毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第4巻 風餐露宿の巻
第五章 黒船物語

三 自由化魔


さて、それから一行は洞中の目ぼしいものを鞍に積むと、
再び道を西へとった。
一カ月ほどはどうやら平穏な旅が続いたが、
或る日、道を歩いていると、
突然、ゴウゴウたる水の響きがきこえてきた。
「おや、あの水の音は?」

早くも三蔵法師は神経を苛立たせている。
「アッハハハ……」
と悟空は声を立てて笑い出した。
「お師匠さまは時々、多心経の講義をなさるが、
 その極意通りには行動出来ないものと見えますな」
「お前、何を言おうとしているんだね?」
と三蔵はききかえした。
「多心経の中に、
 出家に眼なし耳なし鼻なし舌なし身なし意なし、
 という教えがあるじゃありませんか。
 環境に動じないことこそ僧侶の生きる道だとついこの間、
 お師匠さまの口からきいたばかりですよ」
「そりゃまあその通りには違いないが」
と三蔵はしばし嘆息しながら、
「国を出てからもうはや幾年になるかな。
 山を踏み越え、雲をかきわけ、一体、
 いつになったら目的地に達するのだろうかと思うと、
 こんな気持になることもあるものだよ」
「アッハハハ……」
と悟空の笑うまいことか。
拍手喝采しながら、
「何ごとかと思ったら、ノスタルジアだったのですか。
 いやはや。
 お師匠まにも人間並みの感情があることを知って、
 こんな嬉しいことはない」
「何が嬉しいものか」
と八戒は仏頂面をうしろにむけて、
「行く道々に化け物が頑張っていて、
 その度に通行止にあったんじゃ、
 千年かかっても目的地に着きっこないや」
「しかし、我々がこうして一歩あるけば一歩だけ
 目的地に近づきつつあるよ」
と沙悟浄は言った。
「いつまでかかるかは知らないけれど、
 いつかは目的地に着くことが出来る。
 千万里といえども
 一歩一歩がかさなって出来たものだからね」

一行が議論をしながら進んで行くと、
やがて行く手をさかまく水の流れにさえぎられてしまった。
見ると、滔々たる流れは墨を流したように
薄気味の悪い真黒な色をしている。
「ずいぶんおかしな色をしているな」
「大方、どこかの家でウンチでも流したのだろう」
と八戒は言った。
「いやいや。
 川上で誰かが筆でも洗っているのだろうよ」
と沙悟浄がやりかえした。
「バカをいうのも休み休みにして、
 お師匠さまを渡す方法でも考えようではないか」
と悟空が言った。
「お前たちの中で
 誰か私をおんぷしてくれる者はいないのか?」
と三蔵はきいた。
「そりゃ八戒がいいですよ」
と悟空が答えると、
「いや、俺じゃ駄目だ。
 自分ひとりだけならこんな十里やそこいらの河は
 朝飯前で通ってしまうが、
 お師匠さまのような俗人を背負っちゃ、
 とてもじゃないが、
 一緒になって沈んでしまうよりほかないよ。
 ことわざにもあるじゃないか、
 凡人ヲ背負ウハ重キコト丘山ノ如シ、と……」

四人がああでもないこうでもないと言っている折しも、
河の中から一隻の小舟が岸辺に近づいてくるのが見えた。
「おお。あすこに舟がいる」
と三蔵は声を立てて喜んだ。
「お前たち、あの舟を呼んでおくれ」
「おーい。船頭さあ−ん」
と沙悟浄が手をふった。
「こっちだ、こつちだ」

やがて近づいてきた舟の中から、
「私は船頭じゃありませんよ。
 こう見えてもこの舟は自家用なんですから」
「自家用だろうが、タクシーだろうが、かまうことはない。
 世の中は渡りに船が大切だ」
と沙悟浄は言いかえした。
「このあたりには交通巡査が頑張っているわけでもないし、
 自家用でも白タクに化けるという手があるでしょう。
 金はいくらでも出すから渡して下さいよ」

