毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第4巻 風餐露宿の巻
第三章  赤 い 雲

四 火事は一一九番へ


「やい、小僧」
と悟空は門前の小妖怪どもを見ると、声を大にして叫んだ。
「奥へ行って洞主におとなしく唐僧を出せと伝えて来い。
 いやのイの字でも言って見ろ。
 この洞窟を山ごとぺっしゃんこにしてくれるぞ」

驚いた小妖経は息せききって奥へとんで入った。
「大王、大へんです」
「何が大へんだ?」

折しも化け物は部下に命じて三蔵の衣服を剥ぎとり、
水洗いを終えて蒸籠の準備にかかっているところであった。
「そとに人相の悪い坊主が二人やって来て、
 唐僧をかえせと怒鳴っております」
「ハハン。さては孫行者と猪八戒だな。
 さっきのところからここまで
 百五十里から道程があるのによく探しあてたものだ。
 よしよし、お前たち、すぐ戦車を外へ出せ」

そとで返事を待っていると、やがて洞門があいて、
小妖怪どもが五台の車を押し出して来た。
「荷車を出してきたところを見ると、
 お師匠さまを運びに行くのだろうか?」
と八戒は言った。
「そうじゃなさそうだぜ。
 どういう具合に配置するか見てみよう」

五台の車を適当な間隔で並べおわると、
小妖怪はまた一旦奥へひっこんだ。
と、やがて一丈八尺もある火尖鎗を手に握った妖王が、
威風堂々と洞門の中から出てきた。
「門前で愚図愚図言っているのはどこのどやつだ?」
「よオ。坊やじゃないか?」
と悟空がすぐに応じた。
「さっき山道を通っている時に突然、
 お師匠さまが風に乗って消えてなくなったので、
 どこへ行ったのかと思ったら、
 坊やのところへ来ているそうじゃないか。
 ひとつ叔父さんの顔に免じてかえしてくれんかね?
「黙ってきいておりゃ出任せのことを言いやがる」
と紅孩児は顔を真赤にして怒り出した。
「俺とお前と何の関係がある?
 猿にも甥御はおいでかも知れんが、
 生憎と俺には猿の叔父貴はおらんぞ」
「すると、妨やはご存じないと見えるな。
 そりゃ無理もない。
 俺がお前のお父さんと義兄弟の契りを結んだ頃は、
 考えて見りゃ坊やはまだ生れてもいなかったんだからな」
「俺のおやじとお前が義兄弟だって?」
「そうだとも。
 五百年前に天界荒らしで鳴らした
 孫悟空こと斉天大聖とは誰あろうこの俺のことだ。
 あの頃、お前のお父さんの牛魔王は平天大聖といって、
 一方の旗頭だった。
 世は実力主義の時代で、
 今日のように門閥とか学閥とか閨閥だとか
 バックを問題としなかったから、
 英雄は互いに英雄を、豪傑は互いに豪傑を尊敬し合い、
 天下七人のサムライが一党に会して
 義兄弟の杯を交わしたものだ。
 お前のお父さんは一番年上だったから長兄となり、
 俺は一番若かったから、末弟ということになった。
 しかし、ずいぷんむかしの話だから、
 恐らくお前はまだおふくろさんの腹の中にも
 入っていなかっただろうな」
「なにを!」
紅孩児は悟空の言葉を自分を罵倒する台詞と思ったらしい。
手に握った火尖鎗をやにわにふりかざすと、
悟空めがけて突き刺してきた。
「これ、何をする!」

悟空はあわてて身をかわすと、
素早く如意棒でうけとめながら、
「目上も目下も見分けがつかないとは
 畜生も同然ではないか」
「俺には猿の親戚はいないぞ。思い知れ」

話合いのつもりだったものが、もつれにもつれて、
たちまち一大戦闘が展開された。
二人は互いに秘術を尽すことおよそ二十数回。
そばで見ていると、
化け物は一応互角にわたりあってはいるが、
必殺の勢いというほどでもない。
一方、悟空の棒は大へん巧妙に動いているが、
いつも化け物の頭の上で簡単にうけとめられている。
「こりゃ、どちらが勝っても、
 俺の出る幕がなくなってしまうぞ」

八戒は俄かに焦りを覚えると、
化け物の頭に狙いを定めて
えいっとばかりに熊手を打ちおろした。
ただでさえ悟空をもてあましていた化け物は
びっくりして身体をひっこめると、
背中を見せて走り出した。
「それッ」

二人は一目散に逃げて行く化け物のあとを追ったが、
化け物は洞門の前まで駈け戻ると、
五台ある車のうちの真中にある車の上に
ひょいととびあがった。
そして、こちらへ向きなおると、
片方の手で拳をにぎりしめて
二度続けて自分の鼻を殴りつけるではないか。
「てへへ……。自分で鼻血を出しておいて、
 俺たちが殴りつけたといって
 警察へでも訴えて出るつもりかしら」

