毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第四章 やっばり悟空

一 困った時の猿頼み

人の姿は見えないのに声ばかりがきこえてくる。
神の啓示というものは大抵こんなものらしいが、
何しろ猪八戒は坊主のくせに信心が厚くないから、
あわてて逃げ出そうとした。

その袖を白馬がくわえて放そうとしない。
「おい、こら」

力任せにふりきろうとすると、
白馬はようやく八戒の袖を放して、
「なあ、兄貴!」
と叫んだ。
「おどかしちゃいけねえ」
と八戒は胆をつぶさんばかりに驚きながら、
「お前、いつから人間みたいな口をきくようになったんだ?
 ああ。メンドリがときの声をあげたり、
 女が代議士になったりして、
 そして、馬耳東風とむかしから相場がきまったものを、
 お前がロをきくようになっちゃこの世も未だ」
「いかにもその通りだよ」
と白馬は言った。
「お師匠さまがひどい災難にあっているのをご存じかね?」
「いや、知らない」
「知らないではすまされませんよ。
 あんたが国王の前で大きな口をきくものだから、
 とうとう妖魔が御殿まで押しかけて来て、
 お師匠さまをとらえてどこかへ行ってしまった。
 俺は何とかして妖魔をやっつけてやろうと思って、
 女にまで化けて妖魔に近づいて行ったのに、
 結果はこの通りなんだ」

白馬が委細をかいつまんで話すと、
八戒はまだ信じられないらしく、
「そいつは本当かね?」
「俺が嘘をつくと思っているのか?」
「もし本当にそうだとしたら、大へんなことだ。
 お前、その身体で動けるかい?」
「動けたらどうだというんだ?」
「動けりや妖魔の来ないうちに
 さっさともとの海へ逃げて帰るんだ。
 俺も荷物をまとめて高老荘へ戻って
 昔通り婿養子をつとめることにするよ」
「そんな無情なことってあるものですか」

どうして小竜がこのまま猪八戒を放そうぞ。
八戒の前に立ちふさがると、
眼に涙さえ浮べてしきりに懇願する。
「そんなことを言ったって、
 沙悟浄は生捕りになってしまったし、
 俺ひとりではどうしようもないじゃないか。
 会うは別れのはじめとか。
 駄目な時はいさぎよく解散して、
 また出なおすのが男の生きる道だぜ」
「しかし、折角、苦心惨澹してここまでやって来たのに、
 こんなところで解散するのは
 いかにも残念じゃありませんか。
 もしあんたひとりで
 お師匠さまを助けることが出来なかったら、
 助けを求めに行くという手もあります」
「助けを求めに行くって、誰の助けを求めに行くんだ?」
「孫悟空がいるじゃありませんか」
と小竜の白馬は言った。
「悟空の兄貴なら腕っぷしも強いし、
 こんな急場をきりぬける術を持っています。
 お師匠さまを救い出すためにも、
 我々の仇を討つためにも、早く花果山へ行って、
 悟空をひっばってきて下さい」
「待て待て」
と八戒はあわてて手をふった。
「お前も知っている通り、
 あの猿と俺とはあんまりいい仲じゃない。
 自虎嶺の例の白骨事件で
 彼奴は俺のことを恨んでいるに違いないから、
 たとえ俺が迎えに行っても、
 役奴はウンとはいうまい。
 万一口がすべって喧嘩にでもなって見ろ。
 彼奴のあの如意棒を食った日には、
 俺はいくつ生命があってもたりないよ」
「そんなことになりつこないですよ」
と白馬は答えた。
「口では強気のことを言っても、
 悟空はあれでいて根は義快心のある男だ。
 少し智恵を働かせて、
 会った時いきなり
 お師匠さまが困っているなどと言わないで、
 お師匠さまはしょつちゅうあなたのことを思っていると
 言ってごらん。
 きっとホロリとしてすぐとんで来ますよ。
 うまくここへ連れ出して来さえすれば、
 この状態を見て
 黙って逃げ出すような男じゃありませんや」
「そう言えばそうかも知れんな」

