毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻
第七草 白日夢さめて

一 痩我慢の説

「私どもには水田が三百畝あまりございますわ」
と婦人はにこやかに笑いながら続けた。
「畑はその百倍もありますし、
 山も畑と同じくらい広うございますわ。
 黄牛水牛合わせると、優に千頭はございましょうし、
 騾馬や豚や羊はいちいち数えきれないほどでございます。
 牛や馬を放し飼いにする牧場は全部合わせると、
 六、七十カ所はございましょう。
 それにここ数年はご承知のように開闢以来の豊収続きで
、 倉という倉が穀物で一杯になっていますし、
 繊維製品の方はいくら操短をしても
 ちょっとやそっとの需要の延びでは、
 到底追いつけないほどたくさん出来るんでございますよ」
「まるで極楽のような話じゃありませんか?」
と八戒がたまりかねて嘆声をあげた。
「ほんとに、まあ、自分で申すのもおかしな話ですが」
と、婦人はすぐに八戒の方へ向きなおって言った。
「そんなところへあなた方四人がおいでになられたのすよ。
 物事は相談ですが、
 もしあなた方が坊主になるのをおやめになって
 人間らしくお暮しになるおつもりなら、
 何も西部くんだりまで
 出稼ぎに行くことはございませんわね」

上座に坐っていた三蔵法師は遠慮を知らない婦人の言葉に
ただただ目をパチクリさせている。
しかし、婦人はよほど結婚難に悩まされてきたと見えて、
三蔵の思惑など一向お構いなしに
猛烈な売込み合戦を展開しつづける。
「この通り、
 私はすっかりお婆さんになってしまいましたが、
 娘たちは人前に出しても恥しくないだけの
 顔立ちはしているようでございますよ。
 長女は真真といって今年二十歳、
 次女は愛愛といって十八歳、
 三女は憐燐といって十六歳になります。
 いずれも針仕事やお料理など女の身嗜みは
 一応心得ていますが、
 何しろ私どもには男の子がございませんでしたので、
 死んだ主人が四書五経のような
 男の学問まで教えましてね、
 詩の一つもひねるように仕立てたのでございますよ。
 ですから、こんな山の中に住んではおりますが、
 普通の山出しとは違って、あなた方と夫婦になっても、 
 そう釣合いがとれないということはないと思いますわ」

金がある上に美人だときかされて、
八戒は坐った椅子の下から尻をくすぐられているように、
じっとしておられなくなった。
「お師匠さま」
と彼は三蔵の袖にすがりつきながら、
「何だってお師匠さまは
 きいてきこえないふりをなさるんです。
 この奥さんのおっしゃることに、
 何とか一言ぐらいお答えになられたらどうです?」
「何をいうか、バ力もん!」
と三蔵は大声で怒鳴りつけた。
「我々出家が金や色に動かされてどうする!」
「フフフフ……」
と婦人は含み笑いをしながら、
「あなたはそうおっしゃるけれど、和尚さま。
 出家にどんないいところがございますの?」
「そうおっしゃる奥さんたちには、
 どんないいところが、あるのですか?」
と三蔵も負けずにききかえした。
「まあ、そうムキになることはございませんでしょう。
 私どもは俗人にすぎませんけれど、
 俗人には俗人の楽しみが
 たくさんあるものでございますよ。
 詩にも書かれているではございませんか。

   春はセビロも軽やかに
   夏はヌードの水遊び
   秋はギンザでちょっと酔い
   冬はアナタと四畳半
   季節季節の楽しみに
   浮世の嘆き脱ぎすてて
   アミダにお参りするように
   お百度踏んで乳房山」

「奥さん」
と三蔵は出来るだけ心をおちつけて言った。
「なるほど奥さんのおっしゃるように
 栄耀栄華の限りを尽したり
 一家団欒を楽しむのも悪くはないことです。
 でも出家にも出家に値するような
 楽しみがあるものですよ。
 あなたが詩で語るなら、私も詩でお答え致しましょう。

   決然トシテ家ヲ捨テル
   志キミ何ゾ知ランヤ
   行キトシテ行ケルトコロ
   自ラ生ケルシルシアリ
   ムシロ青キ天井ノモト、飄々トシテ
   我ガフルサトヲ探サン
   馬車馬ノ如ク働キツカレ
   而シテ女房ノ尻ノ下二敷カレンヨリハ」


それをきくと、
今まで愛想笑いを浮べていた婦人はグッと眉毛を逆立て、
「まあ、何て無礼な坊さんでしょう。
 私が誠心誠意でご相談しているのに、
 かえって私に悪言を浴びせかけるなんて!」
「いやいや、決して悪言ではございません」
と相手の剣幕におそれをなした三蔵は、
「ただ真実を語ったまでです」
「もっと悪いわ」
と婦人は一層声をはりあげて叫んだ。
「どういうきっかけで
 あなたが坊さんになったのか私は知らないけれど、
 あなたが一生坊主で暮すなら暮すで
 一向にかまいませんわ。
 だけど私があなたのお弟子さんの中から
 一人ぐらい婿養子を選ぷのまで邪魔するなんて
 ことはないじゃありませんか」
「悟空や」
と三蔵は傍らに坐った悟空をかえりみて言った。
「奥さんがそうおっしゃるんだから、
 お前がここに残ってあげたらどうだ?」
「そういう話なら八戒が適役ですよ。
 八戒にきいてみて下さい」