だが、化け物の拳固は別に
八戒の考えたような目的のためではなかった。
何と見る見るうちに化け物の鼻からは濛々と煙が出はじめ、
やがて目をパチパチする度に、
口から猛然と火を吐き出したのである。
いや、化け物の身体からだけではない。
化け物の乗った車からも、
更にほかの四台の車からも
一斉に火が吹き出しはじめたのである。

真赤な焔は天をも焼きつくす勢いだし、
煙幕は忽ち火雲洞を覆いつくしてしまいそうだった。

八戒はいきなり地獄の火炎山に投げ込まれたように
あわてふためきながら、
「ナムアミダ。おお。
 あの焔の中にまきこまれた日には
 ちょっと胡椒を上からふりかけただけで、
 立派なチャーシュになってしまうぞ。
 くわばら、くわばら」

そばに悟空がいるのも忘れて、
自分一人だけさっさと逃げ出したのだから、
ひどいものである。

悟空は、しかし、少しもあわてず、
火を避ける呪文を唱えると、焔の中へわけて入って行った。
悟空の姿を見かけると、
化け物は更に口をひらいて猛然と火を吐き出した。
さきにも倍加する物凄い火煙である。
これにはさすがの悟空もこらえかねて、
火の中からとび出して行った。
「アッハッハッハハハ……」

それを見ると、化け物は高笑いをしながら、
部下に命じて飛道具を門内にしまいこみ、
洞門をとじてしまったのである。

さて、火の中をくぐりぬけた悟空が
枯松澗をとびこえて戻ってくると、
松林の中で八戒と沙悟浄が
何やら話しあっているのがきこえてくる。
「この野郎」
と悟空は八戒の前にとび出して行って怒鳴りつけた。
「お前のような友達甲斐のない奴は見たことがない。
 自分一人だけうしろも見ずに逃げ出す奴があるか」
「ハハハハ……」
と八戒は笑いながら、
「パンを求めて石を投げられるとはこのことだ。
 大体、兄貴は向うが親戚とも肉親とも思っていないのに
 無理矢理、親戚面をするからこんなことになるんだよ。 
 “機を見るに敏なる者を英俊という”
 とコトワザにもあるだろう。
 兄貴は蛮勇に頼りすぎて
 風向きを軽視する傾きがあると思うな」
「奴と俺は腕前はどうだい?」
と悟空はきいた。
「兄貴には及ばないようだな」
「じゃ武術は?」
「それも兄貴の方が一杖上手だと思うな」
と八戒はなかなかご機嫌取りがうまい。
「見ていると、もう一歩というところだったよ。
 だから、俺はじっとしておられなくなって
 助太刀をする気になったんだ。
 そしたら、奴め、形勢不利と見て
 忽ち放火魔の本性を発揮しやがった」
「お前が助太刀してくれたのは有難いが」
悟空は少し機嫌をなおしながら、
「じっと固唾をのむ方にまわっていてくれた方が
 よかったぜ。そうしたら、俺は相手の隙を見て
 ただの一撃で片づけてしまったのになあ」
「それにしてもあの火力はどうだ?
 敵ながら大したものじゃないか」
「全くな」
と悟空は腕組をして、
「俺も火炎放射の術はもっているが、
 とてもあいつのような威力は発揮出来ない。
 どうしたもんだろうな」

二人が思案に暮れているのを、
沙悟浄はさっきから松の木にもたれてじっときいていた
「ハハハハ……」
と笑い出した。
「何がおかしい?」
と八戒は沙悟浄の方へ向きなおって、
「万年ユーモア欠如症にかかっているお前が
 笑い出したりすると、
 俺たちまでが気が変になってしまいそうだぞ」
「いや、三人集まれば、文殊の知恵というじゃないか?」
と悟空は沙倍浄をかばった。
「お前にいい考えがあったら、遠慮なく言って見ろよ。
 もしお前がお師匠さまの難を救うことが出来たら、
 世間の人がお前を見る目もかわってくるだろう」
「いやいや」
と沙悟浄は頭をふりながら、
「俺にはお師匠さまをお助けする力はない。
 化け物を退治する力もない。
 そして、世間の人から実力以上に評価してもらいたいとも
 思っちゃいない」
「じゃ何がおかしくて笑ったんだ?」
「兄貴たちが焦眉の急にとらわれて、
 当り前のことを忘れているのがおかしかったんだ」
と沙悟浄は言った。
「火事になれば一一九番へ電話をかけるのが
 我々の常識だと思うんだがなあ」
「そうだ。そうだ」
「アッハハハハ……」

まことに三人が一人欠けても文殊の知恵は生れて来ない。

2000-12-21-THU

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