毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第4巻 風餐露宿の巻
第五章 黒船物語

二 ズバリ申しあげる


ほどなく一行の眼前に高い山の頂きが見えてきた。
「あれが号山でございます」
と悟空が説明した。
「あの山のさき四百里ほど行ったところに
 紅孩児の火雲洞があるのです」

それをきくと、観音菩薩は祥雲をとめ、
頂きに向かって、「」の字の呪文を唱えた。
と、山の中から倉皇として多数の神鬼がとび出してきた。
よく見ると、いずれもこの土地に居を構える
山神や土地神たちである。
「何もそんなに驚くことはないよ」
と菩薩は蓮台の前にひれ伏した衆神に向かって言った。
「実はこれから化け物を生捕りにするんだが、
 ついてはこの界隈三百里ほどを
 きれいにしておいてもらいたいのだ」
「さては、観音菩薩も箒らしいぞ」
と悟空は脇で感心しながらきいている。
しかし、菩薩の箒はどうやら少し性質が違うらしい。
というのは観音菩薩が土地神や山神に命じたのは、
このあたりに住む野獣や虫けらどもを
山の頂上近くに大挙避難させることだったからである。

土地神や山神が急遽、言いつけ通りにすると、
菩薩は手にもっていた浄瓶を傾けた。
と、浄瓶の口からこんこんと水が
響きを立てて流れ出て行く。
水は忽ち激流となって山間を埋めつくし、
さっきまで草木の茂った谷間が
見る見る水の底に沈んで行ってしまったのである。
「大慈大悲の観音菩薩とはこのことだな。
 俺なら虫けらどもになんぞ、
 かまっちゃおられんのだがなあ」

どうなることかと悟空が固唾をのんで見つめていると、
「悟空や」
と菩薩がうしろをふりかえった。
「ハイ」
とあわててそばへとんで行くと、
「その手を貸してごらん」

菩薩は手に握った柳の枝に甘露水をつけて、
悟空の左の掌に「迷」という字を書いた。
それから、
「その拳をグッと握りしめてみなさい。
 そうそう。それでよろしい。
 ではこれからすぐに化け物をおびき出してきなさい。
 打ち合いをしても負けたようなふりをして、
 ここまで連れ出してくるんだよ」

悟空は言われた通り火雲洞の門前まで行くと、
片手は拳を握りしめ、片手は如意棒を構えながら、
「やい、化け物、門をあけろ!」

驚いた小妖怪どもがすぐ奥へとんで入った。
「大王。孫行者がまたやって来ました」
「かまうな。かまうな。相手にすることはない」

紅孩児はテコでも動かない気構えと見える。
「やい。お前のおやじが外に来ているというのに、
 まだ戸をあけないつもりなのか?」

悟空は更に声を大にして叫ぶが、紅孩児は耳に栓をして、
知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいる。

何度呼んでも奥から反応がないので、
しびれをきらした悟空は如意棒をふりあげると、
洞門も砕けよとばかりに打ちかかった。
「大へんです。孫行者が洞門をこわしています」

小妖怪がまたも奥へとびこんで行くと、
さすがの妖王も我慢が出来なくなって、
長鎗を手にもって、表へ出て来た。
「やい。身の程知らぬ山猿め。
 年をとっても一向に分別の出来ん奴とはお前のことだ。
 大体、俺が敬老精神を発揮して、
 見て見ぬふりをしてやっているのに、
 それでもまだ得心が行かねえのか!
 押売り、ユスリ、タカリ御免と
 門前に貼ってあるのが見えねえのか?」
「せがれや」
と悟空はわざと猫撫声になって、
「親を家から追い出したりして、
 お前、それでも人の子かい?」
「何をッ」

堪忍袋の緒は遂に切れてしまった。
紅孩児はただでさえ赤い顔を真赤にしながら、
悟空の胸も貫けよとばかりに長鎗を突き出してきた。
はっしと悟空の如意棒もそれをうけとめる。

