「今日のダーリン」正解病?


ほぼにちわ。です。

「正解病」、と聞いて、どう感じられましたか?

5月9日の「今日のダーリン」に出てきたこのことば、
「正解病」に、「ドキッ!!」とした方が
多かったようで、
更新されるやいなや、メールで、ツイッターで、
たくさんの感想をいただきました。

今回は、それをご紹介いたしますね。

・面接試験とか、いや、試験じゃなくてもいいや、
 面接のときに、いろんなことを話し合いますよね。

 これこれについて、どう考えているか、とか。
 いままで、どんなことを考えてきたかとか。
 こういう状況のときに、どんなふうに考えるかとか。
 なになにのことを、どう思っているかとか。
 なにかについて、知っていることを言ってくださいとか。

 話せば、その人の考えがわかるような気がしています。
 そして、いろんな質問が交換され、
 いろんな答えがその場に発表されていきます。

 だけど、そこでやりとりされることが、
 ほんとうに「じぶんの考え」なのかどうかは、
 実はわからないんですよね。

 「こんな質問をすると、その人の考えがわかりやすい」
 「こう答えたら、この場の正解に近い」
 というふうな、パターンがやりとりされてるだけ
 なのかもしれません。

 なんだか、たくさんの人の、とても多くの時間が、
 「正解」を探すことに費やされているように
 思えてなりません。
 いや、遠慮なく言えば、
 「正解」探しばかりで人生終っちゃう人ばかりじゃない?

 こういう女性に、こんな出合いをした
 ‥‥どうするのが正解だろう?
 新聞で、こういうことが問題になっている
 ‥‥どういう意見を持つのが正解だろうか?
 レストランでメニューを見ている
 ‥‥どれを注文するのが正解だろうか?
 どう生きたいのか問われてしまった
 ‥‥どう生きたいのが正解だろうか?

 こんなことばっかりのような気がするんです。
 「正解」じゃないことを選ぶと、損? 悪? 迷惑?
 「正解」病ってのが、いまの時代病のような気がする。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「どうするべきか」を追い過ぎるのも、正解病だよねー。

 (2013年5月9日「今日のダーリン」より)


メールアイコン 「今日のダーリン」を読んで
「感想を送る」の部分をクリックし
文章を書く、その内容にも
「正解」があるのではないかと
意識してしまいますね。

そもそも小学生から大学に至るまでの
ペーパーテストの中で問題に対して
答えが1つしかないという訓練を
12年もやっていたら
自然に正解は1つしかないのかという
思い込みが身についてしまってます
(自分の場合)。

だから何事も正解があるのではないかと
思ってしまうのでしょうかね。

(y)



メールアイコン 今日のダーリン、読ませていただきました。
もやっとしています。

まさに自分がそうで、
常に相手にどう思われるかを考えながら、
その時の正解を探しながら話します。
嫌われたり否定されたりするのが怖い。
反論された時にどう返せばいいのか
わからないから、相手に合わせた返事をして
その場をやり過ごすのです。
それがいいか悪いかは分かりません。

けれど‥‥気がつけば
自分の考えが何なのか分からなくなった
ということは多々あります。

それは=弱さなのでしょうか。
自分の考えはあるのです。
ただ、それを言葉にして出すことが出来ない。
とてももやもやしています。

(ちぃこっこ)



メールアイコン “正解”病、に私も数年前まで
気づかずにいました。
でも、カナダで30歳も過ぎてから
高校生と国語の(カナダなので
“英語”の授業と呼ばれていますが)
夏期講習を受講したとき初めて気づきました。

先生が“正解”に
なんらこだわらなかったのです。

先生が主人公の気持ちを
生徒に答えるようにいいました。
ほとんどの生徒は先生の答えに同意した、
もしくは似た感じの答えを発表しました。

ところがある男の子が、
先生が思いもつかないような
突飛な答えを発表したのです。

私は心のなかで、
“それは、あまりにも違いすぎるでしょ〜”
と思っていました。

しかし、先生はこう言いました。

「私の納得のいくように説明してみて。
 もし、論理的に説明できるなら、
 あなたの答えもありってことにします。」

私は本当にびっくりしました。
答えって1つじゃないんだ!

