毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第4巻 風餐露宿の巻
第一章 王座は狙われている

二 立 帝 貨


その途端に三蔵はハッとして顔をあげた。
見ると明りはまだ細々とついていて、
さっきからまだそれほど時間はたっていないらしい。

「夢だったのか」

夢でよかったと胸を撫でおろしながら、
ふと机の上を見ると、
白玉の圭かそこにおいてあるではないか。
驚いてとびおきた三蔵は圭を手にとると、

「悟空、悟空、八戒、悟浄」

無闇やたらに、弟子の名前を連呼しながら、
皆の寝ているところへとんでいった。

「うるさいな。昼は昼でこきつかい、
 超過勤務手当も払わないくせに
 夜まで働かせるつもりかい。
 いくら坊主だって夜ねる権利ぐらいはあるんだぜ」
と八戒は眼をとじたままムニャムニャ言っている。

「違うよ。おかしな夢を見たんだよ」

「シビンなら部屋の隅っこにおいてありますよ」

「幽霊の夢なんだ」

ユウレイときいて、悟空がガバとはねおきた。

「お師匠さま、どんな夢です?」

三蔵がさっき見た夢を話し出すと、

「ハハハハ……」
と悟空は笑い出した。
「大方、連日の旅で心に迷いが出たんでしょう。
 私のように信心の厚いものは
 仏のことしか考えていないから、
 夢なんて全然見ませんがね」

「でもこれを見てごらん。この圭はただものではないよ」

三蔵が白玉の圭を見せると、悟空は、
「ウム」
と唸って、
「これは冗談ではなさそうだぞ。
 斉天大聖と名指しできたところを見ると、
 俺の名前もようやく国際的になったらしい。
 ひとつ腕前の程を見せてやることにしようか」

「でも相手はなかなか手ごわいそうだよ」

「そいつは相手に言わせるセリフだ」

「うるさいな」
と八戒はもう一度言った。
「真夜中にそんなに大きな声を出すと、
 騒音防止法にひっかかるぞ」

「ぐずぐず言わんで起きろ、起きろ」

真夜中だというのに、とうとう八戒も悟浄も
叩きおこされてしまった。

「おい。これを見ろよ。
 明日はまた世の中が面白くなってくるぜ」

「何が面白いものか。
 俺は腹一杯食って寝ているのが一番面白い」

「お師匠さま」
と悟空は八戒の不平など問題にもせず、
「全責任は私が負いますから、
 ひとつお師匠さまも手伝って下さい」

「手伝うって、どういうことをすればいいのだね」

「なあに。大したことはありませんよ」

悟空は見ている前で毛を一本抜いて、
「変れ!」
と叫ぶと、たちまち眼前に朱塗りの箱が一つ現われた。
その中へ白玉の圭を入れながら、

「お師匠さま。
 明日は金襴袈裟を出して
 久しぷりにいい男ぶりを見せて下さい。
 この箱を片手に持って、
 お寺の本殿の中で待って居れば、
 私が皇太子を連れて参ります」

「皇太子がお寺へ来るだろうか?」

「もし夢が正夢だったら、きっと城を出て来ますよ」

「来たら、何と言ってお迎えしたらいいだろうか?」

「来るようだったら、私が先にとんで来て知らせます。
 そうしたら、この箱の蓋をちょっとあけておいて下さい。
 私は一寸法師に化けて中へ入りますから、
 そのまま手に持っていて下さい。
 皇太子は寺へ入ってくれば、
 きっと仏さまを拝みに本殿へ来るでしょう。
 その時、知らん顔をしていて下さい」

「知らん顔をしておれば、咎められるよ」

「咎められたってかまわないじゃありませんか」

「でも無礼者と言って斬り捨てにあわないとも限らない」

「私がついているのですよ」
と悟空は胸を叩いて見せた。
「人の注意をひく一番の方法は相手を怒らせることです。
 怒れば、相手の関心をひいたわけですから、
 あとはこちらのものです。
 皇太子はきっとお前は何者だときくでしょう。
 そうしたら、東方から西方へお経をとりに行く者だと
 正直に答えて下さい。
 東方からの使者だとわかれば、
 きっと何か珍しいものを持って居らぬかときかれますよ」

「金欄袈裟を着ていて、目でもつけられたらたいへんだ」

「こんなものよりもっと素暗しいものがあると
 答えればいいじゃありませんか。
 ここにあるこの箱の中には過去現在未来について
 何でも言いあてる宝物が入っていると言って、
 一寸法師を出して見せるんです。
 そうしたら私が夢のお告げを
 皇太子に話してきかせますよ」

「なるほど。なるほど。お前も案外知恵者だね」

三蔵は感心しながら、
「時にお前の化けた一寸法師は
 何という名前をつけておこうか?」

「オネスト・ジョンというのはどうです?」

「いやいや、手練手管を使っているのに、
 正直大郎じゃちょっと気がとがめるよ」

「じゃ、思いきって中華風の名前で、
 立帝貨というのはどうでしょうか?
 正しい皇帝を擁立しようというのが
 我々の究極の目的なんですから」

「うん。それがよかろう」

さて、夜もようやく明けたので、
悟空は八戒と悟浄に後事を託すると、
ひとり空に向ってとびあがって行った。
四十里といっても、
悟空にとっては次の部屋へ行くほどの距離でしかない。
なるほどこのあたりは妖雲がただよっていて、
下界の見通しもあまりきかないところである。

