毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻
第六章 三蔵部屋の誕生

二 流沙河の妖怪

月日のたつのは早いもので、いつしか猛暑の夏もすぎて、
秋風のそぞろ身にしみる季節がやって来た。
西へ西へと駒をすすめていた一行は、
或る日、滔々と水の逆巻く音を耳にした。
「おお。何というスゴい流れだろう」

馬上にいた三蔵法師がまっ先に叫んだ。
「全く気違いじみた流れだ。これじゃとても船は渡せまい」

八戒までが一緒になって相槌を打つので、
悟空は黙って上空へとびあがり、遙か下界を見おろしたが、
さすがに内心驚きを禁じ得なかった。
「お師匠さま」
と首をふりふり悟空はおりてきた。
「この悟空なら腰をひとひねりするだけで
 こんな河ぐらいとび越えてしまいますが、
 お師匠さま、あなたでは到底渡ることは出来ませんよ」
「私の眼では向う岸が見えないが、
 どのぐらい河幅があるものだろうか?」
「ざっと八百里。まあ、当らずといえども遠からずですね」
「へえ」
とたまげた八戒が脇から口を出した。
「嘘八百というけれど、まさかその八百じゃあるまいな」
「兄弟よ。俺が嘘をいうものか」
と悟空はふりかえって、
「俺のこの両の眼は千里眼といって、
天気のいい日なら千里を見通すことが出来る。
さっき上空へあがって見渡したら、
河の上流や下流がどの辺まで続いているのか
見当もつかなかったが、
河の幅はきっかり八百里はあったよ」

それをきいた三蔵が深い溜息をつきながら、
たづなをかえすと、
河の岸辺に石碑が立っているのに気づいた。
三人が一せいに近づいて見ると、
篆字で「流沙河」と刻まれている。
その下に小さな字で、

   八百流沙界 (りゅうさのさかいははっぴゃく)
   三千弱水深 (そのふかさはさんぜんじゃく)
   鵝毛飄不起 (がちょうのけもうかぶあたわず)
   蘆花定底沈 (あしのはなもしずむよりほかなし)

と書かれている。

三人がその前に立って眺めていると、
突然、波が山のように盛りあがって、
河の中から一人の妖精がとび出して来た。
見ると、髪の毛は燃えるように赤く、
両の眼は燈火のように煌々と輝いている。
首には九つの髑髏を数珠のようにぶらさげている。
「うおっ」
と叫んだその声は雷とも太鼓ともつかぬ
ものすごい響きであった。

その声をきいた途端に悟空は三蔵の身体を抱えたまま
陸の上に駈けあがった。
もう少し遅れていたら、
三蔵は化け物にさらわれていたに違いない。
「やい、待て」
と八戒は荷物をおろすと、
熊手を持って化け物の前に立ち塞がった。
化け物も宝杖を握りしめると、素早く身構えた。

ところは流沙河のほとり。
取組に現われたるは片や天蓬元帥、
片や捲簾大将、手に手に熊手と宝杖を握りしめ、
観客は手に手に汗を握りしめ、
赤勝て白勝てとやんやの大声援。
行きつ戻りつ死闘を続けること凡そ二十数回。
水が入って、また水入りの大勝負。

いつまでたっても勝敗がつきそうにないので、
見るに見かねた孫悟空は、
「お師匠さま。ちょっと助太刀をしてきますから」
と三蔵に耳打ちすると、クルリと如意棒を一回転させて
化け物目がけて襲いかかって行った。

一人でさえもてあましがちだったところへ
もう一人あらわれたので、
かなわないと見た化け物はくびすをかえすと、
あわてて流沙河の中へもぐり込んでしまった。

地団駄ふんで悔しがったのはほかならぬ八戒である。
「兄貴。誰が助太刀をしてくれと頼んだ?
 あいつは精根尽きはてて、
 もう少しで俺の軍門にくだるところだったのだ。
 兄貴が要らんおせっかいをするから
 取り逃がしてしまったではないか」
「まあまあ、そう怒るなよ」
と悟空は笑いながら、
「実のところ、黄風嶺以来、
 何カ月も鉄棒を握らなかっただろう。
 それで腕が鳴って仕方がなかったんだ。
 君たちが楽しそうに戦争をしているのを見たら、
 ムズムズしてどうしても我慢がならなく
 なってしまったよ」
「いやあ、全くだね。その気持──俺にもわかるよ。
 アッハハハ……」

