毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第二章 実力狂時代

一 凱旋行

孫悟空は師匠から破門を宣告されたけれども、
もともとそんなことでへこたれるような
しおらしい男ではない。
考えて見れば天下を放浪すること十年、
それにつづく仙術修行の十年、
併せて二十年の歳月は決して無駄に流れ去った
歳月ではなかった。
今では七十二変化を身につけた天下無双の大業師である。
くよくよすることなんかないじゃないか。

師匠の前を辞して洞門を出ると、孫悟空は身を構えて、
えいッと一声。
忽ち斗雲にとびのった。
十年間見慣れた山々は一瞬にして視界から消え去り、
十年間かかって歩いてきた幾千万里の嶮しい道程は
まばたく間に過ぎて行く。
西洋大海、南贍部洲、東洋大海の上空を一挙に飛び越えて、
やがて眼下に現われてきたのは
花果山水簾洞のほとりである。

孫悟空は雲から下りると、
見覚えのある故洞への道を歩き出した。
すると、どうしたことだろう、
鎮まりかえった山の中から時々鶴の鳴き声にまじって、
いかにも悲しげな猿の啼き声がきこえてくる。
「お−い。帰って来たぞ」
と彼は声を張りあげて叫んだ。

声は山にこだまして、
「お−い。帰って来たぞ」
と響きわたる。

その声をきくと、
崖の下や樹の蔭から猿が一匹二匹と顔を出した。
「大王」
「大王」

ぞろぞろと猿どもは孫悟空のまわりに集まってきたが、
皆目をしょぼつかせているではないか。
「一体どうしたんだ」
と孫悟空はいった。
「お前たちの美猴王が帰って来たんだぞ。
だのになぜ喜んでくれないのか」
「どうしてそんなにお帰りが遅かったのですか。
ごらん下さい。
私たちのあの水簾洞はあの通り焼跡になってしまいました。
どれだけの同胞が殺され、
どれだけの同胞が捕虜になってしまったことでしょう……」

いうなり猿どもは顔に手をあてて泣き出した。
「なんだと」
と孫悟空はきッと眼をつりあげながら、
「泣いているだけじや何が何だかさっばりわからん。
はじめから詳しく話して見ろ」

いわれて猿どもは語り出した。
美猴王が旅に出てから十数年、
王の遺教を守って平和な日々がつづいたが、忘れもしない、
二年前のこと、
突然、混世魔王と称する妖怪がどこからともなく現われて、
猿の王国へ挑戦して来た。
猿軍は全力をあげて死闘を試みたが、大敗に大敗を重ね、
遂に洞を焼かれ、無数の捕虜を出し、
国全体が滅亡に瀕してしまったのである。
「こうして私どもは昼も夜も崖の下や樹の蔭にかくれ、
辛うじて露命をつないでいます。
もし大王のお帰りがもう一、二年遅れていたら、
生きて大王の顔を拝む機会もなかったでしょう」
「うむ」
と孫倍空は唇をかみしめた。
怒りのために握りしめていた拳がぷるぶるとふるえた。
「して、その妖怪とやらはどこに棲んでいる?
この仇はきっと討ってくれるぞ」
「それが一体どこからどうやって来るのか、
さっばりわからないのです。
北の方角らしいことだけは見当がついていますが、
来る時も去る時も雲がかかったり霧がかかったり、
でなければ雷鳴風雨で、追跡する術もありません」
「よしよし、心配するな。俺に任せろ」

悟空は猿どもの見ている前で
大きくトンボ返りを打ったかと思うと、
忽ち雲に跳びのった。
雲は物凄い速度で北へ北へと疾走して行く。

程なく眼前に嶮しい山の峰が見えて来た。
峰ほちょうど筆を逆さに立てたようで、
崖のまわりにほ高山植物の色鮮かな花々が咲き乱れている。
その素暗しい眺めに見惚れていると、
突然、下の方から話し声がきこえてきた。
孫悟空はすぐ雲からとび下りて声のする方へ歩いて行くと、
そこには水臓洞といぅ洞窟があって、
その前の広場で、ちょうど、
小さな妖怪が数人踊っているところであった。
妖怪どもは悟空の姿を見ると、早くも逃げ腰になった。
悟空は大音声を張りあげて、
「逃げるな。逃げるな。
花果山水簾洞のあるじが
お前らの親分にお礼を言いに来たといって来い」

小妖怪は洞門の中へ逃げ込むと、
「大へんだ。大へんだ」
「何じゃ」
と混世魔王が顔を出した。
「水簾洞のあるじがやって来て、
大王に出て来いといっています」
「ふむ」
と魔王は鼻先で笑った。
「あの洞窟のあるじは頭を丸めて
どこぞへ修行に出かけたときいていたが、
さてはもどって来たと見える。
してどんな武装をしていた?」
「手には何も持っていないょうです。
坊主頭に紅い衣裳、腰紐は黄色で、靴は黒。
坊主とも町人ともつかず、
といって、道士のようにも見えません」
「そうか。俺の鎧兜を持って参れ」

