毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第五巻 色は匂えどの巻
第二章 金魚を釣る話

一 あわれ水の底


三蔵が一行と共に河畔まで馬を走らせると、
はたして河の上を通る人々の姿が見えている。
「ご老人」
と三蔵は案内してくれた老人たちに問いかけた。
「あの氷の上を行くと、どこまで出るのでございますか?」
「河の向うは西梁女国と申しましてな、
 いまああして河をわたって行くのは皆、
 貿易商人でございます」
と陳老人は答えた。
「この通天河に道を遮られているために、
 河のこちらのものを向うへもって行けば
 百銭のものが万銭で売れ、
 向うのものをこちらへもってくれば
 百銭のものが万銭の値打ちを生ずるのでございます。
 それでふだん七、八人ずつ一団になって
 生命がけで船をわたすのですが、
 今日は河の凍ったのを見て
 先を争って歩いてわたっているのでしょう。
 全く人間という奴は利のためとあらば、
 生命の一つや二つ惜しがったりしませんからね」
「人間というものは名利のためには何でもするものですよ」
と三蔵は言った。
「なるほどあの人たちは
 利のために生死を忘れて河をわたっていますが、
 私がこうしてはるばると西方へ行くのだって、
 よくよく考えれば、名のためです。
 名と利と……目的こそ違いますが、
 その差いくばくぞといいたくなりますな。
 アッハハハ」

三蔵は一日も早く向う岸へ渡りたくて
気があせっていたから、
すぐにも家へかえって出発の用意をするようにと、
弟子たちに命じた。
「しかし、お師匠さま」
と珍しく沙悟浄が反対した。
「どうせ陳家でお世話になったのですから、
 もう四、五日お世話になって、
 河の氷がとけるのを
 待つことにしたらどうでございますか?」
氷の上をわたるのは大へん危険なものでございますよ」
「お前もずいぷん智慧のないことをいうな」
と三蔵は答えた。
「これが一、二月のことで
 一日一日と温かくなって行く季節なら
 雪解けを待つというのは話がわかるが、
 今は八月で、これから一日一日と寒さに向う時だよ。
 雪解けまで待つとなれば、
 半年も足止めをくってしまうじゃないか」
「まあ、百の議論をするよりも、
 氷の厚さをしらべる方が科学的ですよ」
と八戒が中へわって入った。
「へえ。お色気の先生がいつから科学者になったんだ?」
と悟空が皮肉をとばした。
「河の深さをしらべたり、氷の厚さをしらべたり、
 なかなかやるじゃないか」
「兄貴にそんなことを言われると、ちょっとこそばゆいが、
 俺の調査はゲンシリョクを借りるんだ。
 但しゲンシはゲンシでもアトムじゃなくて、
 プリミティブの方の原始だぞ」
「なかなか理路整然たるものだ」
「そうとも。そうとも。
 俺のこの熊手で、思いきりひっばたいて見て
 ビクともしないような氷なら、
 人間が渡って渡れない道理がない」

そう言って、八戒は徐々に腕まくりをすると、
熊手を両手に握って力一ばい氷の表面をひっかいた。
「かたい。かたい。この調子だと底まで凍りついているぜ」

一同は喜び勇んで陳家へひきあげた。
陳家の二人の老人は、
もうしばらく滞在するようにと盛んにひきとめたが、
三蔵がどうしても出発するというので、
やむを得ず一緒になって旅仕度の用意にかかってくれた。

やがて家の者が、
盆に銀を山盛りにして三蔵の前にさし出してきた。
「まことに些少でございますが、
 子供たちの身代りになって下さった御礼でございます」
「いやいや」
とあわてて三蔵は手をふりながら、
「ごらんの通りわれわれは出家で、
 お金などには用がありません。
 この先の町につくまでに必要な食糧を
 少しいただけば十分でございます」
「しかし、それでは私どもの気がすみません」

再三再四、老人たちがすすめるので、
そばにいた悟空が手を出して、
盆の中の銀をほんの一つまみつまみあげて
三蔵にわたしながら、
「お師匠さま。あんなにおっしゃるんですから、
 お布施のつもりでこれだけいただいておきましょうや」
準備がととのうと、一行は陳家荘をあとにして、
河岸へ向った。
八戒は馬の脚に藁の沓をはかせたり、
自分の手にもった三蔵の九環錫杖を馬の上にのせて、
「お師匠さま。これを横にしたまま進んで下さい」
とさかんに世話をやいている。
「お前、杖をお師匠さまにおしつけて、
 自分は身軽に河を越えようという魂胆なのか」

