MUSIC
虚実1:99
総武線猿紀行

総武線猿紀行第84回
「追悼ピチカート・ファイヴ! の巻 その4」


鈴江インクスティックのピチカート公演も、
集まったファンの様子に未来を感じさせたが
それ以上に「渋谷系」の到来を感じたのは、
ピチカートファンクラブをやっていた
サバービア・ファクトリー〜中古レコードを徹底的に
追及するCIAのような方々の集まり〜
(現カフェ・アプレミディ)の
プロデューサーである橋本徹君のイベントである。
それは今は亡き渋谷DJバーインクスティックで行なわれた。
このイベントは小西君はもちろんのこと
フリッパーズギターの2人が出演したことが忘れられない。
小沢健二、小山田圭吾の二人が、ピチカートファイヴや
思い出せないほど多数のDJと共に、
公にファンと時間を過ごしたのは
このときが最初で最後ではないか? と思う。
小西君のレコード棚は急速に膨張を続けていたが、
それはこのとき集まったすべての人(ファンも含め)が
この後、多かれ少なかれ、
同じ運命を真似ることになったのだと思う。
そういったニーズに応えて、
大規模レコード店が次々とオープンしたのだ。
80年代末、それを促進する大規模店は
六本木WAVEと渋谷タワー、シスコだけであったが、
その後、渋谷WAVEを皮切りに
とんでもない量販店の増殖を生んだ。

DJバーに集まったマニア&候補生500人の諸君が、
その後マニアの時代90年代に買うレコード&CDの枚数は、
低く見積もっても10年間で1人あたり平均1000枚、
ヘタすると2000枚のアナログやCDを
買っていたという規模に達すると思う。
500人集まっていたから、50万枚〜100万枚が
ここに集まったメンバーによって
その10年に買われたのだと思う。(これほんと)

なごやかな雰囲気のなかで、
談笑していたフリッパーズの二人が、
その後すぐ別れることになるなどと、
だれも想像していなかった。
スタイリッシュなペイパーを趣味で作っていた、
当時ホットドッグプレス編集部橋本君のセンスが
「フリーソウル」、タワーレコードの情報誌「バウンス」
(橋本君が作ったようなもの)、「カフェ・アプレミディ」
と爆発させるのもそれからすべて数年後。
つまり、ピチカートやその仲間のもたらした時代感覚が
どんなに裾野が大きかったのかは、この1991年では
まだまだ想像しようもなかったということだ。

野宮真貴の加わったピチカート・ファイヴは
ミニEPを毎月一枚発売連打した。
「最新型のピチカートファイヴ」
「超音速のピチカートファイヴ」などがそれだ。
一月一枚という月刊誌感覚がとても新鮮だった。
(おそらく本邦初。確かサザンがシングル盤で
 毎月リリースの企画をしたことがあったと記憶している)

この「の」を「だよ!」に置き換えると
「最新型だよ! ピチカートファイヴ」
「女王陛下だよ! ピチカートファイヴ」
とドリフになって面白い。
実際小西&高浪は中野サンプラザなどで
ヒゲダンスを披露したこともある。

僕が彼らで最も好きなアルバムは
この毎月1枚シリーズの最後に出た
「女性上位時代」というアルバムだ。
大瀧詠一の「ゴーゴーナイアガラのテーマ」
(フィルスペクターの「ドクターカプランズオフィス」)
をサンプリングし、細野晴臣の「パーティ」を
カバーするという離れ業をやった曲には参ったね。

その他、サンプリングマシーンを駆使した曲作りが
90年代の予言になっていた。
その後「スウィート・ピチカート・ファイヴ」という
アルバムが状況を決定づけた。
冒頭の映画タイトル曲「万事快調」は
曲としては最高に好きで、
「タクシーを拾って、どこかにいこうよ」というフレーズは
まさに「僕等の東京ライフ」そのまま
(ちょっと照れますけど)なのです。
僕としては、西麻布から青山や渋谷、
はたまた恵比寿あたりをウロチョロしている感じに
思ってます。

