毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第三章 八戒の幹事長ぶり

四 孤掌難鳴

生れながらに花よ蝶よと大事に育てられた暗君に、
どうして本物と贋物の区別がつこう。
「お前はそういうが、この方がどうして私の娘をさらった
 老虎だということがわかるか?」
「それはわかりますとも。
 私は山の中で虎の肉を食べ、虎の衣を着、
 虎と起居を共にしてきたのです」
「それならば、虎の本相を現わさせることが出来るか?」
「わけのないことです。
 恐れ入りますが、
 盥がきれいな水を半杯ほどいただけませんか」

国王が家来に水を持って来させると、
美青年は盥を片手に三蔵法師のそばへ近づき、
呪文を唱えながら、ロに含んだ水をブーッと吹きかけた。
と見よ。
三蔵法師の姿は一瞬にして消え去り、
そこには猛虎が一匹立っているではないか。

猛虎が「ウォッ」と一声吼えると、
国王をはじめ居並ぶものは生命からがら逃げ出した。
幸いにして武将どもが素早く網を投げて
猛虎をとりおさえたからいいようなものを、
でなかったら、忽ち不祥事が起っただろうし、
虎にされた三蔵も袋叩きにあったことだろう。
可哀そうに、三蔵法師は金しばりにされて
宮廷地下の留置場に投げ込まれてしまったのである。

国王は早速、城下の光禄寺で盛大な祝宴を張り、
女婿の功労を謝した。
夜になると、美青年は更に銀安殿に連れて行かれたが、
そこには特に選出された十八人の美女が待ちもうけていた。
美青年の妖魔は美女の間にどっかと腰をおろし、
すすめられるままに次から次へと杯を重ねたが、
夜も深くなると、突如、本性を現わして、
傍らで琵琶をひいていた女をつかまえて、
いきなりパクリとやったのである。
「あッ」
と色を失った他の官女たちは
忽ち蜘蛛の子のように四散したが、
深夜の奥深きところの出来事である。
呼べどいらえなく、騒げど救い手は現われない。

三蔵法師は虎に姿を変えられているし、
沙悟浄は波月洞につながれているし、
猪八戒は小便をしに行くと言って逃げ出したまま
藪の中に頭を埋めてねこんでいる。
読者さえも、何、その中に誰かが助けに行くだろう
と安心しきっているから、宝象国広しといえども、
三蔵一行のために気をもむ人はただ一人もいないのである。

いや、ただ一匹、
駅舎で一行の帰りを今か今かと待っていた
白馬が残っている。
ところが夜になっても誰一人帰って来ないばかりか、
「唐僧は実は虎の精だったそうだ」
というデマが乱れとんでふと白馬の耳へ入った。
「こりゃ大へんだ。ぐずぐずしていたら、
 俺は竜馬からただの荷車をひく駄馬に
 なりさがってしまいかねないぞ」

時は午後十時。
背に腹はかえられないぞとばかりに
白馬は山声高くいななくと、縄を抜けて竜と化し、
雲の上へとあがって行った。

中空から見渡すと、
銀安殿は昼のように煌々と明りが輝いている。
見ると、妖魔がただ一人、
官女たちの逃げ去ったあとで徳利を傾けていた。
「この野郎いい気なもんだな。
 よしよし。誰もつかまえないのなら、
 俺が腕前のほどを見せてやろう」

小竜王は揺身一変、
乙姫様と見まがうばかりの美女に化けると、
銀安殿の中へ入って行った。
「あら」

美青年が一人っきりでいるのを見ると、
さも驚いたように美女は声をあげた。
「みんな、どこへ行ってしまったのかしら」

声のする方へふりかえると、
美しい女だったので妖魔はにっこり笑いながら、
「みんなどこかへ行ってしまったよ。
 俺はどうも女にはもてないらしい」
「そんなことないわ。
 だってお昼からもうあなた様のお噂で
 もちっきりだったんですもの」
「きくと見るとでは話が違うらしいよ。
 でもいいところへ来てくれた。
 そばへ来てお酌をしてくれないか」
「ええ、でも変な真似をしちゃいやよ」