私が日本で国語の授業を受けたのは
何十年も前のことですが、今、
現在の国語の授業が正解にこだわらない、
子供たちの想像力と発表する力と、
論理的思考をサポートするものに
変わっているといいなぁと思います。

(Naoko)



メールアイコン 正解病! もう長年、
必要以上にこれに苦しめられています!

話しかける時、答える時、メールの返信、
服を選ぶ、髪型を決める‥‥

いつも付きまとう、正解。

迷惑になりたくない。
変な人だと思われたくない。
間違ったことをして、人を傷つけたくない、
自分も傷つきたくない。

本当に疲れます‥‥。

どうすれば止められるのでしょうか?

でも、このまま「みんな」とか
「世間」みたいなのに支配された人生、嫌だ。

自分をさらけ出す勇気なのかな。
抜ける道をなんとか見つけて、
自分らしくありたいな。

失敗も損することも、人生には必要。
そう思えば、きっとどんな道も
ありなんですよね。

「正解」ばかりを行くことが本当に幸せなのか、
考えてみたら案外簡単なことなのかも。
でも、実際は〜‥‥(笑)。

(りん)



メールアイコン 「正解病」患者の私です。

芝居の世界を志し、
その世界に足を踏み入れた20年前に
発病していることに気がつき、今も尚闘病中。
「正解を探そうとする」癖を通過して、
自分の答えを見つけられる所までは
治癒してきてるんですが‥‥。

今、ネットで
「『ごんぎつね』を読んだ小学生が
 『ごんは報いを受けた、撃たれて当然』と
 書いた感想文に議論が起きている」
という記事を読み、
子を持つ親として自分はどうか、
と問うた瞬間、この感想文に対する
他の人の意見を検索しまくる
自分がおりました。
どう感じるのが正しいのか‥‥
自分なりの感じたことがあるのに、です。

ああ、完治への道は遠いなとため息。
それでもこの病を克服したいと、
改めて思ったのでした。

(s)



メールアイコン 正解病。
すごいズキってきました。

20年前に受けた新卒の面接試験の
なんとも言えない嫌さ。
氷河期世代、嵐のように受けまくり、
そのたび傷ついていたのを思い出しました。

四十代になり、
やっと開き直れるようになってきたものの、
やはり自分の頭の中にこだまする正解病の亡霊で
日々消耗しているようです。

普通は、とか、みんな、とか、
やはりどこにも実在しないものに
縛られているのは、結局自分のせいです。

そう言えば、まだ頭が柔らかかった頃は、
空気を読む前に、そもそもなにが大事だっけ?
とよく巻き戻して考えたり感じたり
出来ていたように思います。

だから面倒くさいこともいろいろありました。

今もう一度そこに戻れれば、
今度はシンプルに貫けるように
なれるかもしれません。

(Qタロー)



メールアイコン 私は今年の1月から就職活動を始めて
先日マーケティングの調査会社に
内定をいただきました。

面接を受けていて思ったのが、
質問に対しての正解を探すのは
面白くないということでした。
正解とは自分に嘘をつくことになり、
必ずどこかでつじつまが合わなくなります。

初めは社会人の人に面接練習をしてもらい、
答え方を教わっていました。

自分の本心(ある意味の正解)を述べれば
それでいいと思いました。
そして見事、マッチした会社に決まりました。
嬉しかったです。
正解を言わせない会社でした。

(櫻田)



メールアイコン 正解病、思い当たる節がいくつもあります。

わたしは教員を目指しています。
自分が教師になったら、
生徒には正しいことを教えなければなりません。
正しいこと、というのは
言い換えると正解のことですが、
教師である自分の立場から考えるところの
正しさしか教えられないという限界があります。

公教育に携わる以上、教師の教える正しさとは
普遍的であるべきです。
とすれば、教えられることは
いくつあるのでしょう。

教育実習の際に
ヨーロッパの地理を担当しました。
わたしはその単元を
指導要領で項目として含まれているから
解説する、といった考えでした。
公務員という立場から考えれば
それで十分かもしれません。
しかし、現場の先生方は単元一つをとっても、
何をどのように生徒に理解させたいかという
ビジョンを明確に持っておられました。
自分の言葉で語る必要がありました。
自分の解釈、ものの捉え方、世界観、歴史観、
そういったものが不可欠でした。

