毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻 第二章 馬上吟

二 虫封じの輪

「そこにいるのは悟空じやないか?」

一歩踏み出そうとしているところを呼びとめられた
孫悟空が顔をあげると、
目の前に観音菩薩が立っている。
悟空が雲の間からあわてて挨拶をすると、
「お前は三蔵法師のお供をして西方へ行くときいていたが、
 何でこんなところをウロチョロしている?」
「あなたもお人の悪いお方だ。何もかもご存じのくせに」
と悟空も負けずに言った。
「あなたがおっしゃっていたその人がやって来て、
 私を牢獄から助け出してはくれましたが、あの坊さん、
 思いのほか尻の穴の小さい男で、
 私のことを無慈悲だと言うのです。
 癪にさわったから、
 ちょっとじらしてやっているところですよ」
「つまらない悪戯はよして、
 早くお師匠さんのところへ戻ってあげなさい」
「わかっていますよ。今、戻るところです」

ほどなく悟空が上空から眺めると、
三蔵法師は道端に腰をおろして、
何やら思いに沈んでいる様子である。
「お師匠さま」
と三蔵の前に下り立った悟空が言った。
「どうして旅を続けないで、
 こんなところにじっとしているのです?」

悟空の姿をみとめると、
三蔵はさっきとはうって変ったやさしい声になって、
「お前が戻ってくるのを待っていたのだよ。
 この嶮しい山道では行くに行けず、
 戻るに戻れないものね」
「それはすみませんでしたね。
 私は東洋大海の竜王さんのところへ、
 ちょっとお茶を一杯ご馳走になりに
 行っていたものですから」
「悟空や」
と三蔵はたしなめるような調子になって言った。
「出家というものは口から出任せの嘘を
 つくものじゃないよ。
 お前がさっき私のそばを離れてから
 まだ二時間と経っていないのに、
 どうしてそんな遠くまで行って来られるものか」
「お師匠さまは自分の弟子の実力を
 さっばり認めようとしないんですね」
と悟空は笑いながら、
「あなたのこの一番弟子は
 斗雲に乗ることが出来るのですよ。
 一とび十万八千里、
 お師匠さまのような厄介な荷物を背負っていなければ、
 天竺まででも、天界まででも、
 軽く一とびでとんで行くところです」
「そんなにいい腕を持っているとは知らなかったね」
と三蔵は微笑をかえした。
「道理でお前はいつも血色のよさそうな顔をしているのに、
 お前のお師匠さんはいつもすき腹をかかえたような
 不景気な表情をしているわけだよ」
「お師匠さまのおなかが空いているのでしたら、
 ちょっとお待ちになって下さい。
 どこかへ行って托鉢をしてきますから」
「いやいや、その必要はない。
 まだあの猟人がくれた乾糧が風呂敷の中に
 残っているはずだから。
 それよりどこかへ行って、
 水を少しばかりくんで来てくれないか」

悟空は早速、馬上から荷物をおろして風呂敷を解くと、
中から焼餅を二つ三つとり出して師匠の前においた。
その時、同じ風呂敷の中に包んであった袈裟と帽子が
彼の目についた。
「これは東土からお持ちになったものですか?」

悟空がきくと、三蔵は大きく頷いて、
「私が子供の頃に着ていたものだ。
 この帽子をかぷると、
 人に教わらないでも自然にお経が読めるようになるし、
 この袈裟を着ていると、人に習わなくとも、
 自然に礼節を覚えることが出来るんだよ」
「そんな重宝なものがあるとは知らなかった。
 ひとつこれを私に下さいませんか?」
「寸法が合うかどうかな?
 合えばほかならぬお前のことだから、
 もちろん、喜んであげるがね」

悟空が今まで着ていた白い肌着の上から、
この木綿の袈裟をつけると、
まるで寸法に合わせて仕立てさせたようにピタリである。
続いて帽子をかぷると、
頭はスポリと帽子の中へ入ってしまった。

それを見た三蔵法師は食事をする手をやめて、
口の中でひそかに緊箍児呪を唱え出した。
すると、悟空は忽ち、
「痛い、痛い、頭が痛い」
と言って騒ぎ出した。
そして、帽子を脱ぎとろうとして、
目茶苦茶にひっかきはじめた。
見る見る帽子の布はビリビリにひきさかれたが、
金の輪までもちぎりかねない勢いだったので、
三蔵はあわてて呪文を唱え続けた。
すると悟空はまた、
「痛い。頭がわれそうだ。畜生、畜生!」
と七転八倒しはじめた。
三蔵がびっくりして呪文をやめると、
悟空は何ごともなかったように立ちあがる。
帽子は既に脱けおちたが手で頭のまわりをさぐると、
金の輪らしいものが頭の中に食い込んでいる。
はずそぅとしてもはずれず、
まるで根が生えてしまったように
へばりついているのである。