悟空が雲を低く走らせていると、突然、
砲声と共に人馬の移動する音がきこえてきた。

「やあやあ。おびただしい軍隊ではないか」

軍隊は城門を出ると、東へ東へと進み、田圃をすぎ、
山の方向へと駒を動かしている。
よく見ると、その中に一きわすぐれた風貌の
若い将軍がまじっている。

「あれが皇太子に違いない。よし、ひとつからかってやれ」

悟空は揺身一変、たちまち一匹の白兎に化けると、
いきなり皇太子の馬前を走り出した。
皇太子はすぐに矢をつがえると、白兎のあとを追った。

ヒューンと音がして弓を離れた矢は見事に白兎にあたった。
少くともあたったように、皇太子には見えた。
しかし、白兎は矢がつきささったまま、
矢よりも早く疾走している。

皇太子はあとを追った。
馬が近づくと、兎は風の如く走り、
馬が遠のくと、馬が追いつくまでゆっくり走っている。
こうしたカケッコを繰りかえしているうちに、
いつの間にか皇太子の一行は
宝林寺の門前まで来てしまっていた。

「お師匠さま。連れてきましたよ」

悟空は急いで本殿へかけ込むと、
三蔵法師のひらいた小箱の中へ入って、
皇太子の一行が入ってくるのを
今か今かと待ちかまえている。

一方、あとから追いついた皇太子が山門まで辿りつくと、
自分が射た矢が門の扉に
ぐさりと突きささっているではないか。

「おかしいぞ。
 たしかに手応えがあったはずの矢が
 こんなところにささっている」

ふと見あげると、
山門に勅建宝林寺の五ツの字が目についたので、

「そうだ。ここはいつか父君がお建てになったところだ。
 今日、兎にひかれてここに来たのも何かの縁だろう。
 ひとつ中へ入って和尚と世間話をしてみるのも
 悪くはないな」

皇太子が馬をおりると、
お附きの人々も一緒に馬をおりた。
寺では思わぬ珍客が来たので、
坊主が総出で皇太子を迎えに出てくる。
皇太子は兎のことを忘れて、
案内されるままに本殿へ入ったが、
見ると、平身低頭している僧侶たちの中でただ一人、
見事な袈裟を着た坊主だけが眼中人なきかの如く
椅子に坐りこんでいる。

「そこにいる無礼者は誰だ?」

皇太子の一声に、
家来たちはたちまち三蔵をとりおさえて
主君の前へひき立ててきた。

「お前は誰だ?」

「私は旅の坊主です」

「旅の坊主でも、皆がこうして殿下をお迎えしている時に、
 ひとり坐っているのは無礼千万ではないか」
と侍従の者がたしなめた。

「それは失礼かも知れないが、
 出家は正しい者に頭をさげることはあっても、
 必ずしも権力者に頭をさげねばならない
 という法はありません」

「何だと? 殿下を悪党扱いにする気か?」

「まあ、待て待て」
と皇太子はまわりの者を制した。

「見ればなかなか風変りな坊さんのようだが、
 一体どこから参った?」

「私は長安大唐国から西方天竺へ
 お経をとりに参る者でございます」

「ほお。大唐国から?」
と皇太子は驚いたように言った。
「大唐国といえば、東方の文明国だときいているが、
 何でまたわざわざ西方までお経をとりに行くのだね?」

「大唐国は文明国に違いはありませんが、
 物質文明の国で、
 精神文化に欠けているのでございます。
 人はパンなくしては生きて行けませんが、
 パンのみにて生きる者ではないのです。
 それで心の糧を求めて、
 こうして西方へと旅を続けているのでございます」

「ほお。それほまた新説をきいた」
と皇太子は目をパチクリさせながら、
「我が国や西方諸国では、
 精神は物質のマボロシにすぎないという
 唯物思想が大流行だが、
 文明国ともなると贅沢な考えが流行するものだね」

「いえ、物質なんて大したものではありませんよ。
 物質があって精神があるのではなくて、
 物質はそれを認識する主体があってはじめて
 存在するものです。
 精神こそが人間の主体でごぎいます」

「その議論はもう聞きあきたな。
 私が興味を持っているのは東方の物質文明ですよ。
 何でも東方には黄金でつくった家があって、
 道も屋根瓦も金や銀をしきつめてあるそうでは
 ありませんか」

「それはマルコ・ポーロがとばしたデマですよ。
 まさかそれほどでもございませんが、
 道などが舗装されていて、
 雨かふってもぬかるんだりしないようになっているのは
 事実でごぎいます」

「なるほどね」
と皇太子は感心しながら、
「その国からおいでになったとすれば、
 あなたはさだめし珍しいものをお持ちてしょう?」

「いえ、珍しいというほどの物は
 何も持っておりませんが、
 ここにあるこの小さな箱の中には
 立帝貨という大へん便利なものが入っています」

そう言って三蔵は、
自分の手に持っていた小箱を
皇太子の前に出して見せた。
はたして皇太子は眼をかがやかせた。

2000-12-11-MON

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