった悟空はさっきからいらいらしながら
河面を見守っていたが、
突然、波がもちあがったかと思うと、
八戒が先に顔を出した。
「来たぞ。来たぞ」

そのうしろからまた沙悟浄が息せききつて、
「来たぞ。来たぞ」

悟空は素早く如意棒をとり出すと、
化け物の前に立ちはだかった。
「やい。この痛棒を食らえ」

化け物は鋼鎚でカチンと受けとめたが、
二度三度と打ち合うと、とうてい、かなわないと知って、
すぐうしろへ向きをかえ、
ジャブンと河の中へとびこんで消えてしまった。
「とんだ無駄骨を折らせる奴だな」
と悟空が言った。
「陸の上ではあの通りだが、水の中では相当な腕前ですよ」と
沙悟浄はまだハーハー息をはきながら、
「とにかくわれわれ二人がかかっても、
 一歩もうしろへひかないんですから」
「早いところ片付けてしまわないと、お師匠さまが危いな」
「仕方がないから、もう一度おびき出しに行ってくるよ」
と八戒が言った。
「そのかわり今度奴が出て来たら、
 兄貴は声を張りあげたりしないで、
 中空から奇襲戦法で一撃を食らわせてくれ」
「そうだ。そうだ。
 敵の裏をかくのでなければ、とても駄目だ」

一方、生命からがら逃げかえった霊感大王は、
憂欝な顔をして楼台へ戻った。
「どう致しました? あの二人の坊主は?」
魚婆さんがたずねた。
「あんな坊主なら三人や五人かかってきても平気だが、
 あとを追って行ったら、
 毛むくじゃらの猿面をした坊主が助太刀に出てきてな。
 いや、その強いこと強いこと。
 二打ち三打ちしただけでこちら
 は生命が惜しくなってしまったよ」
「それは本当にようございましたよ」
魚婆さんは言った。
「大王がもう二打ち三打ちやっていたとしたら、
 命はなかったかも知れませんよ、
 あの猿と正面切って立ちまわりをした日には」
「お前、奴を知っているのか?」
「ええ、以前、私が東洋大海で
 コール・ガールをやっていた頃に
 噂にきいたことがございますよ。
 あれは五百年前に天宮荒らしをやった
 美猴王斉天大聖に違いありません。
 その後、何の心境の変化からか、
 頭を丸めて唐三蔵の弟子になって、
 もうバアや待合遊びは
 一切やめてしまったそうでございますから。
 あんな生命知らずを相手にしちゃ、
 いくつ生命があっても足りませんよ」

そう言っているところへ、またも小妖怪がとんできて、
「大王。さっきの二人がまた挑戦にやってきています」
「門を固くとざして一切の挑発にのるな。
 近頃はたとえ正当防術でも
 権力者の行為は世論の非難攻撃にあうからな」

八戒と沙悟浄はあらん限りの悪態をつくが、
石門の中からは何の手応えもない。
「やい、税金泥棒」
「やい、忠犬ハチ公。
 くやしかったら、ワンと吠えて見せろ」

小妖怪だって感情の持主だから、
癪にさわらない筈もないが、
そこはサラリーマンの悲しさ。
何と罵倒されようが、ジッとこらえている。
「どうも臆病風を吹かせて、出て来たがらないようだ。
 いつまでもここにいたって仕方がないから、
 いったん、陸へあがって
 あとの対策を考えることにしよう」

沙悟浄がそう言うので、
八戒も気勢のあがらないままに陸へあがってきた。
「どうした?」

如意棒を握ったまま悟空はきいた。
「化け物も作戦がうまくなって、
 なかなか挑発にのって来ないんです」
と沙悟浄は言った。
「フン。えらい低姿勢の化け物もあったものだな。
 ライスカレーでも食いながら話し合おうとは
 言わなかったか?」
「それを言い出せば、
 俺はすぐにも話にのってやるんだがな」
と八戒は唾を飲みながら、
「ここの化け物と来たら、
 ライスカレーの話すらも持ち出して来ない奴なんだ」
「そいつは弱ったな」
と悟空は腕組をしながら、
「こうなったら仕方がない。
 お前たちはここで見張りをしていてくれるか?」
「兄貴はどこへ行くんです?」
「俺はここから普陀巌へ行って観音菩薩に相談をしてくる。
 化け物の正体がわかれば、
 化け物の親戚や知友から交渉するか、
 場合によっては、こちらも人質をとって
 交換をするという方法もあるからね」

悟空はそう言って斗雲にのると、
南海は落伽山へと直行した。

やがて普陀巌が目の前に見えてきた。
見ると、
善財童子や捧珠竜女が崖のそばまで迎えにきている。
「今日はまた何の御用です?」
「菩薩さまにお目にかかりたいのです」
「菩薩さまは今朝早くからお出かけでございます」
「ゴルフへ行ったのかい、
 今日はウィーク・デーだというのに」
「いえいえ、裏の竹林の中ですよ。
 でも大聖がおいでになるから
 迎えに出ろと言われたところを見ると、
 すぐかえって見えるでしょう。
 どうぞしばらくお待ちになって下さい」

善財童子が先に立って悟空を案内した。
善財童子と言えば、そのむかし、
悟空とわたりあったあの紅孩児である。
「あの時は、色々ご迷惑をおかけして相済みませんでした」
と紅孩児は頭を掻きながら言った。
「いや。むかしアカ、いま資本家というけれど、
 君もなかなか有能なる幹部になったな。
 危険なる青年は同時に有望なる青年だという
 証明のようなものだよ。アッハハハハ……」