見かねて悟空が口を出すと、
「シロウトはこれだから困るよ。
 氷の上を歩く時は
 こういう用意をしておく必要があるんだ。
 でないと、万一、氷がやわらかくて
 スッポリ穴があいてみろ、水の中へおちこんで、
 二度とあがって来られなくなるぜ」
「ハハハハ……。なるほどね」
と悟空は苦笑しながら、
「お前はそのむかし、天の河スクラップ艦隊で
 アイスホッケーの選手でもやっていたと見えるな」

一行は見送りにきた老人たちと別れると、
通天河の氷の上を進み出した。
日が暮れて夜になっても、
四人は月明りをたよりに氷原の上を歩き続ける。
腹がすくと歩きながら、乾餅を食べ、
途中で一息入れる場所もないままに、氷の上で朝を迎えた。

と、突然物すごい音がして、
彼らが歩いている氷が動きはじめた。
「大へんだ。氷がとけはじめたぞ」
「すぐひきかえすんだ。早く早く」

しかし、すでに遅かった。
氷の割れ目から三蔵の姿はかき消え、
八戒も沙悟浄も馬も水の中へちこみ、
悟空だけがあわてて空へとびあがった。
魚婆さん。いや、いや、妹よ」
と霊感大王は上機嫌で水府へ戻ってきた。
「とうとう三蔵を生捕りにしてきたぞ。
 奴らはお前の計略に見事ひっかかった、
 さあ、約束通り、今日からお前は俺の妹分だ」
「まあまあ、もったいないことでございます。
 でもうまく網にひっかかって本当にようございましたわ」
「早速、料理にかかるから、
 者ども、爼板と庖丁の用意をしろ」
「でも大王」
魚婆が異議を申し立てた。
「ご馳走というものは
 落着いた気持になってから味わうものでございますわ。
 弟子たちがやってきて騒ぎ立てたりしたら、
 騒々しくて折角のご馳走も
 喉をとおったような気が致しませんから、
 もう二、三日様子を見てからにしては
 いかがでございましょう?」
「それもそうだね。
 ではお前のいう通りこの坊主を
 奥にある石箱の中へ入れておくことにしよう」
三蔵は奥へ引き立てられると、
六尺ほどの長さの石で出来た箱の中へ
とじこめられてしまった。

一方、一緒になって河の中へおちこんだ八戒と沙悟浄は、
手にもった荷物をあわてて馬の背にのせると、
ともども水をかきわけてやっとの思いで、
水の中から顔を出した。
「お師匠さまはどこにいる?」
と空の上の悟空がきいた。
「お師匠さまは姓がチンで名はスイテイだよ」
と八戒がすぐに答えた。
「この有様じゃしょうがないから、
 ひとまず陸へあがってから対策を考えよう」

八戒も沙悟浄も、
もとは海兵の出身だから泳ぎは得意中の得意である。
白馬も西海竜王のタネだから、
水の中を行くことにかけては少しもひけをとらない。
大分、手間をとったが、
一行はどうやらもとの岸辺にたどりつくことが出来た。
「四人でおたちになったのに、
 どうしてまた三人になって戻ってきたのです?」
と一行を迎えた陳老人たちはびっくりして、
「あれほど私どもがおひきとめしたのを
 おきき入れにならなかったからですよ。
 ですが、本当に三蔵さまは
 どうなさったのでございますか?」
「お師匠さまは、もう三蔵ではなくて、
 今日限り沈水底と名を改めてしまったのです」
と八戒が答えた。
「お可哀そうに。
 こんなことになるとわかっていたら、
 あの時、どんなことをしてもおひきとめしましたのに」

老人たちは心から三蔵の死を悲しんでいる様子である。
「ご老人、嘆くにはおよびませんよ」
と悟空がかえって慰める立場にまわった。
「お師匠さまはまだ死んだわけではございません。
 きっと霊感大王の計略にかかったのです。
 あなたたちは私たちの着物を洗濯したり、
 馬に飼料でもやって下さい。
 我々はこれから化け物をさがし出して、
 グウの音も出ないようにしてやりますから」

2001-01-15-MON

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