僕等の東京ライフ、それはかつての六本木野獣会
(加賀まり子さんとかコシノジュンコさんとかが
 いらっしゃった芸能人中心の遊び仲間)に代表される、
ハイブロウなものに、なりようにも、あこがれるわけにも、
想い入れるすべもなく、あくまで等身大の現実でしかない。
見知らぬ奴が加わっても、
いちいちクラ〜スで識別するようなことは
逆立ちしたってありえない。
全員超中産階級、全員千葉埼玉茨城神奈川的感性。
真性東京人がいても、だからといって都会人的雰囲気なし。
そんな東京のバブルのはじけた90年代初頭の雰囲気を、
「万事快調」は、ハイブロウな国際的感覚で
見事に音符の印画紙に焼き付けた。
あのイントロの体温がちょっと低くなる感じこそが
92年のすべてなのだ!

その後、ピチカートの3人とはニューヨークの街に
いっしょに行くという貴重な体験を持った。
少年ナイフ、近田春夫とビブラストーン、
ヴィーナスペーター、そしてピチカートの4つが
ニューヨークのライブハウスに出演するという
イベントがあったが、
僕は近田春夫さんと当時同じ事務所だったので、
一緒に自腹で付いていったのだ。

NYでは比較的有名なライムライトというクラブで、
ニューミュージックセミナーという音楽フェスティバルの
一環としてこの「ジャパンナイト」は開催された。
ソニック・ユース関連の作った
少年ナイフのカバーアルバムがスマッシュ・ヒット、
女性3人組のガレージバンド少年ナイフの人気が高まった
状況を背景としてのセレクションだ。

最初の朝、小西君と隣りのカフェにいき、
彼は15センチもの厚さの薄切りハムの塊のサンドイッチを
「これが食いたかったんだ!」
(彼は長期にNYに滞在していたことがあった)
と美味しそうに食べていたのが忘れられない。
そのライブは、情報を聞きつけた
5〜600人のニューヨーカーと数百人の日本人で
超満杯になった。NYの業界人には
友達ノリのコネクションがあり、
現役のアーティスト、パブリシスト達が
常に連絡を取り合っている。そこをちゃんと通して、
内容が面白ければ、4〜800人の業界人が集まるという。
逆に、どんなに面白くっても、そこを通さないと、
人は全然集まらないらしい。
日本人音楽家のコンベンションは、
何度も、そこを無視して失敗しているらしい。
東京の業界人をもし最大限に動員したら2000人、
いや3000人ぐらいになるだろうか?
人口比でいえばNYは740万人、
東京圏の人口は2〜3000万人は数えるだろうから、
ちょうど比例してるかもしれない。
彼らについてレコード屋を回ったが、
10メートル先を歩いて、
次々と店先の格安レコードの中から
スゴイものを探し出してくるのにはホントにビックリした。

そしてライブ。ピチカートは快調な滑り出しではじまったが、
その切れの良いテクノ的なディスコリズムに、
静かに立ってじっと見ていた金髪のインテリ風白人女性が、
曲途中でいきなりケイレンしたように踊り狂い始めたのには
タマげた。(すでに人気のあった少年ナイフのライブで、
当然のように白人青年が荒波のようなダイヴィング大会に
なるのにもビックリしたが)
「これは何かが起こる!」と思ったが、
実際にその2年後、ピチカートはアメリカで発売され、
20万枚を売り上げたのである。
そうして野宮真貴は「動くキティちゃん」と
アメリカのおしゃれなゲイ・ピープルに大受けしたのだ。
倖田來未が坂本九に続いて38年ぶりに
ビルボードにチャートインし、坂本龍一がオスカー、
喜多郎がグラミーと日本人の快挙はいくつかあるが、
ピチカートの売り上げは
それらに続くバリューがあるのではないか?
と認識している。

さらにその後、そのCDを発売したレコード会社の
黒人女性ディレクターが
ピチカートのライブを見るためだけに
わざわざ来日したのに遭遇しているが、
外人ビジネスマンが日本人アーティストに
ヘーコラしているのを初めて見て、
感無量だったのを覚えている。
西高東低の音楽業界で、
得意の札びらを切ったという理由以外で、
外人が日本人にペコペコするのは
極めて珍しい事態といわねばならない。まず、なかったはず。