悟空は竹林寺の中へ案内されたが、しばらく待っても、
観音菩薩がかえって来ないのでいらいらしはじめた。
「すまんが、誰か私が来たとお取りつぎ願えまいか」
「ぇえ、でも自分が出てくるまで待たせるようにと、
 おことづけでしたから」

そういって誰もとりあわないので、
セッカチ猿は皆のとめるのもきかないで
勝手に裏の竹藪の中へ入って行った。
見ると、観音菩薩は手に刀を持って
しきりに竹を削っている。
「菩薩さま。悟空でございます」
「そこで待っていなさい」
と観音菩薩はふりむきもしないで答えた。
「でもお師匠さまが災難にあっているのです。
 通天河の化け物は何党に所属していて選挙区がどこか
 教えていただきたいのでございます」
「いま行くから、そんなにいらいらすることはないよ」

仕方がないので悟空は、
またもとのところへ戻って待っていた。

しばらくして菩薩が戻ってきたのを見ると、
手に竹で編んだ魚籃を持っている。
「さあ。これからおまえと一緒に行こう」

観音菩薩はそう言って、
蓮台へ坐る間もなくすぐ通天河へ向って出発した。
通天河で八戒と沙悟浄がさっきから待ちかねている。
そこへ仕事着のまま菩薩がやってきたので、
「おやおや。兄貴は菩薩さまに
 おめかしのひまもあたえないでひっばってきたらしいぞ」

菩薩は河の上までくると、腰ひもを解いて魚籃にむすび、
スルスルと河の中へ垂らした。
そして口の中で、
「死せる者は行け、生ける者は入れ」
と呪文を七回くりかえした。
それから魚籃をひきあげたのを見ると、
なかで一匹の金魚がはねている。
「悟空や。早くお前の師匠を助け出して来なさい」
「でも化け物を退治しないことには、
 はじまらないじゃありませんか?」
「化け物はこの中に入ってるじゃないか」
「へえ。この金魚が化け物ですか?」
と八戒も沙悟浄も感心しながら、
「どうしてこの金魚にあれだけの魔力があるのですか?」
「この金魚は本当は私の蓮花池の中にいた金魚だよ」
と観音菩薩は笑いながら、
「毎日、池の中から頭を出して、
 お経をきいているうちに悟るところがあって
 遂に妖精になってしまったのだ。
 あの手に持っていた鋼鎚は
 まだひらかない蕾のままの蓮で、
 それが妖精の手にかかると
 人を打つ武器になってしまったというわけだ」
「しかし、その金魚を通天河に放した張本人は
 いったい誰なんですか?」
と悟空はきいた。
「それはこの私だとお前はいいたいのだろう。
 しかし、残念ながら私ではないよ。
 金魚は自分で逃げ出したのだ。
 腕に覚えがあるようになると、
 社会秩序に反抗して自分の王国を建てたくなるのが
 人情で、むかしのお前だってそうだったじゃないか」

そう言われると、悟空はかえす言葉もない。
「さあ、つまらないことを言わないで
 早く三蔵を助け出して来なさい。
 では私はかえりますよ」
「どうも有難ぅございました。また今後ともよろしく」

三人して観音菩薩を見送ると、
八戒と沙悟浄は河の中へ入って、
之第の奥から三蔵法師を救い出してきた。
「本当に色々と有難うございました。
 おかげさまで、
 私たちはこれから化け物に悩まされないですみます」
と陳家荘の人々は喜びの色に溢れている。
「それよりもわれわれを河の向うにわたしてくれる
 船を用意してくれないかね?」
「ええ、ええ、すぐに用意致しますとも」

部落の人々が集まって船の用意をしていると、
河の中から突然大きな声がしてきた。
「孫大聖。船の必要はありません。
 私があなた方をお送り致します」

人々がびっくりして声のする方をみると、
一匹の大スッポンが河の中からムクムクと頭を出した。
「何をしに来たんだ? 近づいてくると承知しないぞ」
と悟空は如意棒をふりあげた。
「いえ。私はあなたにお礼を申しに参ったのでございます」
「俺はお前に恩を施した覚えはない」
「私はあの水底にある水之第の持主でございます。
 先祖代々あすこを住居にしていたのを、
 先年来あの化け物に不法占拠されて、
 泣きねいりをしていたのです。
 幸いにして大聖があの化け物を退治してくださったので、
 やっと自分の邸宅をとりもどすことが
 出来たのでございます」
「なるほど。
 それで俺たちに恩返しをしてくれようというわけか」
「その通りでございます。
 私が三蔵さまを背中にのせて
 この河を渡してさしあげます」
「その心に偽りはないな」
「私は恩を感じているのに、どうして偽りを申しましょう」
「天地神明に誓うことが出来るか」
「ハイ。もし私が嘘偽りを申しましたら、
 私は血となって水に溶けてしまっても
 よろしゅうございます」
「よしよし。それじゃここに来い」

河からあがってきた大スッポンを見ると、
周囲が四丈もある怪物である。
「お師匠さま。
 ではこのスッポンの背にのせてもらって
 河をわたることに致しましょう」
と悟空は言った。
「まだ大分、氷が残っているようだが、大丈夫かね?」
「大丈夫でございます。
 私はここの河のことは誰よりもよく知っておりますから」と
大スッポンは答えた。
「およそ人語を解するような動物なら、
 信じてもいいのではありませんか」
と悟空は言った。
そこで三蔵もやっと納得し、
四人は陳家荘の人々に別れを告げて、
スッポンの背にのりうつったのである。

2001-01-17-WED

BACK
戻る