気は一向にすすまないのだが、ほかにいい考えもないので、
「まあ、いいや。せっかく、お前がそう言うんだから、
 行くだけ行って見よう。
 しかし、彼奴が一緒に来るというならともかく、
 奴がどうしても嫌だというなら、俺も帰っちゃ来ないぜ」
「いいから早く行って下さい。
 腕は強いが情にゃ脆い男なんですから、
 その点をよくのみこんでうまくやって下さいよ」
「よし来た」

ズルいこともズルいが、
なかなか無邪気なところもある猪八戒は早速、
雲に乗ると、東へ東へと舵をとった。

ちょうど、風が西から東へと吹いているので、
二つの耳を立てるとまるで帆に風を受けたように、
忽ち東洋大毎を越え、
太陽の昇る頃には花果山の麓へと辿りついていた。

雲をおりて山道を分けて行くと、
どこやらから人々の歓呼の声がきこえてくる。
よくよく見ると、
山のくぼみにある広場で大勢の猿どもが
孫悟空をとりかこんで、
口々に万歳万歳とくりかえしているところであった。
「ウーム」
とその盛況を目のあたり見せつけられた八戒は、
思わず唸り声を立ててしまった。
「なるほどこれだけ国民に人気があれば、
 坊主なんか廃業したくなる筈だ。
 これだけ素晴しい環境と莫大な財産と
 多くの手下がおれば、俺だって妨主はご免だな。
 さてさて、とうとうこんなところへ来てしまったが、
 何と言って彼奴を口説いたものだろうか?」

威勢のいいところを見せつけられたので、
八戒は些か気遅れがしている。
何しろ三蔵法師にとり入って
悟空を追い出すのに一役買っているだけに、
おいそれと気安く近づいて行くことも出来ないのだ。
仕方がないので、大勢の猿どもの中にまぎれ込んで、
一緒になって土下座をしていると、
「やあ、あそこに怪しげな奴がいるぞ」
と高いところから孫悟空の美猴王が叫んだ。
「あいつをつかまえて参れ」

すぐまわりの者が、
寄ってたかって八戒を猿王の前までひき立ててきた。
「お前はどこの国のスパイだ? どこからやって来た?」
「スパイでも怪しげな者でもございません。
 むかしの仲間です」
「出鱈目なことをいうな」
と悟空は怒鳴りつけた。
「俺の部下は皆この通りの顔形だが、
 お前はだいいち顔付きからして違っている。
 もし亡命者か投降者なら、
 その手続きをしてから出なおしてこい。
 それまでは、みだりに俺の顔を拝ませるわけには行かん」
「やれやれ」
と顔を伏せたまま自分の長い口を引張った。
「俺のこのレッテルを見せても、
 まだ見覚えがないというのか。
 何年間も一緒に同じ釜の飯を食って来たというのに」
「ハハハ……。演をあげて見せろ」

悟空が笑いながら声をかけると、八戒は口をつき出して、
「さあ、よおくご覧じろ。
 この口を見ても、これでもまだ俺を知らんというのか」
「アッハハハ……」
と悟空は笑い声を立てて、
「猪八戒じゃないか」
「そうだ。そうだ。いかにも猪八戒だ」

急いで八戒は地べたから這いおきた。
「お前は三蔵法師のお供をしている筈じゃないか。
 何だってこんなところへやって来た?」
と悟空は言った。
「さてはお前も三蔵法師から追い出されたんだな」
「俺は追い出されたりしない」
「じゃ何だって今時、俺のところへやって来たんだ?」
「お師匠さまが兄貴のことが忘れられないので、
 俺を使いによこしたんだ」
「何を今頃になってトボけるな。
 もう二度と俺の顔は見たくないと天に誓って
 破門状を書いた男じゃないか」
「いや、本当だよ。
 お師匠さまはいつも兄貴のことを口にしているよ」
「大方、俺の悪口でも言っているんだろう?」
「いや、そうじゃないんだ。
 お師匠さまは馬に乗っている時など、
 しょっちゅう、悟空や、と言って俺たちに呼びかける。
 俺も沙悟浄もきいてきかんふりをしているが、
 するとお師匠さまは兄貴のいないことに気づいて、
 今度は俺たちはなっちゃいないと言って
 あたり散らすんだ。
 悟空はやっばり気のきいた男で、一をきいて十を知る、
 まるで聖徳太子のような男だった、
 聖徳太子のようにどこの世界へ行っても通用した、
 やっばり聖徳太子がいないと旅も容易じゃないと言って、
 俺に迎えに行って来いと言われたんだ」
「俺を一万円札と間違えてやがる!」
「一万円札に間違えられて光栄じゃないか。
 俺なんか一円アルミ貨みたいに道端におちていても
 誰も拾おうとしやがらん。
 デノミネーションが実現しても、
 兄貴はまだ百円札として通用するが、
 俺のような一円アルミは
 子供のおもちゃにもならんのだからな」