その翌年93年に「ボサノバ2001」というアルバムでは
フリッパーズギターの小山田圭吾をプロデューサーに迎え、
ピチカートはブレイクを果たす。
しかし、このアルバムを最後に高浪敬太郎は脱退する。

子供向けだが大人も楽しんだ「ウゴウゴルーガ」の挿入歌
「東京は夜の7時」のヒットなど、
忘れられないことがたくさん起きるが、
ここから7年間のピチカートの八面六臂の活躍については、
他の文章できっと詳しいはずなのでそれに譲ろう。

ただ、その間、小西康陽を筆頭として、
ケン・イシイ、DJクラッシュ、佐久間英夫、DJツヨシ、
ファンタスティック・プラスティック・マシーン
(田中知之)、石野卓球を始めとする多数の日本人DJが
ヨーロッパを中心として世界に進出したことは特筆に値する。
先達のテイ・トウワ、サトシ・トミイエ、
ソウル・トゥ・ソウル〜シンプリーレッドのプロデューサー、
屋敷豪太などの重鎮のエクセレントな業績と絡めれば、
90年代の日本のクラブ文化は
まさに世界のトップに到達したといって過言ではない。
それに比例して、
ピチカート・ファイヴをリーディング・ヒッターとする
渋谷は世界に誇るレコード屋街になり、
渋谷のパルコ裏はレコードヴァレイとして、
ビースティボーイズやベックを始めとするスター達の
最大のレコードブティックとして機能する。
エリック・クラプトンでさえ例外ではない。

とんでボサノバ2001年3月、
ピチカートは東京のトップDJ達2〜30名に囲まれて
「お葬式」と冠したパーティを
オンエアーイーストにて行った。
川勝正幸さんなど、10年あまり前、
鈴江インクスティックの野宮真貴加入後
初のライブに集まった人間も
3〜50人が相変わらずそこにいた。
ゆるやかな空気が流れていた。
しかし、16年前、デビューの渋谷ライブインにいた人間は
何人いただろうか?

あっという間に売り切れた一般売りの券を求めた客が
外を囲む中、10時間以上に渡るイベントが進行した。
東京のDJ文化の振興を果たしたピチカートにふさわしく、
それぞれのDJがたったの15分間の持ち時間を競った。
カジ・ヒデキの女装による歌など、
見所はたくさんあったが、
なんといっても飛び入りの小山田圭吾のかけた
小沢健二&スチャ・ダラ・パーのメモリアルなヒット曲
「今夜はブギー・バック」はハイライトだっただろう。
しかもDMX(ダブ・マスターX・宮崎さん)による
テクノっぽいリミックスヴァージョンだったのが面白かった。
彼はこれ1曲のみをかけて去っていった。

小西君は午前5時すぎてピチカートファイヴの
オシャレなガムテープをたすきがけで
何度もグルグル巻きにして前身を包み、
駅伝の選手のようになって登場した。
そばには、そっくりで一回り小さい
プチ小西君という人が踊っている。
「来年同じ日同じ場所ここで、一周忌を行います!」
という発言も飛びだした。明けて4月1日の発言なのだ、
というスタッフもいた。真相はわからない。
真貴ちゃんも歌が20年前よりはるかに磨きがかかって、
別人のようにオーラを発していた。

レクイエムな送り出し曲のなか、
DJ達が作った秘密のリミックスCDのプレゼントが行われ、
小西君はビールを浴びてサヨナラを宣言した。
ビールが飛び散った上半身で、
楽屋で握手の花束を交わしながら、
長年ビジュアルを担当した進藤氏に
「終わらない仕事はないよ」と照れながら語った。

オレンジ色の朝陽のなか、渋谷のラブホテル街を、
似つかわしくないファッショナブルな若者の一群が、
なお次のクラブに向かって歩き出した。
(この項終わり)



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at 新宿ロフトプラスワン
新宿歌舞伎町1-14-7林ビルB2F(コマ劇場前のサンクス右隣)
TEL3205-6864 
http://www.loft-prj.co.jp/PLUSONE/plusone.html


サエキのHPにも来てね!
http://run.to/kenchan

2001-06-21-THU

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