毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第一章 ハッタリ猿

五 破  門

さて、或る夕方のこと、祖師は弟子たちに囲まれて、
 前庭で西に落ちる太陽を眺めていた。
「悟空や」
と師匠がきいた。
「お前の修行はどうだね? 少しは板についたかね?」
「ハイ、お師匠さまのおかげで、
どうやら一通り出来るようになりました。
霞のように空へ昇ることも出来ます」
「そうか。じやひとつやって見ろ」

悟空は皆の見ている前で、
つづけさまにトソポ返りを打つと、
一挙に五、六丈の高さにとびあがり、
飯を一膳食べるくらいの時間に
雲にのって三里の道を往復してきた。
そして、師匠の前にとびおりて一礼すると、
「ハイ、これが騰雲術でございます」
「ハハハハ……」
と菩提祖師は声を立てて笑いころげた。
「それでも騰雲術の仲間に入るつもりか。
アッハッハッハッ……。
昔から仙人は朝は北海に遊び、
夕は蒼梧に帰ると言われているじやないか」
「それはどういう意味ですか?」
「およそ雲に乗るものは、朝起きると、北海から東海、
西海、南海を一巡して、また蒼梧へ戻る。
蒼梧とは北海にある零陵のことで、
つまり一日で地上を一巡しなければ、騰雲術とは言えない。
お前のは雲に乗っているんじやなくて、
雲の上を爬ってまわっているだけじやないか」
「そいつはむずかしい。とても出来やしない」
「世の中にはむずかしいことなどひとつもない。
やろうという気持があるかないかの問題だ」
 この言葉をきくと、悟空は師匠の前に両手をついた。
「お師匠さま。毒を食らうからには皿までと申します。
どうか秘術を教えて下さい」
「およそ雲に乗る仙人たちは皆、駈足で次第に速力を増し、
加速度を利用して一挙にとびあがって行く。
だのに、今、お前がとびあがるのを見ていたら、
足を開いたままじやないか。それをなおせば十分だろう」
「いや、きっとそれだけではありません。
どうかそれを教えて下さい」

祖師は悟空の耳に口を寄せると、何やら低い声で言った。
それから皆にきこえる声で、
「これが斗雲という術で、見てごらん、
一跳びで十万八千里を跳び越えることが出来るよ」
 それをきいた弟子たちは手を叩いて、
「孫悟空、お前ほどの仕合わせ者はないぞ。
もしこの術を覚えたら、郵便配達をやれるから、
もうどこへ行っても飯の食いはずしはないなあ」
 その晩のうちに孫悟空は精神を集中して想を練り、
遂に騰雲術を体得したのである。
そして、もはや俗人どものように日が暮れれば、
家路を急ぐ必要はなくなり、天地を逍遙して、
悠々自在の生活を営むことが出来る
身の上になったのである。

しかし、人並以上のことができるようになると、
威張りたがるのが猿の浅ましさである。
春が過ぎて、夏が来た或る日のこと、
弟子たちは松の木の下に集まって無駄話をしていた。
「おい、悟空」
と兄弟子の一人が言った。
「先日、お師匠さまがお前に三災を避ける術を
教えていたようだが、うまく出来るかね?」
「出来るとも」
と悟空は白い歯を出して笑った。
「俺ぐらい勉強家だったら、
あんたたちでもすぐ出来るようになるよ」
「じや、ちょうどいいや。
ひとつ俺たちの前でやって見せろ」
「いいとも、
何でもあんたたちの言ぅものに化けて見せるよ」
「じや、
ここに生えている松の木に化けることが出来るかい?」
「そんなもの、わけはないさ」

悟空は立ちあがって、呪文をとなえると、
一変して、松の木になった。
「やあ、やあ」
「凄いぞ」
 皆がやんやと騒ぎ立てる声をききつけて、
菩提祖師が杖をついて門から出て来た。
「誰じや、そこで喧嘩をしとるのは?」

弟子たちは大あわてで服を正し、
孫悟空はもとの姿に戻って、草叢の中から言った。
「喧嘩ではございません。修行の話をしていたところです」
「そんな大騒ぎの修行があるものか、バカ!」
「実は孫悟空が松の木に化けて見せたのです」
と弟子たちが言った。
「本当に本物そっくりの松でした。
あんまり見事だったので、拍手喝采が起ったのです」

それをきくと、祖師は顔色を変えた。
「悟空! 儂について参れ」

祖師は悟空をそばに呼びつけると、
血相を変えたまま怒鳴りつけた。
「何というバカなことをする奴だ。
こういう秘術を人前で公開して見せれば、
誰だってお前に教えろと言うにきまっているじやないか。
お前の知らないことを人が知っていたら、
お前だって教えろと言うだろう。
もしお前が教えなければ、
奴らはお前を殺そうとするにきまっているぞ」
「どうかお許し下さい。
以後は二度と繰り返しませんから」
と悟空は手をついた。
しかし、祖師は冷たい声で、
「儂はお前を処罰しない。
その代り、たった今ここから出ていけ」
「出て行けって、私には行くところがございません」
と孫悟空は涙声になった。
「お前ほどこから来た。来たところへ帰ればよいだろう」
と祖師の声はいつになくきびしい調子である。
「それともお前は自分の家を忘れてしまったのか」
「いいえ、忘れは致しません。
家を離れてもう二十年になります。
時々、
残して来た家来たちのことを思い出すこともございますが、
でもお師匠さまにご恩返しをする機会がありませんので、
ここを離れるわけにはいかないのです」
「何がご恩返しだ。
お前が禍を招いて儂に連帯責任を負わせないだけでも
上出来だ」

何と謝っても、祖師はガンとして受け付けなかった。
やむを得ず、悟空は荷物をまとめ、
兄弟子たちに別れを告げた。
「お前のような不良少年は、
どうせこれから先、ロクなことはないだろう」
と師匠は言った。
「どんな目にあおうとお前の勝手だが、
儂の門弟だったことは絶対に言ぅな。
もしお前が口をすべらせたことが儂の耳に入ったら、
猿奴! お前の皮をひきはいで骨を叩き折ってくれるぞ」
「たとえ口が腐っても」
と孫悟空は誓った。
「お師匠さまの名前は口に出しません。
人にきかれたら、自分で習い覚えたのだと申します」

仙人の世界でも人間の世界と同じく、
永遠の平和はあり得ないことを孫悟空は知ったのである。

2000-09-09-SAT

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