当時、わたしは教え方における正解は
ひとつである、と思い込んでいましたが、
実際には先に書いたように、
答えは一つではありませんでした。

そのことに気づいてからは、
より一層自分の考えに
責任を持たなければならないと
考えるようになりました。
説得力のある指導をするならば、
わたしの世界観を通してしか、
生徒にものは教えられないからです。

しかし、ここで一つ問題に気づきました。
それは、果たして自分の世界観、指導観が
公教育に相応しいのかどうかといったことです。
正直なところ、
わたしはそのような自信はありません。

では、わたしは自分が正しいと考えることと、
自分が社会的に正しいと考えることの
タブルスタンダードを使い分け、
教師という役割を果たすべきなのでしょうか。
教師たるもの、自分が教えた生徒に、
このような本音と建前を使い分けろとは
教えたくないですが、
自分はそのように振る舞うというのが
職業としての教師なのでしょうか。

このような考えは
処世術に走りすぎていると思います。

かといって、自分の考えを自分の考えるところの
正しい答えに修正していくべかきか、
というとこれがまさに正解病です。
これはこれで、処世術ですね。

どちらかというと自分の欲望は
いったんおいて置いて、職業としての教師と
割り切る必要がありそうです。

文章を見返すと、〜すべきの多いこと。
我ながら重度正解病患者であると
気づかされました。なおすべきでしょうか。

あ、また使ってしまいました。
それでは、長々と失礼いたしました。

(H)



メールアイコン 私が最近感じている
モヤモヤに少し似ていたので、
思わず感想を伝えたくなりました。

私の感じているのは「正解病」というより、
「絶対ハズレを引きたくない人々」の
存在なのですが。

‥‥別に、「当たり」を引き当てたいのは、
それこそ当たり前のことです。
誰だって、好き好んでハズレを引くために
手を伸ばしてるわけではないのだから。

でも、「何か」を選ぶからには、
当然ハズレを掴むリスクを
背負わなくてはならない。
このリスクがあるから、
「当たり」が得難いものとして輝くはず、
なんですが‥‥。

最近、手を伸ばす前に
『当たり』か『はずれ』かを
他人に訊いて済ませる人が増えたなぁ、
と感じるのです。

「これ面白い?」、
「コレなら間違いない?」、
「○○って、どうですか?」
当たりを一発で引き当てられれば、
それにこしたことはない。
ハズレに金をかけるのはもったいない、
間違った方法で進めたらもったいない、
よく分からない所に行くのはもったいない。

‥‥でもなぁ、ここで「もったいない」と
惜しんでいるのは、何なんだろう。
ハズレを引かずに進むのは、
楽かもしれないけど、豊かではないかもしれない。

子供の頃の福引って、当たったらうれしいけど、
はずれても楽しいもんでしたよね。
いつから『はずれるのは損』って
思われるようになっちゃったんだろう。
間違えるのは、たしかに回り道かも
しれないけれど。
…最短距離こそ至上、ってわけでもなし。

当たってうれしい、ハズレも楽しい。
そういうのがもっと広まればいいのかなぁ。

(ゆずこ)



本当にたくさんの方から、「私も正解病です」という
メールが届きました。

この「病気」、完治や、
社会からの根絶は難しそうです。
対症療法で付き合っていくということに
なるのでしょうか?

でも、名前がついたので、
発見と治療はしやすくなったのでは‥‥。

なんてことを、感じました。
では、また。

2013-05-12-SUN

postman@1101.com宛てのメールは、
乗組員みんなで読んでいます。
これからもご意見、ご感想をお寄せください。
アクセスの数字の後ろに「人」の姿が見えると、
乗組員一同、なによりの励みになるのです。

postman@1101.com 宛に送ってもらったメールは、
このコーナーで紹介させていただくかもしれません。
なのでぜひハンドルネームを記入してくださいね。
また、掲載されては困るメールには、
「載せちゃイヤ!」と書き添えてください。

ほぼ日にいただいた原稿、メール(投稿)等の著作権は
翻案権を含んでほぼ日に譲渡されたものとします。
ほぼ日にいただいた原稿、メール(投稿)等は、
使用する場合に
編集等をすることがあるかもしれません 。

最新のページへ