おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。


ロンドンの、とあるレストランでの思い出話です。

テームズ川のほとりにある、
古いオフィスビルの最上階を今風に改装した話題の店で、
ブリティッシュモダンとでもいいますか、
料理の味は期待しちゃいけないといわれるロンドンにしては
珍しくしっかりとした料理を出し、
何より景色が素晴らしい店でした。
まず窓の外の景色。
窓の外にはロンドンの旧市街地、
遥か向こうには傾き沈みつつある夕日。
ロンドンを独り占めしたかのような圧倒的な景色です。

それに劣らず、窓の内側の景色も素晴らしかった。
店内には揃いも揃ってお洒落なお客様がテーブルを囲み、
背筋をピンと伸ばしてにこやかに笑顔を浮かべる
美形でスタイルの良いウェイター達が
私達をユッタリと見つめる‥‥、という景色。
素敵でしょう?

そんな空間で、事件は起きました。

響く轟音! 震えるウエイター!
そのとき、ボクらはいったい?!

ピーンと張り詰めた空気が店内を満たしていました。
極めて高い競争倍率を潜り抜けて
予約に成功した人達が発散する、
さあ、今日は楽しませてもらいますヨ、
と言う期待に満ちた空気と、
それに応えようとするお店の人達が発散するエネルギー。
それらが交じり合って、
ムンムンするような華やかな緊張感が、
その場にいる人達みんなに
心地よい高揚感を与えていました。

期待を上回る手際の良さで、
食事はよどみなく進んで行きます。

私達がテーブルに付いて2時間ほどが過ぎる頃、
殆どのテーブルの食事も終わりを迎え、
夕日も街のスカイラインに
飲み込まれてしまいそうなほど傾いて、
お店の人たちは今日のディナーの幕引きの準備を、
少しずつ始めていました。

「なかなかに素晴らしかったネ」

「量はいささか多かったけれど、
 味に不手際は無かったし」

「何よりサービスが素晴らしい。
 あの若い子達の笑顔といったら‥‥!」

とお客様が口々に話しています。
しかし、そんな会話の真っ最中に、
私達の隣のテーブルの食器を片付けていたウェイターが、
ちょっとした拍子に
持っているトレーのバランスを一瞬崩し、
そのまま床に落としてしまいました。

床は不運なことにツルツルの大理石で、
だからガシャガシャと言う音と共にお皿は容赦なく割れ、
銀のトレーがクワンクワンと
派手な音をたてて転がりました。
それまでのシアワセな空気は一瞬、凍りつき、
ものすごく大きな音と、
その直後にやってくる恐ろしいほどの沈黙に、
失敗をしたウェイターは身もすくんで、
今にも泣き出しそうな様子でした。

お客様みんなの顔に失望の色が浮かびましたネ。
ボク達も、あああ、やってくれたなぁ、
と悲しく思いました。
舌打ちしたくなる気分。
せっかくの楽しい思い出を、
台無しにしてくれたウェイターの顔を
思わずキッとにらんで、無言の抗議を投げつけました。
彼はますます体を小さくして、
肩を震わせて顔をうつむけ立ち尽くすだけです。

「パン、パン、パン、パン‥‥!」

レストランの片隅から、
大きな拍手が始まったのは、その時でした。

えっ? なぜこのタイミングで
その人は、拍手を始めたの???

ボク達は一瞬何が起こったのかわからず、
その音の方向を振り返ります。
お客様の一人が立ち上がり、
両手を大きく前に突き出して
大袈裟な素振りで拍手をしているのです。
彼はにこやかに「ブラボー」と大声を上げ、
「ナイス・エンターテインメント!」と続いて言いました。

けして、からかっているわけではありませんでした。
彼が言うには──。

「‥‥あまりに居心地良く、おいしい食事を終え、
 すこしぼんやりしていたら、
 大きな音で目が覚めました。
 見れば、みなさん、あんなに美しい日没が
 目の前にあるではありませんか。
 彼は、ちょっとうとうとしかけた私たちに、
 この素晴らしいチャンスを教えてくれたのです。
 拍手を! みなさん、どうぞ拍手を
 お願いできないでしょうか!」

そういいながらそのお客様は一生懸命、拍手を続け、
つられてボク達を含め、
レストラン中のお客様が彼に拍手をし、
ついにスタンディングオベーションとなりました。

ボクはやっと気づきました。
ああ、そうだ、こんなときに一番つらいのは
失敗をした彼なんだよな。
彼は別に失敗をしようと思ってしたわけじゃないのだから、
ここはボク達はそんなに気にしていないんだよ、
というコトを彼に教えてあげるのが大切なことなんだ!

だからみんな自然に立ち上がり、
みんな一生懸命、拍手をしたんですネ。

レストランは大きな拍手に包まれ、
彼は涙を流しながらお辞儀を数回繰り返し、
そして床の片づけを始めました。
「ありがとうございました」と彼は言いながら、
精一杯の笑顔を浮かべて、片づけています。
その元気な様子にホッと胸をなでおろしながら、
椅子に座って窓の外を見れば、
先ほどのお客様が言うとおり、
今日の太陽が最後の一片を残して、
スカイラインに沈んでいく様が目の前にありました。

災い転じて福となす、かどうかは
あなた次第なのです。

暫くして、失敗をした彼の上司であろう
黒服のウェイターが
テーブル一つ一つを回って挨拶を始めました。
曰く、

「‥‥彼は今日で二日目のまだ新人で、
 緊張の余り、失敗をしてしまったのでしょう。
 一生懸命ではあったけれど、
 力足らずでご迷惑をかけたことを
 申し訳ないと思います。
 でも、今日の皆さんの温かい拍手で、
 彼はますます一生懸命、
 良いウェイターになるよう精進することと思います。
 是非、何ヵ月後かにもう一度お越しの際は、
 彼の成長の具合を
 確かめてやってはいただけないでしょうか。
 今日は本当にありがとうございました」

ボクらはそのチームワークと、
なによりとんでもない失敗を
僕たちも含めてそのレストランにいたすべての人たちで
一丸となって克服できた、
という満足感にチップをはずみました。
そしてその時の食事は、
ボクのロンドンステイの最高の思い出になったのです。

それはボクと同じテーブルを囲んでいたみんなも
同じコトであろうと、ボクは信じています。

ロンドンのOXOと言う店でのコトでした。
その後、不幸にもこの店を訪れる機会に
未だ恵まれてはいないけれど、
しかしボクはその時、こんな教訓を得るコトが出来ました。

一生懸命のお店の人が、
ほんのちょっとしたきっかけで起こした失敗に対して、
私達がどう応えるかで、
その時の食事が素晴らしいものになるか、
それとも台無しになるかが変わってくる。
私の洋服にウェイトレスがお水をこぼした。
彼女のことを叱責する。
迷惑を受けたお客様として、
そうすることは当然の権利かもしれないけれど、
でもその様を見ている他のお客様がどう思うか、というと、
ああ、嫌な感じだな、と思ってしまう。
あなたの今日の思い出を台無しにしたのは
ウェイトレスかもしれないけれど、
お店のほかの人たちの思い出まで
台無しにしてしまうのは、あなたである。
というコト。

ココロに刻んでおきましょう。

楽しい食事。
それはお店の人とお客様である私達が
手に手をとって作り上げて行くもの。
人に対して寛容であること。
それが大切です。
次に失敗してしまうのは、あなたかもしれないのですから。

次回は「私たちの失敗」のお話です。


illustration = ポー・ワング

2004-04-22-THU

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