おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(三冊目のノート)

サカキシンイチロウ少年は失敗の宝庫でした。
子供のくせに自分は子供である、という意識を
ほとんど持たぬいっぱしの大人気取り。
両親は両親で、ボクを子供として扱うよりも
ちょっと小さな大人のように接することが当たり前で、
だからボクをいろんなところに連れて行った。
子供が行かぬようなところに連れて行ったり、
子供がしないようなことをさせてみたり。
好奇心旺盛な子供、というのは
失敗を恐れぬとても大胆な生き物です。
だから、いろんなところでいろんな失敗をし、
でも子供だからとたいていは寛容に受け入れてくれ、
そしてボクはいろんなことを学んだ、ということです。


例えば、以前、東京のあるホテルの
フランス料理のメインダイニングに行って
ショートパンツという
紳士にふさわしくない格好をしているからという理由で
断られ、数ヵ月後、スーツをあつらえてもらって
無事、テーブルに着くことが出来た、
というエピソードを紹介しました。
で、そのときのこと。
実はボクはとんでもない失敗をしでかした。
今、思い出しても顔から火が出るほどに恥ずかしい失敗です。



◆いっぱしのスーツを着た少年、パンで悩む!

メニューの文字を読み取るのにも苦労するほどの暗い照明。
テーブルの上にはキャンドルの明かりが揺れていて、
大人ってなんでワザワザこんなに暗いところで
ご飯を食べるんだろう、と不思議な思いで
椅子にちょこんと座ってました。
親父がボクに代わって注文してくれ、
大人には食前酒のシェリーが、
そしておぼっちゃまにはシャーリーテンプルでも
お持ちしましょう、と赤くて甘いソフトドリンクが
もってこられて食事の始まり。
テーブル担当の給仕係の人が、
バスケットを片手に近づいてきた。

腕に真っ白なナプキンを巻くようにおき、
その手にバスケット。
覗き込めば中には何種類かのパンが入ってた。
「どうぞ、お好きなものを。」
押し殺したような低い声。
それはボクにパンをとるように促す給仕係の声で
ボクは瞬間、凍りついた。
どうすればいいのか、わからなくて。
パンをバスケットから一個、
何らかの手段によって取り出して
自分の左手にある小さなパン皿に乗せる、
という行為を促されたこと。
実は生まれて始めてのことだったから。
それまでパンといえば
パン皿の上に最初から置かれているか、
それとも決まったパンをちょこんと置いてくれるか、
どちらかだったから。
パンを選ぶ!
サカキシンイチロウ少年の10年の歴史の中で
最大のピンチ! でありました。



◆悩んだ少年、フォークを握りしめて‥‥?!

目の前にパンを取り出すための道具の一つも見つからず、
両親に助けを求めようと見るのだけれど、
二人ともワインを何にするのか相談するのに忙しく、
ボクの方なんか見てくれてない。
どうしよう。
すると先の給仕係が「どうぞ」と静かに、
でも力強くささやいて、
それでボクはフォークを握って、
それでパンを突き刺そうとした。

すごいでしょう?
ビックリでしょう?
でもそれが当時のボクが出した精一杯の解答だった。
ところが刺そうとしたパンが固いこと、固いこと。
当時まだ珍しかった表面の固い丸く小さなフランスパンで、
突き刺そうとするとコロコロ逃げる。
まるでかごの中でアルマジロが逃げ回っているようで、
とうとうそれはかごの中から勢いあまって飛び出しちゃった。
ボクは「アッ!」。
給仕係は「オッ!」。
それぞれ声にならぬ声のつもりだったのだけれど、
静かなレストランでそれは両親の視線を
ワインリストから引っぺがすのに十分、大きな声だった。

「あらっ、シンイチロウ。お行儀の悪いことをして‥‥!」
母、叫ぶ。
父はなんてことをしてくれたんだ、この馬鹿息子、
のような視線でボクをにらむ。
ボクはそのままその場で消えてなくなってしまいたい、
と思ったネ。
本当に。

「おぼっちゃま。手で食べるモノは
 手でお取りになればよろしいんですヨ。」
と給仕係がボクにそう言う。
そして一旦しゃがんでボクが落としたパンをとり、
ベストのポッケにそっと収めると、
こう更に付け加えてボクに言う。
「もしかしておててが汚れてらっしゃって、
 手をお使いになれなかったのでしょうかネ?‥‥お父様。」
父はこういう。
「そう言えば誰も、手を洗ってなんかこなかったよな」。
そして笑った。
ボクの後にパンをとる順になった母は、
大げさにナプキンで自分の手を拭くしぐさをして、
右手をかざして「ほら、きれいになった‥‥」
といいながら、パンをとる。
緊張は一瞬にして楽しい食事のプロローグに
変わったのでした。


◆少年、学習す。パンは手で取るべし。


ボクはそのとき、二つのことを勉強をした。

レッスン1。
手で食べるモノは、手づかみでとってもかまわない。
むしろその方が自然なことなんだ。
例えばオープンサンドイッチやカナッペのような前菜類。
例えば食後のプチフルールやチョコレート。
これらは確かにお皿から手でつまんだまま
口に運んでパクリ、というのが自然でしょう。
ピザなんかはちょっと困ります。
アメリカンスタイルの気軽なピザレストランなら、
手でつかんでダイナミックに、が楽しい食べ方ですから、
お皿から手でつかんで食べればよい。
手に伝わる熱々の出来立て感が、
おいしさを倍増させてくれるはず。
それにトロトロに流れ出そうとする
タップリチーズをこぼさぬように、
細心の注意を払いながら取り分けるのには手が便利。
一方、ちょっと気取ったイタリアンレストランで
背筋を伸ばしてナイフフォークで食べるピザ。
これは手づかみじゃない方がいいのでしょう。
もちろんパンは、どんな店でも手づかみで。

レッスン2。
それは失敗した人を思いやる気持ちが大切なんだな‥‥って。
ボクがそのとき、消えていなくならなくて済んだのは
給仕係の機転の利いた一言だった。
ぼっちゃん、手を洗ってなかったからでしょ?
それにあわせて同じテーブルを囲んだ両親がおどけてくれて、
ボクは本当にすくわれた。
ボクはそのとき、大人の素敵な人間関係の作り方、
というのを見たような気がしたんですネ。
うれしかった。
早くこうした大人になりたい、‥‥そうも思った。

シンイチロウ少年のそれまでの人生10年間で
最大のピンチは、
10年の人生最高の思い出となったわけです。

そうそう、シャーリーテンプル。
この失敗談の間、ボクのかたわらにあった
子供用の様の飲み物。
その正体は一体なにか?
次回のお楽しみにとっておきましょう。


2005-07-28-THU

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