悟空がいうと、八戒はあわてて、
「何も私をひきあいに出すことはないじゃありませんか。
 私だって女色が身を滅ぼすもとだってことは
 知っていますよ」
「二人ともいやならば」
と三蔵は沙悟浄の方をふりかえって、
「それじゃ悟浄に残ってもらうことにしようか」
「いくら私がフンドシ担ぎのペーペーだといったって」
と沙悟浄は深刻な表情になって口籠った。
「末は大僧正か管長かを目指して入門したんです。
 それを途中から還俗しろとおっしゃるのは
 あんまり残酷ではございませんか。
 もしどうしてもとおっしゃるなら、
 私は自殺して死んでしまいます」

誰一人として応じないのを見ると、
婦人は物も言わずに屏風の奥へ駈け込み、
バタンと扉をしめてしまった。

さあ、おかげでせっかく、
お茶やご飯にありつこうと思ってやって来たのに、
お茶どころか水一杯だって出してくれる人がいない。
腹はへるし、女には逃げられるし、
八戒はイライラしたり、ムカムカしたり。
「お師匠さまは全く手腕のないお方だ。
 白は白、黒は黒とはっきりおっしゃらずに、
 気があるような、
 ないような様子をなさればよかったのです。
 そうしてご馳走になるだけなって、今夜はとにかく、
 布団の中で休ませてもらい、いやならいや、
 いいならいいと明日の朝になってから返事をすれば
 よろしいじゃありませんか?」

あんまり八戒が三蔵にくってかかるので、
ふだんおとなしい沙悟浄が見るに見かねて、
「兄貴。そんなに未練があるのなら、
 あんたがこの家の婿になればいいじやないか!」
「いやいや」
と八戒はあわてて手をふりながら、
「お前までが俺をバカにする。
 物事は長い目で見る必要があるんだぜ」
「長い目で見たらどっちだというんだい?」
と悟空が脇から口を出した。
「青キ天井ノモト飄々トシテ我ガフルサトヲ探スより、
 アミダにお参りするように
 乳房山にお百度踏む方がいいんじゃないか。
 もしそう思っているんだったら、遠慮することはないぜ。
 お師匠さまに頼んで親代りになってもらえよ。
 お前がこの家の婿殿になれば、
 まず一生食いっばぐれはないだろうし、
 我々も今夜とりあえず披露宴のご馳走に
 ありつけるというものだ」
「そんなことを言ったって、
 誰が俺に女房を捨てて坊主になれとすすめたんだ!
 女房を捨てろと言っておいて、
 今度は女房をもらえではひどすぎるよ」
「おやおや。
 兄貴には奥さんがおいでだったのですか?」
 と沙悟浄がきいた。
「それを知らなかったのか! ハハハ……」
と悟空は笑いながら、
「そう言えば八戒は
 失恋して頭をまるめたんじゃなかったな。
 無理矢理俺たちの仲間入りをさせられて
 坊主になりはしたけれど、野郎ばかりの生活で、
 おっかちゃんが恋しくなったんだろう。
 そうだ。そうだ。
 やっぱりお前はこの家で婿さんになるがいい。
 ただその前に俺の前に膝をついて、
 頭をさげなきゃ駄目だ。
 そうすれば、エヘン、許してつかわすぞ」
「出、出鱈目を言うな」
と八戒は大あわてにあわてながら、
「兄貴だって悟浄だって本心は同じくせに、
 この俺だけをさらしものにして笑っているじやないか。
 坊主は色情の餓鬼だ、といわれているのが何よりの証拠。
 正直者であるかないかの違いがあるだけなのに、
 痩我慢をしたり虚勢を張ったり、
 おかげで出来るものまで
 目茶苦茶にしてしまったじゃないか。
 もうこうなっちゃ致し方がない。
 我々はお茶や明りがなくても何とか一晩すごせるが、
 馬は明日もまた人を乗せて歩かなくちゃならん。
 この上、もう一晩飢えさせたら、
 それこそ皮を剥いでしまうよりほかなくなるだろう。
 どれ、俺がまぐさでもやって来ようか」

たづなを解くと、八戒は馬を連れていそいそと出て行った。
それを見ると、悟空は悟浄に、
「ちょっとお師匠さまのそばにいてくれ。
 どこに馬を放しに行くか、ひとつ見届けてくるから」
「悟空や」
と三蔵が言葉をかけた。
「あとについて行くのはいいが、
 もうあんまりからかったりしない方がいいよ」
「大丈夫ですよ」

悟空は正庁から出ると、揺身一変、
忽ち一匹の赤トンボに化けて、
スイスイと八戒のあとを追って行った。

2000-11-03-FRI

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