毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第五章 宗教大攻勢

第五章 宗教大攻勢

二 沙悟浄

さて、観音菩薩は弟子の恵岸行者をお供に連れて、
早速、その日のうちに極楽浄土を出発した。
恵岸行者は手に重さ千斤の大鉄棍を握り、
菩薩のまわりをかげになったり、日向になったりして
つきそっている。

二人は如来のいいつけに従って、
霧や雲のかかった低空を東へ東へと進んだ。
人の気配だにない山また山には
虎狼狐狸の類いが棲んでいる。
けれども恵岸行者の威風堂々たる姿を見ると、
彼らは息を殺し、穴の中へひそんでしまった。

「この程度なら、道は遠いかも知れないが、
 大したことはあるまい」

菩産がそう言い終ったか終らないうちに、
突然、恵岸行者が叫んだ。

「お師匠さま。あすこをごらん下さい。
 ずいぶん大きな河ですね」

指さす方向を見ると、
ああ、何と縹渺たる流れであることよ。
いや、流れというよりは大海と言った方が
あたっているかも知れない。
東は大沙漢に連なり、西は諸蕃に至り、南は烏戈に達し、
北は韃靼に通じ、その長さ幾千万里幅八百里に及んでいる。
これがかの有名なる流沙河なのである。
洋々として浩々として、また漠々として茫々として、
その怒り狂った流れの音は十里のかなたにいてさえ
耳を塞がずにはおられない。

「ああ」
と菩薩は思わず長大息をした。
「いくら情熱の塊りのような男でも、
 この流れは到底渡れまい」

「もちろんだとも」
まるでそれに答えるかのように突然、
大きな声が河の中から響いて来た。
驚いて菩薩が河の中を覗くと、中から凶悪な形相をした
妖魔がとびあがってくるではないか。
青とも黒ともつかぬ顔色で眼光は煌々として亀の目の如く、
口は先の裂けた三叉槍の如く、歯は立ちならぶ刃の如く、
見るからに逆毛の立つような化物である。
化物は手に宝杖をつかみ、水の中からおどり出ると、
いきなり菩産めがけてとびかかってきた。

「待て!」
と恵岸行者が鉄棍を握ってその前に立ちふさがった。

二人は流沙河の畔を狭しとばかりに、
たちまち大合戦を開始した。
片一方は河の妖魔、片一方は天の使者、
ともに敵に譲ることを知らぬ豪の者である。
棍と杖を打ち合わせることおよそ数十回、
妖魔は相手の棍を防ぎながら、

「お前はどこの坊主だ」
と叫んだ。

「俺は李天王の第二王子木叉、またの名恵岸行者だ」

「恵岸行者?」
と妖魔はききかえした。
「恵岸行者と言えば、南海観音の弟子のあの恵岸行者か?」

「いかにも」

「それなら紫竹林の中で修行しているはず。
 何用あってこんなところへやって来た?」

「お師匠さまのお供をして、これから東土へ行くところだ。
 見ろ、あすこにいるのが俺の師匠だ」

それをきくと、妖魔はあわてて杖をひき、
観音の前に膝をついた。

「どうかお許し下さい、菩薩さま」
と妖魔は頭を地にこすりつけながら、
「私は決して妖怪変化ではございません。
 かつては霊零殿で御輿のそば近くつとめていた
 捲簾大将でございます。
 或る時、蟠桃大会の席上で、
 あやまって玻璃の杯をとりおとして壊してしまいました。
 そのため玉帝のご不興を買い、
 八百鞭打たれた上にこんな姿に変えられて
 下界へ追放されてしまったのです。
 それだけではありません。
 あれ以来、七日ごとにどこからともなく剣がとんで来て、
 私の胸といわず脇といわず無茶苦茶に突きさします。
 たった一つの杯をこわしただけで、
 私はこんな責苦を受けなけれはならないのでしょうか?」

「あの杯はきっとお前の飯の茶碗だったのだろう。
 それをお前が粗相に扱ったのがいけなかったのだね」
と菩薩は言った。

「ハイ、今になってそれがわかってまいりました」

「しかし、それがわかっていながら、
 旅人をとって食うのはどうしたわけだ? 
 罪を犯した上にさらに罪を重ねるようなものではないか」

「悪いと知っていても、
 飢えには勝てないからです。菩薩さま」
と、元捲簾大将は涙声になりながら、
「どうか私に飯を食べないでも腹のへらない方法を
 教えて下さい。
 そうしたら私は二度と人を食ったりは致しません」

「腹がへっても人をとって食わないでこそ
 本当の修行というものだ」
と菩薩は言いかえした。
「お前はまた天界へ戻りたいとは思わないのか?」

「もしそれが叶うなら、
 どんな苦しい目にあっても辛抱します。
 世間の人が苦しみに耐えきれないのは、
 苦しんでも苦しみ損に終ることを
 経験で知っているからです」

「信ずることが浅いからそう思うだけさ」
と菩薩は笑った。
「私はこれから東方へお経をとりに来る人を探しに行くが、
 もしお前が本当に自分の罪深さを悟っているなら、
 その人がやがてここへ来るはずだから、
 弟子にしてもらいなさい。
 そうすれば、再び天に戻る日が来るだろう。
 私が請合うよ」

「有難き仕合わせです」
と妖怪は喜びを顔に現わしながら、
「でももしお経をとりに行く人が来なかったら、
 どうなります? 
 これまで私の手にかかって死んだ人間の中には
 九人もそんな人がいました。
 ごらんのようにこの流沙河は
 鵞鳥の毛さえ沈んでしまうに、
 不思議なことにこの九つの骸骨だけは
 水に浮んだままです。
 きっと何か特別の理由があるのだろうと思って、
 縄でしばって保管してあります。
 菩薩さまは今にまたお経をとりに行く人が来ると
 申しますが、東土からここまで道も遠いことだし、
 人を食う妖怪変化が無数にいることでしょう。
 万が一にも途中で殺されてしまったら、
 私はどうすればよいのでしょうか?」

「私の言葉を信じなさい」
と菩薩はきびしい調子になった。
「もし私の言葉が信ぜられなくなったら、
 それらの髑髏を首にかけて見ることです。
 そうすれば、この世の中で苦しんでいるのは
 お前一人でないことがわかるだろう。
 苦しんでいるのは自分だけだと思うから、
 いつまでたっても苦しみから脱けきれないのだ」

「ハイ」と妖魔はおとなしく頭をさげた。

「ところでお前は何という名前だ?」
と菩薩はきいた。

「私には名前はございません。
 人は私のことを流沙河の孤独魔と呼んでいますが……」

「じゃ私がお前に名前をつけてやろう」

そう言って、菩薩は流沙河の沙をとって妖魔の姓とし、
さらに出家名として悟浄と呼ぶようにと申しわたした。
妖魔はすっかり喜び、菩薩を送って河を渡ると、

「どうか一日も早く孤独から私を救い出して下さい。
 たとえ悪魔でもいいから、私には仲間がほしいのです」

「よしよし、わかったよ」

軽くなだめながら、観音菩薩は流沙河をあとにした。

2000-09-24-SUN

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