毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第八章 金銀無縁

一 火はダマせない

呼ばれて、「おう」とでも答えようものなら
忽ちとりこになることを銀角は知っていた。
しかし、雲の間から、「銀角大王」と声をかけられると、
駄目だ、駄目だと思いながら、銀角は思わず、
「おう」
と答えてしまったのである。

見る間に銀角は、
悟空の手に握った紅葫蘆の中へ吸い込まれてしまった。
悟空は素早く「太上老君急急如律令」のお札を
貼りつけると、
「さてさて昨日は人の身、今日は我が身、
 今度はお前が実験台に立つ番だぞ」

葫蘆を抱えたまま雲からおりた悟空は
一路蓮花洞へと道を急ぐ。
何しろこの辺は自動車なんぞ通らないところだから、
道は凸凹で走るたびに葫蘆が揺れる。
揺れるたびに葫蘆の中がぼちゃぼちゃ鳴りはじめる。
ぼちゃぼちゃ鳴りはじめるのは
中の固形物がとけて液化している証拠だが、
悟空はそんなことを知らないから、
「この野郎、小便をたれてるのか、
  それともうがいをしてるのか知らねえが、
  その手は俺も考えたことがあるから、
  うかうかとは乗らねえぜ。
  俺がうまく脱け出したからといって、
  貴様もそれが出来ると思ぅのは見当違いだ」

葫蘆を相手に問答を繰りかえしながら、
洞門の前まで来ると、
悟空は葫蘆を両手にかかえてもう一度ふって見た。
「こりゃ易を立てる時そっくりの音がするじゃないか。
 どれどれ、お師匠さまがいつあの中から出て来られるか、
 ひとつ易でも立てて見るとしようか」

悟空は葫蘆を竹筒よろしくふり続けながら、
「易の大先生、文王さま、孔子さま、桃花女さま、
 鬼谷子さまさま……」
とつぶやき出したから、
洞門の中からそれを見ていた小妖怪どもは
青くなって奥へとんで行った。
「大へんです、大王。
 行者孫が銀角大工を葫蘆の中へ入れて、
 いま易の筮竹代りにふっています」
「なにッ」
と金角は顔面をピリピリと動かしたかと思うと、
その場に尻餅をついてしまった。
将棋の駒じゃないが、
銀をとられては金の生命も旦夕に迫ったようなものだ。
思えば、退屈な天国をあとにして、
この蓮花洞で一旗あげようと
ともども出て来た兄弟であったが、
二人のうちの片一方をもぎとられてしまっては
もう商売にならない。
金角は悲しみここにきわまったというように
声を張りあげると、男泣きに泣き出した。

梁の上からこの様子を見ていた猪八戒は、
性来のおせっかい癖がまたも顔をもたげて、
「おい、金角、そう泣くなよ」

びっくりして金角が上を見あげると、
八戒が得意そうに口をとんがらしながら、
「よおく俺のいうことをきくがいい。
 さっきから次々とやってきた孫行者も者行孫も行者孫も、
 実は同じ一人の孫悟空さ。
 俺の兄貴はあの通り千変万化、
 王手、王手と攻めて相手に息もつかせない。
 もうこれで勝負があったも同然だろう」
「ウム」
「悪いことは言わんから、椎茸や筍や豆腐やきくらげや、
 ありったけのご馳走を出して来て、
 俺たちをもてなしたらどうだ。
 そして、俺たちのお師匠さまに頼んで、
 銀角大明神が成仏するように
 お経でも誦んでもらった方がいいぜ」
「何を抜かすか、こん畜生」
と金角はカンカンになって、
「黙っていりゃいくらでも減らず口を叩きやがる。
 おい、お前たち、いつまでもそこでおろおろしないで、
 猪八戒をおろして蒸籠に入れろ。
 ブタの丸蒸しで腹ごしらえをしてから
 孫悟空をやっつけてくれる」
「だから余計な口をきくなとあれほど言ったじゃないか」

そばで沙悟浄は恨めしそうに言った。
八戒は丸蒸しにされるときいて些かしょげかえったが、
そばに立ってジロジロ見ていた小妖怪は、
「大王。こいつは丸蒸しはちょっと無理でございますよ」
「そうだ。そうだ」
と八戒はあとの言葉をきかないで大声を張りあげた。
すると、そばに立ったもう一人の料理人らしい小妖怪が、
「やっばり皮を剥いでからにしないと、
 なかなか柔らかくならないでしょう。
 何しろ千枚張りみたいに硬そうですからね」
「冗談いうな」
と八戒はすっかりあわてて、
「こう見えても二キビ華やかなりし時代のタマシイは
 まだ失っていないつもりだぞ。
 お前ら、一体、包丁を持ってから何年になるんだ?」

