肩をとんとん、叩く気配をうっすら感じで、
目を覚まします。
まだボンヤリと。起き抜けでなかなか合わぬ眼の焦点が、
合った先にはパーサー氏の顔。

「ミスターサカキの睡眠を妨げる無粋を
 申し訳なく存じますが、あと2時間少々で
 ヒースローに到着の時間でございます」と。

なんたる熟睡。
ボクはほぼ8時間近くをぐっすり、夢の中でいた。
まずはトイレにと席を立ち、
折り畳みドアを開けると
モルトンブラウンのアメニティーと一輪挿しの赤いバラ。
顔を洗って歯を磨き、
最近、まれに見る男前の自分の顔にニッコリとする。
席に戻ると、
寝起きのベッドのように散らかっていたそこは
スッカリ片付けられて、そのかたわらには彼がたってた。
右手には銀のトレイにグラスを一個。
そっと差し出すグラスをとると、
ヒヤッと冷たくけれど
決して冷たすぎないお水が中に入ってた。
ゴクリと飲むと、
乾いた体のすみずみがうるおうおいしさ。
フーッと思わずため息がでる。

「お食事はいかがいたしましょうか?」
他の皆様が召し上がられた午餐の料理を、
お召し上がりになるスピードにもよりますが、
40分ほどですべてお出しする準備は
すでにできております。
勿論、ローストビーフは完璧な状態で、
サカキ様をお待ちしておりますが‥‥、と。

なんとも魅力的なサジェスチョン。
お腹はそれを! と悲鳴に近い唸りをあげます。
けれどこの飛行機が到着したら、
そのまま今日は、ディナーを食べる約束を
このチケットを手配してくれた彼らとしている。
その晩ご飯が、おいしく食べるコトができなくなったら
申し訳ない。
だからほどよき程度の量を
お腹に収めることはできぬか‥‥、
とちょっと悩んで、
正直に、パーサー氏にそれを伝える。

彼はニッコリ。
そして言います。
「ロンドンは今、お茶の時間でございます」
ミスターサカキをお待ちのジェントルメンも、
アフターヌーンティーを
楽しんでらっしゃる頃ではないかと存じます、と。

たしかにそうだ。
お茶と軽い食事だったら夜に響かぬ。
お腹を現地の時計に合わせることは
いい時差調節になるともいう。

スコーンとクロテッドクリームをいただきましょうか。
なにか適当なフルーツプリザーブがあれば一緒に‥‥。
承知しました、とすべてに彼は即座に答えて、
「お飲み物はミルクティーでよろしいですか?」と。
そしてボクに耳打ちします。
「ロンドンから、英国のミルクを
 実は積んでございまして」
断る理由はなにもない。
お好みの紅茶の用意の仕方はございますか?
と聞かれてボクは、
おいしい飲み方を教えていただけると光栄です‥‥、と。





それからの彼のテキパキぶりは情熱的ですらありました。
驚くほどのスピードで、
テーブルの上にウェッジウッドの食器に、
マッピンウェブがナイフフォークがズラッと並ぶ。
焼けたスコーン。
陶器のポットにクロテッドクリームや、
何種類かのジャムがタップリ。
そして紅茶がテキパキと、みるみるうちに用意されてく。
紅茶はダージリンでご用意しました。
かなり熱めに入れてございます。
といいつつ彼は、まずはカップに紅茶を注ぐ。
赤みを帯びた濃い色で、
酔っ払ってしまうほどに芳醇な香りがたちのぼってくる。

先にミルクを入れることを
好まれる方もいらっしゃいます。
しなしながら、本日の茶葉はまことに香りがよろしくて、
しかもミルクもかなり上等なモノ。
ですからまずは紅茶の香りをたのしんでいいただき、
そしてミルクをちょっと注いでいただけませぬか?
言われる通りにミルクをそっとたらしてやると、
驚いたことにミルクはストンと紅茶の中に沈んでしまう。
それからユラユラ、小さな渦を作りながら
ユックリ湧いて上がってくる。
まるでコンデンスミルクのように濃厚で、
ポッテリとしたミルクだからなのでしょう。
その味わいは格別で、思わず
「紅茶って、こんなにおいしい飲み物だったのですね」
とつぶやく。

英国の紳士には、紅茶だけは必ず自分で‥‥、
とおっしゃる方もかなりいらっしゃるモノですから、
紅茶をお入れるのは緊張します。
お口にあわれたようで、うれしい限り。
それではしばらくご無礼します‥‥、
とギャレーに戻る。
ボクはひとりで、アフターヌーンティー。
そのとき、ボクのテーブルは
到着前の一足先のロンドンになる。

