おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(四冊目のノート)
それではこちらのワインにいたしましょう。
ソムリエはそう言いながら、
ひとつのワインを取り上げ、
そして丁寧に栓を抜きつつ、こう言います。

こちらのワインはとても手ごろなお値段なのですが、
むしろ今が飲みどき。
すばらしいご選択と存じます。

ボクらが選んだんじゃないのにネ。
ソムリエがプロの知識を総動員して
ボクらのために選んでくれただけなのに、
でもボクらが選んだワインをボクらが楽しむ。
しあわせなコトではありませんか。

抜栓を終わったソムリエ氏は、
テイスティング用の1杯目を
ワイン係君のグラスに注ごうとボトルを持って準備して、
でも注ぐ寸前に支払い担当氏に、こう聞きます。

テイスティングはこちらの方にお願いしてよろしいですか?

彼は堂々と、それで結構‥‥、とそう答えます。
なんだかその口調も堂々としていて、
口から出てくる声だっていつもと違って
深くて重みがあるような気持ちがするのが不思議です。
それにしても、トクトク、グラスに少々注がれたワインを
テイスティングするときの
ワイン係君のシアワセそうで丁寧なコト。
コクッと飲んで、ああ、おいしい、というと同時に、
テーブルの上の緊張が見事に
ストンとどこかに消えてなくなってしまったように
感じるほど。

食事はこうして、つつがなく始まったのでありました。


料理はまずいちばん最初に、
いちばんいい席に座っている彼女のところに届きます。
2番目はお金を払う係氏のところ。
あとは臨機応変に、
ボクのところかワイン係君のところに来る。

当然のように、彼女はまっさきに自分の料理に手をつけて、
おいしいおいしい、といいながらみんなは食べる。
面白いモノで、いつもこの仲間で食事をすると、
話の中心にいるのはボクなのだけれど、
その日に限ってはボクじゃなくて、
お金を払う係である彼がなんだか
ハナシの真ん中にずっといた。

お店の人が気をつかってくれるのも彼だったし、
なによりボクらひとりひとりが、
何かをいうと彼の意見を求めるようになっていたから。
不思議です。
なんだかいつもと違うボクらの側面が楽しめたようで、
なんともシアワセな気分になれたのでありました。

そろそろメインディッシュというときのコト。
ワインが思った以上にすすんだことと、
なによりそこの料理がとてもおいしくて
ワイン1本で食事を終えてしまうのが、
なんだかもったいなく思いました。
それはボクだけがそう思ってたのでなく、
多分、テーブルを囲むみんなが同じように
そう思っていたのに違いなく、
ワイン担当君なんかどうしようか、
そわそわ、落ち着かない様子だったりする。

ソムリエがやってきて、
ほとんど最後の一滴をボクのグラスに注ぎ終わった
その頃合で、なんと支払い係氏がこういいます。

「ワイン、もう1本、いただきましょうか‥‥」
もう完璧です。

ボクらはボクらの役割をキチンと守り、
それで楽しい時間をレストランで
働く人たちも巻き込んで、みんなの力で作り上げた。
そんな楽しさに、会話はいつも以上に盛り上がります。
料理もこの上もなくおいしく感じ、
お酒もどんどんすすんでいきます。

デザートも見事に平らげ、そうしていよいよ大団円。
ボクらのテーブル担当のウェイター氏が
請求書を持ってやってきた。
さて、誰の前に置かれますことやら‥‥。
その請求書差しをじっと見つめるボクらの前を、
すんなりユックリ、彼の右手は通り過ぎ、
めでたくそれが今晩、置かれるべき人の前に
ストンと置かれた。
支払いをする重責をしょってココに来た、
まさにその人の前に伝票が置かれたのでありました。
ボクらはあまりのうれしさに、思わず拍手。
で、そのはしゃぎように怪訝そうな顔で
眺めるウェイター氏に、
ボクらはその種明かしを簡単にしました。

するとその話を聞いたウェイター氏、
クスッと笑って厨房の中に入っていった。
ちょうどほとんどのお客様がひけてしまって、
残っていたのはボクらとあと1組だけのお客様。
しばらくすると彼は厨房から
コックコートを着たシェフと一緒に戻ってきた。
ボクらのテーブルの横に彼らは立って、
そしてソムリエも招いて呼んで、
お互いの自己紹介をしあうコト‥‥、
となったのでありました。

そうして名刺を交換しようか、とことにもなって、
シェフは迷わずボクに向かって名刺を差し出す。
ワイン係君にはソムリエ氏が
はがしたばかりのワインのエチケットと一緒に名刺を渡し、
店長であるサービス主任はお金を払う担当君と名刺交換。
お互い楽しかったその数時間のことを
感謝しあって握手までした。

ワタシは誰と名刺交換させていただければいいのかしら‥‥。

特等席の前に立ち上がっている彼女、
半分、不安げにそうつぶやきました。
すると、シェフに店長、ソムリエ3人、
急いで彼女のところに駆け寄って、
「いちばん大切なお客様ですから、
 当然、ワタクシたち全員の名刺を
 お持ち帰りいただかないと、悲しゅうございます」
‥‥、と言い、渡す。
彼女、満面の笑み、であります。

店長がボクらにこう言って挨拶の締めくくりとなりました。
「みなさん、本当に楽しそうで、
 ワタシ達も楽しくサービスをさせていただけました」


「みなさん」。
この一言です‥‥、大切なのは。
なんにもするコトがない人がひとりもいない。
お店の人の記憶に残らない人がひとりとしていない会食。
それこそがステキで楽しい食事が出来た、
という証なのでしょう。

「またのお越しをお待ちしております。
 ワインも料理も、そしてすばらしいお席を準備して
 お待ち申し上げておりますから。さようなら」

そのレストラン。
10年以上のお付き合い。
ボクだけでなく、その夜、
そのテーブルを囲んだ4人すべての人にとって、
10年以上、まるで自分のレストランのようなつもりで
つき合わせていただいているレストランになったのです。

愉快なチームの愉快な物語の一部始終でありました。
 
2006-09-07-THU