互いに武器を打ち合わせること四、五回。
悟空は負けたと見せてあとずさりをはじめた。
すると、化け物は門前に立ったまま、
「俺はこれから帰って唐僧の水洗いにかかるからな」
と悟空の誘導作戦には乗って来ようともしない。
「せがれや。もうオッパイの時間かい?」
と悟空はひやかしにかかった。

それをきくと紅孩児は
引きかえそうとしたくびすをかえして、
またも悟空に立ちむかってきた。
しかし、悟空はもともと戦う気持がないから、
何度か打ち合うと、
またしても負けたふりをしてあとずさりをする。
「やい。山猿!」
と紅孩児もさすがに気づいて、
「二、三十回おれと打ちあっても負けなかったお前が
 何だって退却ばかりしやがるんだ?」
「アッハハハ……」
と悟空もこれには苦笑しながら、
「作戦の都合で後退する時は、
 退却とは言わずに転進というものだ。
 お前はまだ帝国陸軍が
 軍用語を変更したことを知らぬと見えるな」
「テンシンかペキンか知らぬが、
 実力があったら堂々とわたりあおうじゃないか」
「いやいや。
 何しろおやじはお前の火力には辟易しているんでな」
「そんなにこわかったら、
 火を吐くのは勘弁してやってもいいぜ」
「それならば何も
 門前に恋々としていることはないじゃないか。
 いいが男が自分の家の門前で人を殴ったと言われちゃ
 面目が立たないぞ」
「よしッ」

化け物は歯を食いしばると、
決心したように悟空のあとを追った。
悟空は流星の如く疾走し、
紅孩児は弓を離れた矢の如くそのあとを追走する。

いつの間にか二人は
観音菩薩の坐っているところまで来てしまっていた。
「まいった、まいった」
と悟空は大きな声で叫んだ。
「斉天人聖といえども怒れる若者たちの前では
 障子紙ほどの防禦力もない。
 しかし、いくら怒れる若者たちでも菩薩の前で、
 エクシビショニズムを発揮するわけには行くまいよ」

そう言ったかと思うと、
悟空は素早く菩薩の後光の中にかくれてしまった。
紅孩児はカンカンになって悟空のあとを追ったが、
悟空の消えたあたりを見まわすと、
すぐ眼の前に菩薩が坐っている。
「やい」
と紅孩児は眼をむいて怒鳴った。
「お前は誰に頼まれてこんなところへやって来た?」
「…………」
観音菩薩は唇をとじたまま返事もしない。
「お前、孫行者に頼まれてここへ来たのか?」

それでもまだ観音菩薩が黙っているので、
紅孩児は癪にさわって、
人もあろうに菩薩めがけて怒れる一突きを突きさしてきた。

だが観音菩薩は障子紙ではない。
もともと光そのものであるところの観音菩薩は、
一条の光となって九霄の上空へのぼって行ったのである。
「菩薩さま」
とそのあとを追いかけながら悟空は言った。
「化け物に再三再四きかれても何故、
 だまっていたのですか?
 なぜ私を助けにきたんだと
 おっしゃらなかったのですか?」
「私には考えがあるのだ」
「でもおかげで、蓮台までとられてしまって、
 それこそ文字通り
 台無しになってしまったじゃありませんか?」
「いいから黙って見ていなさい」

なるほど遙か上空から見ていると、
化け物は戦利品の蓮台を前にして、
「アッハハハ……」
と笑っている。
「山猿め、とんだ誤算をしやがって、
 ハリコの菩薩をひっばって来やがった。
 山猿にとっては文壇の大ボスかどうか知らねえが、
 俺たちにとっちゃ性的無能力者のなれのはての
 道徳病患者にすぎねえ奴じゃないか。
 その証拠に、俺の一突きにびっくり仰天して
 蓮台までおいて逃げ出しやがった。
 どれ、ひとつ俺がその椅子に坐って見るとしようか」