それをきくと、悟空は崖の上からとぴおりて来て、
八戒をたすけおこした。
「お前は案外正直な男だ。
 せっかく、遠路を来てくれたんだから、
 俺のところで二、三日ゆっくりしてから帰れよ」
「でも、お師匠さまが首を長くして待っています。
 ゆっくりしているひまはないんだ」
「まあ、そういうな。
 せっかく、俺のところまで来てくれたんだから、
 俺んところの景色でも見て行ってくれ」

内心気が気でないのだが、
はじめに本当の話を打ち明けなかった手前、
八戒は断る口実が見つからない。

悟空は八戒の手をとるようにして、
花果山の頂上へ連れて行った。
ここから見た下界の眺望は素晴らしい。
悟空が国王の座に返り咲いて以来、
復興に力を注いだので、
森も川もむかしに劣らないくらい自然の姿に復していた。

八戒はただただ感心するばかりで、
「本当に素晴しいところだ。
 天下第一の名に恥じない絶景だ」
「まあ、悪くないところだろう?」
「悪くないどころか、さながら仙境じゃないか。
 兄貴が西方に行くのをやめた理由が俺にもわかったよ。 
 アッハハハハ……」

二人が談笑しながら、山をおりてくると、
路傍には葡萄や棗や枇杷などの果物を捧げた
小猿どもが立っていた。
「朝御飯の用意が出来てございます」

それを見た悟空は笑いながら、
「こんなものじゃとても間に合わないよ。
 この人は名にし負う大食漢なんだから」

さげさせようとするのを見ると、八戒はあわてて言った。
「俺は大食漢だが、
 郷に入らば郷に従うくらいのことは知っているぜ。
 やあ、うまそうな果物だな。
 見てくれ、この葡萄のしたたるような色を」

二人が果物ばかりの朝食を食べているうちに、
陽は次第に高くなってきた。
八戒はまた心配になって来て、悟空を催促したが、
悟空は素知らぬ顔をして、
「さあ、今度は俺の水簾洞を見てもらおう」
「いや、お志は有難いが、
 ぐずぐずしているわけには行かないんだ」

八戒がきっばりと断ると、
「そうか。それじやこれ以上はひきとめん。じゃ元気でな」
「おや、兄貫は一緒に行ってくれないのか?」
「俺がどこへ行くんだ?」
と悟空は反問した。
「天にも容れられず地にも顧みられず、
 誰からも見放された男だ。
 その代り俺は自由自在、誰からもしばられたりしないぞ。
 俺は行かないからお前ひとりで行け。
 行ってあの唐の坊主に
 もう俺のことを考えるなと言ってくれ」

容易には妥協しそうにない剣幕だったので、
八戒はそれ以上強いことも言えず、
やむを得ずすごすごと悟空に別れを告げた。

八戒が立ち去るのを見ると、
悟空は二匹の小猿にあとをつけさせた。
そんなこととは知らない八戒は山をおりる道々、
うしろをふりかえりながら、
「バカ猿め!
 せっかく人が花道を作って通してやろうというのに、
 人の顔をつぷしやがって。
 あんな奴が斉天大聖とは、きいてあきれるわい。
 たかがサルの成り上りじゃないか」

ペッと地べたに唾を吐きかけては二、三歩あるき、
それでもまだ腹の虫がおさまらないと見えて、
またうしろなふりかえって毒づいている。
急いで走り戻った小猿がその通り報告すると、
孫悟空は怒るまいことか。
「すぐ行って捉まえて来い」
と目をつりあげて怒鳴った。

猿の軍勢は急遽、あとを追跡し、
八戒をその場にひき倒すと悲鳴をあげるのもかまわずに、
悟空のところへひき戻してきた。

2000-11-23-THU

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