八戒が大騒ぎをしていると、
そこへまた小妖怪がとびこんできて、
「大王、行老孫がまた門前へやってきて
 悪言罵倒しています」
「畜生」
と金角は色をなして叫んだ。
「我が門下に人無きが如き振舞い。
 ブタの丸蒸し料理を食べる前に
 まずサルから料理してくれる。
 者ども、兵器の用意はいいか」
「ハイ。七星剣と芭蕉扇と玉浄瓶の用意がしてございます」
「玉浄瓶はいらぬ。
 人を容れる武器を使ったばかりに銀角の奴、
 逆に容れられてあえなき最期を遂げてしまったからな」

金角は部下に七星剣と芭蕉扇を持って来させると、
ただちに三百人ばかりの手下を集め、
威風堂々と洞門を押しあけて外へ出て来た。
「やい。サルはどこにいる?」

見ると、悟空は葫蘆を腰にぷらさげ、
手に如意棒を握ったまま待ち構えている。
「生命知らずの無礼者!
 よくも俺の弟を殺しやがったな」
「お前こそ生命が惜しくはないのか?」
と悟空も負けずに怒鳴りかえした。
「俺の師匠やきょうだいたちを生捕りにされて、
 この俺が黙っているとでも思っているのか。
 生命が惜しかったら今からでも遅くはない。
 門出に歌の一つもうたって盛大に見送りをしてくれれば、
 老いぼれの生命ぐらいは見逃してやらんでもないぞ」
「なにを!」

中空には忽ち七星剣と如意棒がしのぎをけずって
火花を散らせる。
およそ二十数回もわたりあったが、
俄かに勝負がつかないと見るや、
金角はうしろをふりかえって、
「者ども、かかれ」
と叫んだ。

悟空は些かもひるまず、
四方八方から押し寄せる小妖怪どもを払いのけるが、
ここの手下は訓練がよく行き届いているらしく、
追っ払っても追っ払っても、蝿の如くたかってくる。
さすがの悟空も一人ではもてあまし、
脇の下の毛を一握りほど抜いて「変れ」と叫ぷと、
その一本一本が忽ち悟空になって、
それぞれの手に如意棒を握って暴れはじめた。
びっくり仰天したのは小妖怪どもである。
「こいつはたまらん。右も左も前も後も孫悟空だらけだ」
とまるで蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまったから、
今度は一人だけ残された金角があわてる番になった。
金角は片方の手で剣を使いながら、
もう一方の手を背中にまわすと芭蕉扇を抜きとり、
さあッと一あおぎあおいだ。
と見よ。今まで火の手のなかったところに
めらめらと焔が立つではないか。

一あおぎ、また一あおぎ、その度に焔が大地をなめる。
見る見る山は真赤な烙に包まれ、
松も柏も燈龍のように燃えかがやく。
「あッ、いけねえ」
と悟空は叫んだが、もう間に合わない。
何しろもとを言えば、毛が化けた分身どもだから、
化け物の目は誤魔化すことが出来ても火はだませない。
忽ちの中に百数十人の孫行者は消えてなくなり、
うまく悟空の脇の下へ戻ったものもあれば、
半分焦げたのもある。
いや、おかげで脇の下が台湾禿げの
なりそこないのようになって見っともないこと。
しかし、そんなことを気にしている余裕はない。
やっと火中から逃げ出すと、
悟空は金角をその場に残したまま蓮花洞へ急いだ。

洞門の外には小妖怪どもが立ちふさがっている。
悟空は気が立っているから、
戦闘能力のある者も負傷兵も区別しちゃいない。
可哀そうに、無茶苦茶に如意棒をふりまわし、
そこいらじゅうの者を一人残らず打ち倒すと、
すぐにも洞門を入ろうとした。

ところが、洞門に一歩踏みこんだ途端に、
悟空はギョッとして立ちどまった。
「いけねえ、中も燃えているぞ」

が、仔細に見ると、それは火ではなくて、
一条の光である。おそるおそる光の方へ進んで行くと、
何とそれは妖魔がおいて行った玉浄瓶だった。
「やあ、ここにあったか。
 こいつが放射能物質で出来た代物だとは、
 今の今まで気がつかなかったな」

一度手に入れながら、
悪魔にとりかえされた宝物がまた手に入ったのだから
悟空は嬉しくてたまらない。
ここへ入ってくる時は師匠を救う一心だった筈なのに、
玉浄瓶を手に入れると、悟空は何を思ったか、
また洞門の外へ駈け出した。

門を出ると、ちょうど、
そこへ金角が駐け戻ってくるのとパッタリ顔をあわせた。
「逃げるな」

金角は素早く芭蕉扇を握りしめたが、
それを見ると悟空は物も言わずに斗雲にとびのった。
金角の七星剣はたしかに手応えがあったように思うが、
悟空の姿はどこにも見当らない。

2000-12-07-THU

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