おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(四冊目のノート)

誰かにつれていってもらわなければ、
多分、迷って、たどりつかなかったかもしれません。

見つけにくい、例えば路地裏のような場所にある、
というワケではありません。
大通りに面したビルの地下。
ただ、本当に古ぼけたオフィスビルの外階段をタンタン、
降りて入ってゆくそのアプローチはとてもじゃないけど、
高級ステーキハウスに向かう導入部、とは思えない。
看板だって小さくポツン。
どこに連れて行かれるんだろう。
そのお店のドアを開けるまで、
ボクはその雑居ビルの薄暗い通路の先に、
すばらしいレストランがあるということを、
イメージすることができなかった。

まさに、ご紹介者はいらっしゃいますか?
ワタシたちのレストランが特別な場所にある、
ということをご存知ですか?
‥‥の意味の一部をボクはそのとき、
思い知ったのでありました。

ドアの向こう側にあったのは、親密な空間でした。
10個ほどのテーブルが整然とならぶ、
豪華さのみじんもない、居心地の良い空間。
お店の立地やインテリアは、そのまま、
平均的な客単価を決める大きな要素のひとつ‥‥、
であります。
同じ品質の料理。
同じレベルのサービスを提供していれば、
便利な場所にあるお店の方が
不便な場所にあるお店より、値段が高くて当然です。
インテリアの豪華さは、
そのまま客単価の高さにもつながっていて、
だから、レストランに入った第一印象で、
ある程度の予算をイメージすることが出来る。

レストランを、高級なレストランにせしめるもの。
それは「専用」という言葉‥‥、であります。
専用の階段。
専用のアプローチ。
専用の入り口。
専用の駐車場。であったりが
高級なレストランにはつきものなのですね。
にもかかわらず、このお店のほとんどすべてが共用で、
まずは最初に場所を確認しておいた方がいいでしょう、
と言われて行ったトイレも、
ビルの他のテナントと共用のモノ。

高級レストランのトイレが共同トイレ。

ガクゼン‥‥、です。

インテリアにしても決して豪華なものではなかった。
テーブルも小さめ。
清潔なテーブルクロス。
それもしわ一つない純白のクロスが
かかってはいたけれど、しかしその生地そのものは
決して贅沢なモノじゃない。
テーブルとテーブルの間隔だって、
広々しているわけでなく、
声を潜めておしゃべりをしなくては
隣の人に話の内容を聞かれてしまいそうな、そんな雰囲気。

これらのこのお店の特徴を
一般的なる高級レストランの条件に
てらしあわせるならば、
多分、せいぜい1万円から2万円程度の
客単価のレストランのインテリアでしかない。
拍子抜け。
とはいえ、そこが粗末で気持ちの悪い場所だったか?
といえば、そんなことは決してなかった。
むしろやさしさとおおらかさに満たされた、
とても豊かな空間で、はじめてなのに、
何故だかなつかしいような気持ちにすらなれた。
すわり心地の良い椅子。
古ぼけているけれど、磨き上げられた壁や床。
お店そのものが立派過ぎない分、
そこにいるボクたち、お客様が
とても立派にみえるようなそんな空間。
良いレストランがもつべき分別。
そんなものを、感じさせるインテリアではあった。

ビックリしたでしょう?
そういわれてボクは思わず「ハイ」と即答しました。
それ以外の気の利いた答えが
頭の中に思い浮かばなかったのです。
あまりに元気良く、大きな声で返事したもので、
その「ハイ」が店中にこだました。

けれど、幸運なことに、お店の中にはワタシたちだけ。
お店の人たちを独り占めすることができる、
お店デビューには最適なシチュエーションで、
ボクの高級ステーキハウスレストランデビューが
スタートしたのでありました。

さて、注文です。

あらかじめ商品の名前が書かれたメニューは、
用意されていませんでした。
若々しい笑顔の給仕長が近づいてきて、
今日の料理の品揃えと、その内容をひとつひとつ、
丁寧に説明をする。
つまり、メニューブックは彼の頭の中に印刷されていた、
のであります。
はじめてのボクは、その一言一句を
注意深く聞き取らなくては注文することすら
出来ないのですね。
緊張をする。
それこそ、ボクが一人ではじめてで、
にもかかわずもし誰か大切なお客様と一緒に
ここにきていたら、みんな途方にくれて
お店の人の口から飛び出してくる呪文のような言葉を、
ぼんやり聞くしかなかったのでしょう。

海図の読めぬ船頭に身を任せる船旅のような、
そんな無様に巻き込まれることに
なっていたかもしれないのです。

注文を始める前に、師匠は給仕長にまず、こういいます。
今日、一緒にきているこの若者は、
ここにはじめてくる幸運なビギナーであって、
だから料理の説明の要所要所で、
説明をはさむことになると思うけれども、
気にしないでくださいね。
給仕長は、その面倒を快諾をして、
それでなんとも不思議な、解説付き注文‥‥、
なるものをボクははじめて経験することになったのです。

 
2007-04-19-THU