それをきくと、小舟の人は岸に舟をよせてきた。
「お困りの様子ですから、
 お乗せしてさしあげたいのは山々ですが、
 ごらんの通り小さな舟なんですよ」
なるほどそばに近づいてきたのを見ると、
これは一本の木をえぐってつくった丸木舟で、
真中に船頭のほか二人しか坐るところがない。
「こいつは困ったな」
と三蔵が首をかしげていると、沙悟浄は、
「船頭さんにはお気の毒だが、
 二回に分けて渡してもらえばいいじゃありませんか」
「そうだ。それがいい」
とすぐ八戒が賛成した。
「まず俺がお師匠さまと一緒に渡ることにして、
 沙悟浄、お前は馬の番をしておれ。
 向う岸についたら、また舟にもどってもらうから、
 そうしたら、お前が馬と一緒に乗ればいいだろう」
「悟空兄貴は?」
「兄貴は一跳び十万八千里を呼号しているんだから、
 一跳びにとびこえてもらえばいいじゃないか?」

沙悟浄がふりかえると、悟空は、
「いいとも。いいとも」
とあっさり頷いた。

そこで八戒は三蔵を扶けて丸木舟へ乗りこんだ。
舟はやがて岸を離れ、河の真中へと出て行ったが、
舟が進むにつれて流れはいよいよ急になる。
丸木舟は木の葉のように大揺れに揺れ動き、
三蔵は舟のへりにしがみついたまま顔面蒼白になっている。

と、突然、どこからともなく一陣の狂風がまきおこり、
三蔵と八戒をのせた丸木舟は、
悟空と沙悟浄の見ている前でひっくりかえってしまった。
そして、舟もろともスーッと沈んでしまったのである。
「あッ。いけねえ」
と思わず沙悟浄は叫んだ。
「どうしてうちのお師匠さまは
 こんなに災難づいているんだろうな。
 早く下流の方へ行って見なくちゃ」
「あれは舟がひっくりかえったんじゃないよ」
と悟空は言った。
「舟がひっくりかえったのなら、
 八戒はオリンピックへ出しても一、二位を争うくらいの
 水泳の名手だから、
 お師匠さまを助けることが出来る筈だ。
 さっきからどうもあの舟はあやしいぞと思っていたが、
 俺がまた口を出すと、叱られるばかりだからな」
「じゃあれは悪魔の仕業ですか?」
「恐らくそうだろう。
 うちのお師匠も、もう少し人が悪くなれば、
 悪魔と釣合いがとれて
 こう度々災難に会わないですむんだがね。
 人間世界でも、あの人はいい人なんだが、
 という場合は、あいつはバカな奴だ、
 というのと同じ意味だろう?」
「しかし、こうしちゃおられない。
 私が水の中へ入って見ますから、
 兄貴は馬と荷物の番をしていてくれませんか?」
「この水の色じや中へもぐるのは容易じゃないぜ」
「なあに。流沙河の王者がこれしきの水に尻込みをしたら、
 天下の笑い者にされますわい」

そう言って、沙悟浄は着ていた物を脱ぐと
手に宝杖を握りしめて、水の中へジャブンととびこんだ。
まだ春浅い黒水河の水は冷たかったが、
沙悟浄はそれを物ともせず、水底へと進んで行く。
と、水の中で人のささやく声がきこえてきた。
「アッハハハ……。
 今日は思わぬ獲物を得たぞ。
 者ども。すぐ調理場の用意をして、
 それから伯父上のところへご馳走をするから、
 と使いの者を出せ」

びっくりして足をとめると、
水の向うに楼閣らしいものがあって、
声はその中からもれてくるのである。
沙悟浄が忍びよると、
建物の入口に「衡陽峪黒水河神府」という
横書きの額が目についた。
「この野郎!」

沙悟浄はふだんはおとなしいが、カッとなると、
おさえていた分が一ぺんに爆発する性である。
「やい。おとなしくお師匠さまと八戒をここへ出せ。
 出さぬと目に物見せてやるぞ」