そう言って紅孩児は手ふり足ふり菩薩よろしく、
蓮台の上へあがると、どっかり腰をおろした。
「見ろ、見ろ。あの板についた大ボスぶりを!」
と辛抱しきれなくなって悟空が叫んだ。
「お前、何か言ったかね?」
と菩薩はうしろをふりかえってきいた。
「あれを見ていて、だまっておられますかって言うんだ」
と悟空は遠慮することも忘れて続けた。
「雛壇というものは一人が坐らなければ、
 ほかの奴が坐るだけのことだ」
「そうだとも。
 私は蓮台の上に一度あいつを坐らせてやろうと
 思ったのさ」
と観音菩薩は言った。
「人が坐っているのを見ると、
 大へん坐り心地がよいように見えるが、
 自分で坐ってみるとそれほどでもないことが
 わかるだろうと思ってね」
「でも奴はあなたのような中年肥りじゃないから、
 なかなか安定がよろしいようじゃありませんか?」
「いま、その安定ぶりを見せてあげるよ」

観音菩薩はそう言って、
手にかざした柳の技で下の方をさしながら
「退れ!」
と叫ぶと、
あれほど光りかがやいていた蓮台はたちどころに消えて、
化け物は何と刃物の上に腰をおろしているではないか。
「アイテテテ……」

刃物の先がささった化け物の腿のあたりから
赤い血か吹き出している。
化け物は長鎗を投げすてると、
手で刀を抜きとりにかかった。
「大したものだ。
 奴は痛みをこらえて刀を抜いているじゃないか」
と悟空が感心していると、
菩薩はすぐに柳の枝を下へ垂らして、
の字の呪文を唱えた。
と、今までまっすぐだった刀の先が
たちまち釣針のように曲って
肉の中に食いこんだからたまらない。
「痛い。痛。アイタタタタ……」

とうとう我慢が出来なくなって、化け物は泣き出した。
「菩薩さま。助けて下さい。
 助けて下さればおっしゃることは何でもききます」

それをきくと、
菩薩は空の上から化け物の眼の前まで下りて行った。
「どうだ、少しはこりたかね?」
「もうこりごりです。どうか生命だけは助けて下さい」
「生命を助けてやれば、私のいう通りになるか?」
「ええ、ええ、
 去勢をされる以外のことなら何でもききます」
「ハハハハ。
 さすがは怒れる若者たちの一人だ。
 去勢をするような非人道的なことはやらないが、
 その代りズバリ申しあげる、頭は坊主にするよ」

そう言って観音菩薩は袖の中から剃刀をとり出すと、
みるみる紅孩児の頭の髪をそりおとしてしまった。
「なかなかいい頭の恰好だ。
 美男坊主なら善財竜女とは好一対。
 どうだ、お前に善財童子という名前をやろうと思うが、
 不足はないかね?」
「ええ、ええ」

生命が助かりたい一心で、
化け物は何でも無条件に頷いている。
菩薩は手で刃物を指して
「退れ!」
と叫ぶと、あら、不思議、
刀はバラバラと抜けおちて、
化け物の身体には傷あとひとつのこっていないではないか。
「木叉や」
と菩薩は言った。
「お前、天刀をかえしに行っておくれ。
 それからもうここに迎えに来なくても、
 普陀巌で私を待っていてくれればよいから」
「ハイ」
と恵岸行者が行ってしまうと、
今までおとなしくしていた紅孩児は、
いきなり走って行って地におちていた長鎗をひろいあげた。
「やい、菩薩。お前の法術を見破ったぞ」

言いざま菩薩に立ち向ってくる。
「これ、何をする! お前は二枚舌か」
「ズバリ申しあげる! たったいまのは演出でござる」

びっくりした悟空が如意棒をとり出そうとすると、菩薩は、
「お前はだまって見ておいで」

そう言って袖の中から今度は金箍児をとり出した。
見ると、
形は悟空の頭にはまっている金箍児とそっくりである。
「これは釈迦如来が私をお使いに出す時にくださった
 三つの輪の中の一つだ。
 一つはお前の頭の上、
 もう一つの金箍児は守山大神の頭の上、
 そして、最後の一つがこれなんだよ」

菩薩は金の輪を手に握ると、
「変れ!」
と叫びながら、空高く投げあげた。
と、一つの輪は風を切っているうちに
いつの間にか五つの輪になり、
「ええッ」
とさらに叫ぶと、一つは化け物の頭に、
四つはそれぞれ化け物の手足に
物の見事にはまってしまったのである。
「悟空や。ちょっとそこをおどき」