小竜王の美女は徳利を手にとると、
妖魔美青年の膝元近くへよって行った。
そして、徳利を傾けると、
杯が一ばいになるまで酒を注いだが、
一杯になってもまだ注ぐ手をやめない。
「おやおや」

こぼれ出ると思った酒が、
まるで個体のように杯の上にのっかっている。
「見事なものだな」
と妖魔は感嘆の声をあげた。
「もっと高くもなるわ」
「じゃもっと注いでくれ」

更に徳利を傾けると、
杯の中で酒は五重塔のように高くなった。
それを口もとへもって来て、ペロリとなめると、
「ああ。うまい。君も飲まないか」
「いいえ、私は駄目なの」
「じゃ唄は?」
「唄なら少しね。でもあんまり上手じゃないわ」
「唄ってきかせてくれんか?」

小竜王が小曲を一くだり唄い、
更に杯を満たすと、妖魔は言った。
「踊りは?」
「踊りも少しね。でも素手ではうまく踊れないわ」
「よし、それじゃ俺の刀をかしてやろう」

そう言って妖魔は腰にさげていた宝刀をほどいて、
美女の前にさし出した。
それを受けとると、
小竜王は上下左右と刀を巧みに動かしはじめたが、
舞うと見せてふりあげた刀を
いきなり妖魔の頭めがけて打ちおろした。
驚いて身をかわした妖魔は
銀安殿の鉄の燭台を素早く手にとるや、
つづいてふりおろしてきた刀をカチリと受けとめた。

二人はそれから殿外へとび出し、
共に本性を現わして中空をせましと死闘を続けたが、
如何せん、小竜王はもともと黄袍怪の敵ではない。
およそ八、九回も戦っているうちに
小竜王は支えきれなくなって、
さあッと握っていた大刀を投げつけると、
妖魔は素早くそれをうけとめ、もう一方の手にもっていた
燭台を小竜王めがけて投げかえした。

それが小竜王のうしろ脚にあたったからたまらない。
「アイタタタ……」
と叫びながら、あわてて河の中へもぐり込んでしまった。
妖魔はあたりをさがしまわったが、
どこにも見当らないので、また銀安殿へ戻って、
はじめから洒の飲みなおしである。

一方、水の中へもぐり込んだ小竜王は
しばらく息をひそめてこらえていたが、
どうやら敵の姿が見えなくなったので、
びっこの脚をひきずりひきずり、
また元の駅舎へと戻って行った。

さて、草叢の中に頭をつっこんで
グウスカグウスカやっていた猪八戒は、
やっと真夜中になってから目をさました。
あたりを見まわすと、
犬の遠吠えすらもきこえて来ない深山の中である。
「そうだ。沙悟浄を助けなくちゃならなかったな。
 しかし、一人でどうすることが出来よう。
 孤掌難鳴とはこのことだ」

八戒は今日の激しかった合戦を思い出すと、
急に一人でいるのが心もとなくなってきた。
「まあ、いいや。
 一まず城へ戻って
 お師匠さまに今日の出来事を報告しよう。
 あすこの国王から兵隊をかりて明日にでも、
 もう一度巻きかえしをやればいいじゃないか」

八戒はあわてて雲にのると、急いで城下へ戻って来た。
しかし、人の寝静まった宮中には
月の明りが光っているだけで、
どこにも三蔵法師の姿が見当らない。
仕方がないので駅舎へ戻って見ると、
白馬が厩の中でねむっていたが、
身体中大汗をかいているばかりでなく、
後脚のあたりに青々と打撲のあとが残っている。
「畜生め。
 今日一日、休ませてやったというのにこの態は何だ。
 ひょっとしたら、お師匠さまは強盗にあって、
 馬までやられたのかも知れんぞ」

その時、すぐそばで、
「兄貴」
と呼ぶ声がきこえた。
びっくりしてあたりを見まわしたが、
どこにも人の気配は見えない。
「おかしいぞ。
 俺はヒロポン常用者でもないのに幻覚がきこえるとは」
 その独り言がまだ終らないうちに、もう一度、
「兄貴」
と呼ばれて八戒は思わずとびあがった。

2000-11-22-WED

BACK
戻る