毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第七章 謀略合戦

二 悟空ギツネ

鬱蒼と茂った森の中を小さな道がついていた。
そこを入ると、石の門があって、扉が半開きになっている。
「ご免下さい」

悟空はいきなり中へ入らないで、そとから声をかけた。
間もなく奥から女の小妖怪がそっと顔を出した。
「どちらさま?」
「平頂山の蓮花洞から参りました」

悟空が答えると、
「あら、よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ、どうぞ」

よっぽど男に飢えているのか、
それとも蓮花洞の使者たちは
ここではいつもそういう具合に扱われているのか、
女は悟空の手を握らんばかりにして中へひっばり込んだ。
「今日はどういうご用事なんですの?」
「お前には言えないよ」
「あら、意地悪。
 私に言ってくれなかったらお取次ぎしないわよ」
「そんなことを言ったって、大王は大奥様にあって
 じかにお話をしろとおっしゃったんですから」
「じゃいいわ。その代り税金をおさめてからお入りなさい」

そう言って女は両手を出して抱かれるような恰好をした。
「おや、大奥様に会うのにお取次ぎ料がいるのかね?」

びっくりして悟空は言った。
すると女は、
「まあ、何て無粋な人なんでしょう。
 あなた、それでも男なの?
 一体、いつから蓮花洞につとめるようになったの?」

仕方がないので、悟空は女の身体にふれた。
女は顔を心持ちよこに向けている。
そこへキスをしなければ恰好がつかなかった。
「こりゃ間違った奴が使者にきてしまったものだ。
 猪八戒だったら、喜んだだろうになあ」
「え? 何ですって?」
「いや、今のはひとり言だ」
「あなた、何とかおっしゃったじゃないの?」
「せっかく、君のような美人にあったのに、
 今夜泊って行けないのが残念だと言ったんだよ」
「あら、あんなお上手を言って」
「俺はお上手も苦手なら美人にあうのも苦手だ。
 何しろ生憎と鏡というもののある世界に生れて、
 自分の顔がどういう出来かくらいは知っているのでね」
「苦味走ったいい顔じゃないの」

言われて悟空は白い歯を出した。
「顔がいいとほめられたのは生れてはじめてだ」
「そうかしら。
 私はおかしな顔にイットを感ずるくせがあるの」

笑ったはずの悟空の顔がそのままこわばった。
「さあ、私の頬にキスをしてちょうだい。ねえ、あなた」

まことにやむを得ざるものありといった風情で、
悟空は女の身体から顔をそむけた。
そして、女に気づかれないように
片隅にペッと唾を吐き出した。
「こちらの方へいらっしゃい」

女は何食わぬ顔に戻ると先に立って悟空を案内した。
中庭をすぎると、もう一つ門があって、
そこを入ると、一人のお婆さんが坐っている。
「ああ」
と思わず悟空は嘆きの声をあげた。
見ると、扉のところに立った彼の眼から
涙が流れおちている。
どうしたのだろう。
五行山の石牢に五百年幽閉されても、
煮えたぎる油鍋の中へ入れられても、
かつて涙というものを見せたことのない
悟空ではなかったのか。

悟空は悪態をつきもし、残酷な振舞いもするが、
またそれだけに心のどこかに生一本なものを持っていた。
かつて天下を振ったことのある男が自分より体験も浅く、
何とかの一つ覚えのように正義と慈悲ばかり唱えている
三蔵法師に心服しているのも、
実はそうした生一本さのせいであった。
しかし、その半面、
悟空ほど恐ろしく気位の高い男もいない。
考えてもごらん。
菩提祖師や観音菩薩や三蔵法師のように
自分の尊敬する者の前に膝を屈したことはあるが、
この悟空め、これでも化け物の前に跪拝したことは、
かつて一度もないのだ。
だが、今日はそうは行かない。
金角銀角の子分に化けたばかりに、今日という今日は、
心ならずも化け物の前に三拝九拝しなければならないのだ。
それが無念で、つまり無念の涙を悟空は知っており、
それが彼の瞼を濡らしたのである。
「大奥様」
と悟空は化け物の前に両膝を揃えて
おでこを地にこすりつけた。
「蓮花洞の両大王が
 大奥様に唐僧のご馳走を致したいとのことで、
 私どもがお迎えに参りました」
「おや、まあ、何という親奉行息子だろうね」
と老女の化け物は、
皺だらけの顔を一層皺だらけにして喜んだ。
「大王様のおっしゃるには、
 その時ついでに幌金縄をご持参願って、
 孫行者という唐僧の弟子を
 つかまえていただきたいとのことでございます」
「ああ、いいともいいとも。
 早速、これから出かけることにしよう」

食いしん坊には遺伝があると見えて、
よぼよぼの婆さんでも、ご馳走ときくと、
とるものもとりあえず、轎の用意を命じた。
「へえ、化け物でも轎にのるとはね」

悟空が感心しているところへ
青い幌のついた籐製の轎がかつぎ込まれてきた。
婆さんが轎に乗り込むと、
続いて何人かの腰元が化粧道具をかかえて現われた。
「お前たち、何をしに来たの?」
と婆さんば言った。
「息子の家へ行くのにお供なんか要らないよ。
 ここへ残って留守番をしていてちょうだい」

それから悟空の方へ何きなおって、
「お前たち二人が先頭に立って道案内をしておくれ」
「やれやれ」
と悟空はひそかに舌打ちをした。
「お使いにくれば、お駄賃の一つもくれそうなものだが、
 ここのお化けと来たら、えらいけちん坊だな。
 キスなんて、
 使っても減らないサービスでごまかすとは!」

言われた通り悟空はさきに立って歩き出した。
五、六里ほども行くと、
轎は石崖のあるところへさしかかった。
「少し疲れたから、この辺で一服しましょうや」

悟空がいうと、轎夫は担いでいた轎を地べたへおろした。
悟空は早速、
毛を一本抜いて大きな焼餅を目の前に吹き出した。
それを口にくわえて歩き出すと、
「旦那、旦那」
と轎夫があとから追いかけてきた。
「旦那、うまそうに何を食べているんですか?」
「シーッ」
とあわてて悟空は制しながら、
「そんな大きな声を出すなよ。
 実は遠路をお使いに来たのだから、
 酒の一杯にもありつけるのかと思ったら、
 何一つありゃしない。
 あんまり腹が減ったから、
 自前のものを食べているところさ」
「私たちにもご馳走してくれませんか?」
「ああ、いいとも。
 婆さんに見つからないように、
 こっちの方へ来て食べよう」

物蔭へおびきよせると、悟空は如意棒を素早く抜き出して、
一束総からげに殴り殺してしまった。
悲鳴に驚いて、婆さんが轎の窓から顔を出すと、
そこへとんで戻った悟空が
えいッと鉄棒を打ちおろしたからたまらない。
「ギャッ」
と声を立ててその場に倒れたのを見ると、
一匹の九尾狐ではないか。
「アッハハハ……」
と悟空は声も高らかに笑いながら、
「何が大奥様だ。
 手前が大奥様なら、俺はさしずめご先祖様だぞ」

悟空は九尾狐の身につけていた幌金縄をはぎとると、
「さあ、これで五種の神器の中、
 三種まで俺の手に入ったぞ」

それからまた二本の毛を抜いて、
一本は巴山虎、一本は倚海竜に化けさせ、更に二本抜いて、
二人の轎夫に化けさせると、自分は大奥様になりすまして、
デンと轎の上の人となったのである。

2000-12-04-MON

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