魔王は武装を整えると、
手下の者どもを従えて洞門を出て来た。
「水簾洞のあるじはどこにいる?」
「やい、悪魔!」
と孫悟空は声を張りあげた。
「でっかい目を持っている癖に俺様が見えねえのか?」
「なあんだ」
と魔王は眼尻に皺を寄せて、
「どんな奴かと思ったら、
身の丈四尺にもおよばない小僧ッ子じゃないか。
それで俺と勝負をつけようなんて、少し話が大きすぎるぞ」
「黙れ!」
と孫悟空は一喝した。
「お望みとあらば、いくらでも大きくなって見せてやるぞ。
俺がこの腕をふりあげれば、
お月さんの顔を撫でることもできるってことを
知らねえのか。さあ、この拳コツを食らえ」
「待った、待った」
と魔王は両手をあげて、悟空の前に立ち塞がった。
「お前が空手で、俺が刀じや、
たとえお前を一刀両断にしても世間の物笑いになる。
刀を置く間、ちょっと待っていろ!」
「なかなかシャレたお心掛けだ。さあ、来い」

刀を投げ捨てると、
魔王は悟空めがけて躍りかかって来た。
悟空は両方の拳を固めて一ぺんに突き出し、
同時に両方の脚で相手の脛を蹴りあげた。
拳の一方は小脇にあたり、一方は裲襠にあたり、
脚は脛に命中して、
魔王はどッとばかりにひっくりかえった。
ひっくりかえった途端に魔王は手をのばして刀を拾い、
いきなり悟空の頭めがけて斬りかかって来たが、
それより一瞬早く身をかわした悟空は、
身体から一握りの毛をひき抜くと、
ロに含んでプッと吹きながら、
「変れ」
と一声叫んだ。

すると見よ。一握りの毛は忽ち二、三百匹の小猿に変り、
魔王の周囲を十重二十重に包囲してしまった。

魔王はあわてふためいて無闇に大刀をふりまわしたが、
払いのけても払いのけても、
猿は次から次へと襲いかかってくる。
遂には裲襠にしがみついたり、脚をひっばったり、
尻を蹴りあげたり、眼をえぐったり、鼻をつまんだり、
寄ってたかって魔王をその場に押し倒してしまった。

孫悟空は猿どもを押しのけると、
奪いとった刀を魔王の頭の上から力任せに打ちおろした。
その足ですぐ洞中に押入り、
逃げ惑う小妖怪を一人のこらず
皆殺しにしてしまったのである。

どうやら全部片づいてしまうと、
悟空は再び呪文をとなえた。
すると、幾百匹となくいた猿は忽ち姿を消し、
もとの毛になって彼の身体におさまってしまったが、
まだその辺をぴょんぴょん跳ねまわっているのが
一小隊ほどもある。
「お前たちはここで何をしとる?」
と悟空が怒鳴ると、
「私たちは捕虜になって、
二年前からここに繋がれていた者です。
ごらん下さい。この辺にころがっている石の盆や茶碗は皆、
私たちのところから盗んできたものばかりです」

なるほど見覚えのある器物が並んでいる。
「よし、使えそうな物は皆そとへ運び出せ。
あとは火をつけて焼き払うのだ」

いわれた通り器物を運び出すと、
猿どもは洞中に火を放った。
見る見るうちに火は燃えあがり、
一癖にして洞中を灰燼にしてしまった。
「さあ、帰ろう」
と悟空は皆の衆を促した。
「大王」
と猿どもは困ったような表情をした。
「私たちの家はどの方向にあるのでしょう。
来る時は風の鳴る音をきいただけで、
どこからどうしてここへ連れて来られたのか
まるでわからないのです」
「そいつはわけのないことだ。
いいか、お前たち、そのままじっと眼をとじているんだぞ」

孫倍空が口に呪文を唱えると、
忽然として一陣の狂風が吹き起り、空高く舞いあがった。
やがてそれは山を越え谷を越え
雲の下へと吹き落ちて行った。
「さあ、子供たち、そっと眼をあけてごらん」
 猿どもが怖る怖る眼をあけると、
ああ、それは夢にも忘れなかった故郷の山河!
「皆の者、喜んでくれ」
と孫悟空は叫んだ。
「俺はもはやタダの名なし猿ではない。
俺たちの一門には正真正銘の姓氏ができたんだ」
「大王の姓は?」
「姓は孫、名は悟空」
「大王の姓が孫なら、我らは孫のまた孫。
この国は孫氏の国。大王万歳、万万歳!」
 こういう時には酒を飲んでへベレケになるものと
昔から相場がきまっている。

2000-09-10-SUN

BACK
戻る