菩薩は手で悟空をおしのけながら、
「いま、私があの化け物をこらしめてやるから」

いや、悟空の驚くまいことか。
菩薩が呪文をとなえだす前から、
頭を押えて七転八倒をはじめている。

そのあわてぶりには菩薩も吹き出さずにはいられなかった。
「悟空や。
 呪文は呪文でも緊箍児呪と金箍児呪とでは
 内容がまるで違うよ」
「あ、そうですか」

なるほど菩薩が唱え出したのを見ると、
自分の頭は痛くも痒くもないが、
化け物は大地にひっくりかえって大騒ぎをしている。

菩薩が口の中のもぐもぐをやめると、
化け物も痛みを感じなくなって、
立ちあがろうとするが、菩薩かまたもぐもぐをはじめると、
またしてもひっくりかえる。
「もっと、もっと」
と悟空はひどい目にあわされたことがあるから、
さかんにたきつける。

菩薩は柳の枝にちょいと甘露水をつけて雫が払いながら、
「一つになれ!」
と叫ぶと、化け物の手も足も胸もとで一つになって、
ちょうど豚でもしばりあげたような恰好になった。
これではいくら怒れる若者でも降参せざるを得まい。
「この若者は私の力に服したけれども、
 心の中ではまだ何をッと思っているだろう」
と菩薩は悟空に向って言った。
「でもそういう不逞な若者の方が私には教え甲斐があるよ」
「観音さまは稚児趣味がおありと見えますな」
「何を言っているんだ。
 お前は早く三蔵法師を助けに行きなさい」

そう言って観音菩薩は浄瓶を傾けて
ふたたび呪文を唱えると、
谷間を埋めていた洪水は
スルスルと瓶の中に吸いあげられて、
あたりはまたもとの通りになった。

悟空は菩薩にお礼とお別れの挨拶をすると、
早速、火雲洞を目ざして走り出した。
「よお。兄貴、遅いじゃないですか?」

そういって松林からとび出してきたのを見ると、
宝杖を片手に握った沙悟浄である。
「俺はもう待ちくたびれて癇癪玉が破裂してしまいそうだ」
「まあまあ、そう怒るな。
 待つ身がつらいか、待たせる身がつらいか」
「それよりも観音菩薩はどうなさつたのですか?」
「観音菩薩はもう用事をすましてお帰りになったよ」
「へえ。えらい手まわしの早い菩薩さまだな」

沙悟浄は悟空から委細をきくと、顔をほころほせながらも、
「早くお師匠さまを助け出しに行かなくっちゃ」
と片時も三蔵法師のことを忘れていない。

二人は枯松澗をとびこえると、洞門を破って中へ入り、
小妖怪を蹴散らしながら、
奥へ入って皮袋の中から猪八戒を救い出した。
「化け物はどこにいる?」
と八戒は熊手を握りしめると、
「この熊手で奴を思いっきり叩きつけてやらなくちゃ、
 とても気がすまないや」
「それよりもお師匠さまはどこにいる?」
「さあ、どこにいるかな?」

三人は大急ぎで洞内をさがしまわると、
三蔵法師が素裸にされて縄で
ぐるぐるまきになっているのが見つかった。
「えらい目におあいになりましたな。
 風邪をお召しになりませんでしたか?」

沙悟浄がすぐに着物をとって来て、三蔵に着せた。
「お前たちこそとんだ災難だったな。
 全く菩薩さまには何とお礼を申してょろしいのやら」

三蔵が南の方に向ってひざまずくと、
「なあに。そんなに感謝感激していることはありませんや。
 観音さまは化け物を退治してくれたかもしれんが、
 自分でもちゃんと美少年をひとり
 連れて帰って行ったんですから、
 転んでもただでおきないのは
 何も乞食だけじゃありませんよ」

どうやら火雲洞の騒動もこうして無事おさまったのである。

2000-12-28-THU

BACK
戻る