宝杖を手にもって力一杯、門を叩くので、
門番の小妖怪どもは驚いて奥へとんで行った。
「大へんです。大へんです」
「何が大へんだ?」
「門のそとに人相の悪い坊主がやってきて、
 大見得をきっています」
悪魔はそれをきくと、すぐ鎧兜をもって来させ、
それを身につけると、
手には鋼鞭を握って門のそとへとび出して来た。
「やい。何だって俺の家の門を叩くんだ?」
と悪魔は怒鳴った。
「用があるから叩くんだ」
「用があるなら、呼鈴を鳴らせはいいじゃないか。
 そこに呼鈴がついているのが目に入らねえのか?」
「呼鈴を鳴らすのは化粧品のセールス・マンだ。
 借金取りは居留守を使われないように門を叩くものだ」
「俺がいつお前に借金をした?」
「お前は船頭に化けて、
 俺のお師匠さまと八戒兄貴をだまして、
 ここへ連れて来たじゃないか。
 おとなしくかえしてくれるなら、
 さっきのことは目をつぷってやらぬでもないが、
 いやのイの字でも言ってみろ。
 満期にならない中に生命保険料を
 そっくり受け取れるようにしてくれるぞ」
「アッハハハ……。
 お前、何を寝言いっているんだ。
 確かに、お前の師匠は俺が生捕りにしてきた。
 間違いはない。
 お前の師匠を蒸器にかけて料理をするから
 早く来いと身内の者に使いの者をやった。
 これも間違いはない。
 しかしだ。
 世の中は実力の世の中だ。
 もしお前がそれに不服なら、
 俺とオスメスを決しようじゃないか。
 物の三度も打ち合って、俺に太刀打ち出来るようなら、
 お前の師匠をかえしてやらぬでもない。
 だが、もし太刀打ち出来ないなら、
 お前も同じ蒸器のネタだぞ」
「何をッ」

カツッとなった沙悟浄は、
物も言わずに宝杖をふりあげておどりかかってきた。
だが、悪魔も負けてはいない。
二人は水底で互いに宝杖と鋼鞭を打ち合わせること
およそ三十回。
なかなか勝負がつきそうもないので、沙悟浄は考えた。
「こりゃ俺とドッコイドッコイの相手だ。
 いつまでもここでぐずぐずしていても仕方がないから、
 水の上へおびき出して、
 悟空兄貴にバトンをわたすことにしよう」

沙悟浄はそう思うと、
わざと負けたようなふりをして敵にうしろを見せた。
ところが追いかけてくると思いのほか、悪魔は、
「じゃ、さようなら。
 俺もこれからあちこちに招待状を出さにゃならんから、
 ここで失礼するよ」

いやはや、人を食った悪魔である。
沙悟浄は水の中から出てくると、
「全く無礼な化け物だ」
「ずいぷん時間がかかったじゃないか」
と悟空がきいた。
「お師匠さまの居所をうまくつきとめたか?」
「うん。この水の底に黒水河神府というのがあってね……」
と沙悟浄は、悪魔の住んでいる神府の模様を
委細もらさず繰りかえした。
「ウム。こりゃ何の化け物だろうな」
「あの格好から見ると、スッポンの精でなけりゃ、
 人鰐の精だと思うな」
「しかし、それにしても、
 悪魔の伯父貴というのは誰だろうな」

二人が首をかしげている折しも、
下の方の湾の中から一人の老人がとび出して来た。
老人はまっすぐ悟空の前までやってくると、
その場に膝をついた。
「斉天大聖さま。私は黒水河の河神でございます」
「なに?お前が河神だと。
 さっき船頭になって俺たちの師匠をさらったのは
 お前か?」
「いえ、いえ。私は妖怪変化ではございません。
 正真正銘の河神でございます」

見ると、老人は眼に戻さえ浮べている。
「昨年の五月のことでした。
 西洋大海から突然、
 大激流が押しよせてきたことがありましたが、
 その激流にのって
 一人の小神がやって来たのでございます。
 小神は私が河をとじて保護貿易をやるのはけしからん、
 世は自由貿易時代だから、
 門戸を開放してすべからく外資を入れよ、
 とせまったのです。
 私が反対をすると、
 力ずくで私の河神府を奪ったばかりでなく、
 私のところの中小企業を軒並み破産させてしまいました」
「ははん。
 すると、さっき現われたのは自由化魔だったのか」
「はい。その通りでございます。
 何しろあれは西海竜王の甥で、
 バックがよろしいから、
 私が国際法廷に訴えても
 一向にとりあげてもらえないのです」

涙ながらに語る黒船物語である。

2000-12-29-FRI

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