二人は腹を抱えて笑いながら、三蔵のところへ戻ってきた。
「勝負はどうだった」
と三蔵がきいた。
「水の中へもぐり込んでしまいましたよ」

悟空が答えると、三蔵は腕組みをして考え込んでしまった。
「あの化け物は久しくこの河に住んでいるから、
 きっと河の浅い深いはよく知っているに違いない。
 あの化け物と敵になるよりも、
 味方になって水先案内をしてもらう方がいいんだがな」
「おっしやる通りです」
と悟空はすぐに答えた。
「俗に朱にまじわれば赤くなる、
 墨に近づけは黒くなると申します。
 あの化け物は水のことはよく知っているに
 違いありません。
 ですから、奴を捕えても殺さないで
 水先案内をさせることに致しましょう」
「そうだ。そうだ。それがいい」
と八戒が言った。
「今度は先陣を兄貴へ譲るよ。さあ、お先にどうぞ」
「兄弟。お前は頭がいいぞ」
と悟空は笑いながら、
「勿論、俺の方が先陣を承りたいと言いたいところだが、
 正直のところ水の中の交戦はあまり自信がないんだ。
 何しろ避水呪をロでとなえているか、
 でなければ魚か海老に化けるよりほかないんでね」
「兄貴にしちゃ珍しく弱気じゃないか」
「陸戦か空中戦なら、胸をポンと叩いて、
 よしひきうけた、と言いたいんだが、
 残念ながらお前のように
 腰の短剣にすがりつかれた経験はないんでね」
「むかしとった杵柄だ」
とおだてられて八戒は叫んだ。
「水の中のことなら少しはわかっているが、
 ただ水の中の有象無象が
 よってたかっておしよせてくると、
 こいつはちょっと厄介なことになるぜ」
「だからさ。あいつと水の中で勝負をつけないで、
 負けたようなふりをして陸へおびきよせるんだ」
「よしよし。その手で行こう」

八戒は服を脱ぎ、靴を捨て、三角パンツ一枚になると、
両手に熊手をにぎりしめ、寒さを物ともしないで、
水の中へとび込んで行った。

水の中へ逃げ込んで漸く一息ついた化け物が
水をかきわける音に気づいてふりかえると、
八戒ではないか。
「やい。坊主。どこへ行く?」

化け物が杖をとりなおすと、八戒も熊手を握りなおした。
「そういうお前はどこの化け物だ?
 何だって俺たちの通行の邪魔をする?」
「化け物とは何だ。
 俺は化け物でもなければ、名無しの権兵衛でもないぞ」
「じゃお前は有名人か。
 有名人なら薬屋の試用薬や投資信託の案内が
 山ほど来ている筈だ。
 そいつを出して見せろ。
 そうしたら生命ぐらいは助けてやるぞ」
「アッハハハ……」と化け物は豪傑笑いをした。
「俺は精神安定剤を必要とするような
 青白きインテリとはちとわけが違うぞ。
 ききたくばきかして進ぜよう。
 我こそは平民の出身、土百姓の生まれ。
 幼い頃から武名九州にきこえ、
 士官学校、陸大は首席の金時計。
 忽ち出世街道を驀進して、宮中は玉帝の侍従長。
 捲簾大将の名をほしいままにした一世の英雄。
 同じ大将でも戦争中粗製濫造された
 大将元帥とゴッチャにされてはこちらが迷惑。
 たまたま王母娘娘の蟠桃大会で手をすべらして
 玻璃の杯をとりおとしたのが転落の詩集のはじまり。
 今はこうして流沙のほとりで、腹ふくれれば河を枕に、
 飢えれば通行人をランチの餌に気ままな生活。
 今日、貴様が暴れ込んで来たのは貴様の運の尽き。
 さてさて、ベーコンが食いたいと思っていたところだ」
「何を。きいて見れば軍閥のなれのはてではないか。
 同じ軍閥のなれのはてでも、
 お前のように辻斬強盗になる奴があるから、
 いつまでたっても、自衛隊が国民からバカにされるんだ。
 さあ、俺がフランシス・ベーコンか、
 それともシェークスピアか、この腕に物見せてくれるぞ」

八戒が熊手をふりあげると、
化け物は素早く身体をかわした。
二人は水の中から戦いながら、水の上まで跳りあがった。
それぞれ浪を踏み、波をまたぎ、
水中の魚介は驚きあわてて影も形も見えない。

凡そ三、四時間も戦い続けたであろうか。
漸く八戒は戦い疲れた素振りを見せて、
岸の方へと後退しはじめた。
さっきから陸の上でヤキモキしていた悟空は
もうこれ以上はどうしても我慢出来なくなって、
鉄棒を握ると、一足跳びに河岸へ近づいて、
「えいッ」とばかりに打ちおろした。
が、それより一瞬早く化け物は
河の中へもぐりこんでしまったのである。
「何というセッカチ猿だ」
と八戒は怒鳴りつけた。
「俺がもっと高いところまで誘い出して、
 お前が河っぷちに立ち塞がれば、
 うまく生け捕り出来たのに、
 こうなっちゃもう絶対に出て来ないぞ」
「そう腹を立てるなよ、色男」
と悟空はなだめながら、
「とにかく師匠のところへ戻って、
 どうするか、また考えようじゃないか」

二人が陸の上へあがると、
「ご苦労だったな」
と三蔵は言葉をかけた。
「ご苦労はまだ早すぎますよ」
と八戒はなおもプリプリしながら、
「俺が折角、陸の上までおびき出したのに、
 兄貴の奴がまた逃がしてしまったのですよ」
「まあ、そう怒るなよ。もう日も暮れてきたから、
 今夜はこの崖の上で夜を明かすことにしよう。
 お前も腹がへっただろうから、
 俺がこれから一走りして托鉢をしてくるよ」
悟空はそう言って雲にとびのると、
忽ちのうちにご馳走を鉢に一杯もって戻ってきた。

2000-10-31-TUE

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