悟空は指を耳の中に入れて、針をつまみ出した。
それを頭と輪の間に突っ込もうとしたり、
そとから輪を叩こうとするが、
三蔵がまた呪文を唱え出したので、
頭を抱えたままトンボ返しをうったり、
斗雲に逆さに乗ったり、大騒ぎをしている。

可哀そうに思って、三蔵が呪文をやめると、
悟空の頭痛はピタリととまった。
「俺のこの頭が痛むのは、さては、
 お師匠さんが呪文を唱えているせいだな」
と悟空が言った。
「私はお経を読んでいるだけだよ。
 何でお前を呪ったりするものか」
「じゃもう一度、そのお経を読んでみて下さい」
「何度でも、お前が望む時にはね」

三蔵が繰り返すと、悟空はすぐに頭をかかえて、
「やめてくれ、やめてくれ、こりゃ一体どうしたわけだ?」
「どうもこうもしやしないよ。
 お前のような悪者はいくら口で言いきかせても
 駄目だということがわかっただけのことだ」
と三蔵は答えた。
「どうだ、これからは私のいうことをきくか?」
「ききます。ききます」
「師匠に対して無礼な振舞いはもうやらないだろうね?」
「決して、決して」

ロではそう言ったもののユスリ、タカリで鳴らしてきた
天下の孫悟空がこんな程度のオドシに
黙ってひきさがるはずもない。
師匠に背をむけて、耳の中の如意棒をとり出すや、
クルリと一回転させて、
「えいッ」
とばかりに三蔵めがけて打ちおろしてきた。
驚いたのは三蔵である。
一瞬早く呪文を唱え出したので、
如意棒がおちてくるよりも早く
猿がその場にぷっ倒れたからよかったが、
でなかったらそれこそ敵ならぬ味方の腕の下で
早くもお陀仏になっていたに違いない。
「やめて下さい。やめて下さい」
と猿はその辺をのたうちまわりながら叫んだ。
「お師匠さま、後生ですから堪忍して下さい」
「いやいや、お前のように人をだまし討ちにするものは
 簡単に許すわけには行かない」
「私はお師匠さまをだまし討ちにしようとしたのでは
 ありません。
 誰があなたに私をこらしめる方法を教えたか、
 おききしたいと思ったのです」
「道を歩いていたら、
 一人のお婆さんがやって来て教えてくれたのだよ」

三蔵がそう言うと、
悟空は忽ち目をむき青筋を立てて怒り出した。
「言わずと知れたこと、
 その糞パパアはきっと観音菩薩に違いねえ。
 何の恨みがあってこの俺をこんな目に会わせるのか、
 ひとつ南海までお礼参りに行ってくれるぞ」
「そんなバカなことはよした方がいいね」
と三蔵は笑いながら、
「私にお前の悪心を封ずる方法を
 教えてくれたぐらいだから、
 菩薩がその手を知らないはずがないだろう。
 もしお前が尋ねて行って逆に菩薩に呪文を唱えられたら、
 お前の方がひどい目に会わされるだけのことではないか」

いくら猿でもそのくらいの理屈はわかると見えて、
悟空は急に黙ってしまった。
「お師匠さま」
しばらくすると彼の方から話しかけた。
「これからは私も心を入れ代えて、
 お師匠さまの護衛をしてまいりますが、
 この通り私は気の短い奴ですから、
 お師匠さまの方でもあまり
 私を挑発しないで下さいませんか?」
「よしよし、では出発するとしよう」

悟空は荷物を片付けて馬の背に載せると、
更に三蔵を扶けて馬の上に這いあがらせた。
馬のたづなを握った悟空は
馬上の三蔵法師をふりかえりながら、
「出家は嘘でたらめを言って人をだましてはいけないと
 おっしゃったのは、確かお師匠さまでしたね」
「そうだよ」
「弟子に対する場合はその限りにあらず、ですか?」
「何をいうんだね?」
「いや、ただ何となくきいてみたかっただけです。
 お師匠さまのような偉いお人でも
 時と場合によっては嘘をつくものだとわかって、
 本当のところ少しばかりホッとしましたよ。
 アッハハハハ……」

いかにも愉快そうに笑っている。

2000-10-15-SUN

BACK
戻る