自分の食べたいものだけ、食べたいときにやってくる。
これがファーストクラスなんだなぁ‥‥、
と思ってユッタリ、お茶を飲みつつ、
このコトを今日の夕食の話のタネにしてやろう。
それにしてもいい経験をさせてもらったなぁ‥‥、
とニンマリしてたら、
サッと小さなお皿が差し出されます。
一口大のサンドイッチ。
「ローストビーフをフィンガーサンドにいたしました、
 アフターヌーンティーの二皿目でございます」
と彼の声。
英国風に薄切りにしたサンドイッチブレッドをよく焼き、
それがカサカサ前歯をくすぐるようで、
それにムッチリ、ローストビーフ。
ホースラディッシュをタップリまぜたマヨネーズに、
グレービーが少々混じる、
思わず、お替り! と大声あげてしまいそうなほどに
おいしいサンドイッチ。
紅茶の差し湯をご用意しましたと、
銀のポットに沸かしたお湯を
紅茶のポットにそっと注いで、
お気に召していただけましたか? ‥‥、と。

これが英国式のおもてなしというコトですか?
他のエアラインとまるで違って感じて、
ボクはとても感激しました‥‥、
と答えるボクはかなり興奮気味だったのでしょう。
英国航空をご利用になるのは
はじめてでらっしゃるのですか? と聞くパーサー氏。
今回のこのフライトとなった顛末を、
ボクは簡単に説明します。
そして、ボクはこのファーストクラスのサービスは、
すばらしいと思いました。
残念ながら料理をたのしむ余裕もなく、
寝てばかりではありましたけど、
ずっと見守られているっていう感じがステキで、
うれしかったと気持ちを伝える。
彼は言います。

ビジネスクラスは、私たちが考える
良いサービスをたのしんでいただく空間で、
ファーストクラスは、
お客様にとっての良いサービスを
私たちが実現させていただく空間なのだと
我々は思っております‥‥、と。
そして着陸態勢に入る寸前。
シートベルトのサインがポンッとなった直後に、
彼がそっと近づいてきて
「お邪魔でなければ‥‥」
と、クロスで器用にくるんだシャンパンのボトルを一本。
お休みだった間、
乗務員の私たちが楽をさせていただきました。
もっとサービスをさせていただければよかったのですが、
申し訳ないと思う気持ちに変えまして、
ホテルででもおたしみいただければと存じます。

ブリーフケースとともに、
シャンパンの瓶を小脇に抱えて通関するボク。
「オナラブルゲストになられたということは、
 すばらしいフライトをたのしまれたというコトですな」
と。
出迎えに来てくれたクライアント氏たちが、
ボクのその姿をみてうれしそうに言う。

「Honorable Guest」
名誉ある搭乗者とでも訳しますか。
その日のフライトで印象に残るステキなお客様に
乗務員が何かプレゼントをする、という習慣が、
かつて欧米のエアラインにはあって、
感謝のプレゼントはそのときどきで当然変わる。
その日のボクが、幸運なことに手にしたシャンパンは、
かなり貴重なビンテージモノ。

「食事をしながら、そのシャンパンの話を
 まずは聞かせていただけませんか?」
そしてボクらは車にのって、
さっそく街に移動をしました。




その日の会食はすばらしいディナーとなった。
快適な睡眠のお陰で、頭スッキリ。
お腹はほどよく空腹で、
しかもボクの体の時計は
見事にロンドン時間で動いてた。
なによりありがたかったのが、
ローストビーフのお店ではなく、
お洒落でモダンな中国料理のレストランであったこと。
なにより会話がゴチソウでした。
ボクのよいサービスに対する憧れ。
「よいサービスの基準は、
 サービスをする人の中にあるのでなくて、
 サービスを受ける人のココロの中にあるものなんだ」
そしてそのお客様のサービスの基準に近づく努力や、
近づく仕組みを作ることが
サービス業にとって大切なことなんだ‥‥、
という、その理想のひとつをこのフライトで体験できた。
この考えを理解し、
行動できる人やパートナーを探すことができれば
おそらく、日本でも稀有のレストランを
つくることができるでしょうネ‥‥、と。
それに対して、みんながそれぞれの
思いや考えを述べ合って、夜遅くまで盛り上がる。

この出張でボクはめでたく顧問契約を結ぶに至る。
入念な準備と、ボクの会社がそれまでもってた経験。
なにより日本における
多彩なネットワークがあってこその契約成立。
けれどこのフライトと会食で、
彼らとボクの気持ちがどこかでつながった‥‥、
それが大きなキッカケだったと今でも思う、
得難い経験でありました。

さてさて今日のこの体験が、
ボクらの店にどう活かされたのか?
それは来週、ごきげんよう。



2011-08-04-THU

© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN